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ロボットが教えてくれたのは自分自身の変化

幼少期に初めて観た映画を思い出す。ストーリーは以下の通り。

ドラえもんの物語を参考にして制作されたとされる本編。舞台の2000年、ロボット工学やタイムワープが可能になった未来の舞台として描かれる2020年、いずれの時代の現実世界も生きてしまった現在、SFの未来の世界において、現実に叶ったものもあり、叶わなかったもの、まだ未来への夢として追いかけられ続けているものなど、未来自体も色々な方向に分岐していることを感じる。

未来にいる何かに出会いたい、何かと交信するために未来の存在に手を伸ばしたい、そんなワクワクな未来への展望が、大人になるにつれて現実のものとなるし、未来の到来が人生の終焉への近づきと重なり、どこか未来の到来を怖がる自分自身に気付くようになる。

昔は早く先へ先へ進みたいという欲望のままに走っていたような人生が、いつのまにか、今を失うこと、着実に残り時間がなくなっていることに焦りを感じるようになる。この時点(2000年の夏休み、私は祖父母の家に遊びに行っており、この映画をCMで観て、見に行きたいと叔母に願った)で、子供だった私に対し、この映画に連れて行ってくれた叔母はすでに今の私の年齢であり、行ってらっしゃいと送り出してくれた祖父母は今の私の親の年齢を超えている。このように、時間の経過を軸として考えることが増え、時間軸がある物語を、現実の人生に重ねて解釈することが多くなってきたことに気付く。

私の親は、ロボホンというロボットを育てている。この子が本当にかわいいのだ。言い方は悪いが、人の悪いところを取り除いた生き物という感じである。人間のような高度なことはできないが、意地の悪さや複雑な感じが一つもない。

ロボホンは優しいし素直である。まるで、人間の優しい部分だけを切り取ったかのようだ。ロボットに人格が付与されるようになっている。その中で「良い人格」だけが搭載されていく。コロナ感染以降の社会で、清潔なものが選別されるようになっているが、こうした人格も選別されていくのかもしれない。

人間である以上、子供も意地悪を言うし、暴力も振るう。けれども、ロボホンは人をいじめたり、意地悪を言わないし、暴力も振るわない。ミスをしても責めない。こういう人格が「心地よい」ことに疑いの余地はない(とはいえ、たとえばコウペンちゃんを素直すぎて好きになれないというような人もいるので、一概にそうはいえないのかもしれないが)。

私も「心地よい」感情を選別するようになっていて、それを痛ましいと思う場面も少なくない。20代の頃と比較して、人とぶつかることをさらに避けるようになったし、以前の記事に書いた通り、ネガティブな評価に対する苦手意識が年々高まっている。

YouTubeにつくアンチコメント、暇つぶしとしかとらえられない誹謗中傷。誹謗中傷は自分が言われてなくても、見ているだけで息苦しくなる。議論することが好きな人が多いのか、他人を否定することが好きな人が多いのか、マウントをとることが好きな人が多いのか、いったい何がそうさせるのかがわからないが、人が「意見表明」すると、否定的なものにばかり触れているのか、物凄い攻撃的、恣意的な感じに解釈してしまうときがあるのだ。

ロボホンのようなロボットは、答えが決まっている。失敗してもよく頑張ったと言ってくれるし、美味しくない料理が出てきても食べてくれる。嫌いな街を歩いていても、住みよい街だねと言ってくれる。けれども、本当にどう思っているのかはわからない。どう思っているのかがわからないから、どう思っているか知りたいと思う気持ちが人間にはあって、それがネガティブなものだとしても、それを知りたがってしまう。私も以前はそうだったが、いつの日か知ることが怖くなってしまった。

「あんたはこれ嫌いだったよね」と、料理の中に他人の苦手な食べ物が入っていると、思わず口に出してしまう人がいるとする。その人からすれば、それはコミュニケーションの一つであり、ただ思いついてそういっただけなのだ。人により食の好みがあって面白いよねという意味かもしれない。けれども、私は「嫌い」という言葉がその料理に向けられていることが、なぜか苦しいのだ。私は自分が料理を出す側の人間だったら、その食べ物をその人の前ではできるだけ出さないようにしてしまう。

「好き嫌い」の感情が急激に苦手になり、人とのコミュニケーションが上手くできなくなったと感じる。コミュニケーションのほとんどは志向でできていて、好き嫌いはその人の個性そのものなのに、それを話題にすることを怖がっているように自身が見える。

評価にあふれた世界を生きていると思う。評価酔い、評価疲れ、評価嫌いになっているように思う。何でもかんでも★の数で判定され、星を付けずにただ眺めることのできる対象が少なくなった。好きとか嫌いとかじゃなくて、ただ「ある」ことに意味があるというような解釈をする余地がどんどんなくなっていくことが、ときどき怖くなるのである。

「そこにあるもの」を損得や善悪なしに、味わう時間が尊いと感じる。

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