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空を見下ろしたっけ?

久しぶりに私の大切な休息場のひとつ、コメダに行った。
自宅から歩いたが、その間、今日の太陽は日傘を無視して、季節の変化を伝えてきた。
店の手前で傘を閉じると、体が直陽(じかび)を受けた。
「あっつ(暑い)」と感じながら空にスマホを向けた。

サングラスをしていなかったから、眩しすぎて空も太陽も直視できない。
私の目は子供の頃から強い光に弱くて、晴れの日に撮った集合写真は全て、下を向くか、眩しさを我慢して顔をしかめているかのどちらかだった。
そんな訳で、太陽は多分この辺りだろうと、勘を頼りに撮影ボタンをタッチした。

撮れた写真を見て「太陽強烈。空も濃い」と思ったのも束の間。妙な感覚に落ちた。

空を見上げて撮ったのに、写真上の太陽は、まるで私が上の方から「見下ろしていた」ように見えたのだ。
例えば、池を覗き込み、池底にある太陽にレンズを向けたかのように。

空って上にあるのだっけ?
もしかして下にあるとか?
「上にある」のは私の思い込みっていう可能性もあるかもよ。
宇宙空間に上も下もないよね。
だいたい地球は本当に丸くて、宇宙空間なんてものもあるのかな。
この目で確認したことないし。
思わぬ方へ思考が回り始める。

そんな事を考えていたら、これまた思いがけない事を思い出した。

幼稚園くらいの時、「日本の裏側にアメリカがある」とどこかで聞いて、「人の手を借りずに外国に行けるかもしれない」と思った私は、園芸用の小さいシャベルで家の庭を掘ることにした。
地面を掘って行けば「裏側の国」に辿り着けると思ったわけ。

希望に満ち溢れ黙々と土をつつきながら、家の庭に体を置いて、私の心は見たことのない異国に飛んだ。
嬉しい。アメリカ見られるかもしれない。
おそらくそんな事を考えていた。

こうして今思い出すと、幼い私の世界は制限がないなぁ。最初から不可能の方面への結果を想像していない。
やりたいことをやってみるのみ。
可能性と楽しみしかない。

それで、「アメリカに着いたら、自分は土の中から顔を出すはずだけど、そしたら(日本から見たら)逆さまだから、地面から空に落ちるのか?」とか、「でも、アメリカ人が大丈夫なら私も大丈夫」とか、疑問もわきつつ、土に向かった。

その挑戦はわりと直ぐに諦めることになった。
花などの植物が生えていない庭の真ん中辺りを選んだ為、踏み固められた土が硬くて硬くて手も足も出なかったのだ。
子供の私には、高くはないが硬い壁だった。
残念ながら、あの時の計画はあの日に終わった。子供は見切るのも早い。

その後成長しながら、私も「地球の内部にはマグマがある」とか、「中心核付近の温度は太陽の表面温度と同じくらいの超高温になる」など、どこからともなく新しい知識を得てきた。

その度に「あのまま掘り続けられたとしても、地球の反対側に出る前に、私はマグマにやられていたのか」や、「太陽の温度だと熱そうだから、やっぱり生身では難しかった」と思ったりして、なぜか「庭を掘ってアメリカに行く」ところに結びつく。

自分でも不思議だけれど、私の中ではその挑戦は今も静かに生きているのかもしれない。そしてほんのたまに目覚めて、私を愉快な気分にさせてくれる。
「外国なら飛行機で行けるから」なんて、夢の無いことは言わない。

そんな私なら言うだろう。
「空が下にあるわけないよ」なんて決めたら冷める。

確かに。

「中心核付近の温度は太陽の表面温度と同じくらいの超高温になる」のなら、地球の中にミニ太陽があるかもしれないよ。
そうなると、太陽を見下ろすのはありかもしれない。

私をファンタジーの世界へいざなった今日の写真

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

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