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短編集 英単語の一文字より

episode6:mask

私は偶然、見てしまった。
マスクの下の素顔を。
まったく見るつもりなどなかった。
たまたま路上で、突然靴紐が切れ、しゃがんでいただけだった。
だからあくまでも〈偶然〉である。
だが、おろしたての靴の紐が、何の予兆もなくプツリ、と切れたのは偶然、ではない。
今となってはそう思うしかないのだ。
何か運命、を予感させる出来事を暗示させるかの様なその一瞬を忘れる事は出来そうもない。

「何でだよ!?」
当然ながら、私はそんな怒りと苛立ちにブツブツ文句を言いながら、新宿の繁華街でしゃがみこんだ。普通なら切れるはずはないのだ、今日初めておろしたばかりのスニーカー、足慣らしに履いてみようと準備万端だったのだから。
だが、紐は切れていた。いや、それはまるで何かスパッと鋭利な刃物が風の様に行き去った時、の様に切れていた。確かにその日、都会は強い風が時折舞っていた。行き交う人々の悲鳴も聞こえる程、突風は人々にイタズラを仕掛けているらしい。
人々はmaskに覆われ、その顔を見る事もない。そんなものをしていないのは私ぐらいのものだ。数年前から世界を襲った謎のウイルス、とやらは人々からコミュニケーションを奪い、mask=仮面を着けなければ表立って歩けない程、人々の心を萎縮させた。だから、彼らがどんな顔をしているか、よほど近しい人でさえ忘れてしまった。マスク越しの会話、mask越しの食事会、なかにはmask越しのセックスだってあるそうな。
私は「かまいたち」に靴紐を切られた怒りなど、忘れたかの様にそんな風のイタズラに戸惑う人々を遠めにみていた。

そんな時、ビジネススーツ姿の一人の女性が顔を覆っているのを見た。どうやら私と同じ〈かまいたち〉にやられたらしく、風に切られたmaskが片耳からぶらり、と垂れ下がっている。そしてそこには血の様なものが見えた。私は思わず自分の事を忘れて彼女に駆け寄った。
「大丈夫ですか、怪我はありませんか」
私はごく普通に声をかけた、つもりだった。
だが、駆け寄る私の気配に女は明らかに動揺した様に、女性とは思えぬ声で、
「近寄るな!」
と、叫んだのだ。
その異様な声に私は立ちすくんだ。
そしてその瞬間、私には見えたのだ。
切れたmask、のその先、人間の顔の奥底に覗く異様な何かを。
女はササッ、と切れたマスクを直し、何事もなく立ち去った。その後ろ姿はごく普通のビジネスウーマン、でしかなかった。
そんな出来事など、何も起こらなかった様に人々は街を行き交っていく。だが、私は何が起こったのか分からぬまま、そこにボンヤリと立ちすくんでいた。
そして私は足元に微かに飛んだ、血液らしきものに目をやった。
確かにそれは血、に見えた。
だが、それは赤くはなかった。
どす黒い、いや深みがかった緑色の液体。
私は立ち去った女の方を見たが、すでにその姿は人波に消えていた。
〈かまいたち〉は、突然現れ、そして去った。

ネットに飛び交う陰謀論、の中にレプティリアン、というものがある。人類に紛れて爬虫類の顔をした宇宙人、が存在する、というものだ。彼らは人間のmaskをつけて、ごく普通の人間として、いや、今や権力者側として人類を支配している、云々の話。ジョン・カーペンターの映画【ゼイリブ】というのも、その話がモチーフだと言われているが、所詮陰謀論や都市伝説の類だと、私は「信じていた」。世の中のウイルスに関する報道にさえ、耳を貸さず己の本能と直感を信じて生きてきた。同調圧力なんざ平気のへ伊佐、信ずるのは己の考え、己の目、だけ。だからそんな私はネットに飛び交う陰謀論などは話半分、絵空事だとたかをくくっていたのだ。
だが、見てしまった。
その「素顔」を。
あの女が、マスクの先に隠していた違う仮面=mask、いや正体を。
あれは確かに人間、ではなかった。
爬虫類、の肌をした生物。
人間のmaskを被った、その肌の下に何が蠢いていたのか。

私はその日、寝れなかった。
途端に得体の知れぬ恐怖を感じたからだ。
彼女は私にその正体を見破られた事を「知っている」のか?いや、彼女「だけ」がその仮面を被ってこの世界にただ一人生きているわけではあるまい。
仲間がいる、はずだ。
あの後、その事実を仲間に知らせていたら、私はその『監視対象』に置かれているかもしれない。なんせその正体を知ってしまったのだから。レプティリアン、が実在する、と知ってしまったのだから。あの映画は現実だったのだ。この世界に人間以外の何者かが、人間のmaskを被って共存している。いや、人間が支配されているのかもしれない。

それ以後、私はマスクを着ける様になった。
ウイルスが怖い訳ではない。
私の存在を、奴等が知ったら、という得体の知れぬ恐怖からだった。
そして同時に他者を見る目も変わった。
マスクをしている人々は本当に人間なのか?
それとも既にあちら側に変わっているのか?
誰もがmask=仮面をつけている世界で、確かに「断絶」は起きていた。
人と人との断絶、より遥かに深い深淵が。

その頃、世界のある場所で紛争、という殺しあいが始まった。それが国vs国、の戦いに見えて実は人間vsレプティリアンとの戦い、である噂話が囁かれているのはまた別の話。
はたまた、世界中の要人が、人間のゴムマスクを着けて権力を握ってる、なんて話も別の話だ。

mask=仮面、顔を覆うもの


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