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供養

 以下は、今年度の大学の講義で書いた短い小説ですが、どこにも掲載する予定もないので、供養としてここに置いておきます。

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茶店にて

 その日、通された席の足元には、床材が腐り落ちて片足がすっぽりとはまるほどの穴があいていた。以前何度か、ものは試しとその穴に足を差し入れてみたことがあるが、汚水でじめじめした土の表面を靴底で撫でると、彼岸の溜息のようにひんやりとした風が吹き込んできて、そんなことをした翌日には決まって熱を出したものであった。
 玻璃製の碗の中では、幾度となく漉され粉状になった葉が薄雲のように揺蕩っているので、底に描かれた絵を見ようと目を凝らせば、たちどころに眼窩に不快な緊張が走る。眩暈をもよおして一度またたくと、口端から流れ出た油の浮かぶ水面に、ただ薄ぼんやりと浮かぶひしゃげた顔があった。碗の残りを空にして、軒先へと目を遣る。ひしゃげた顔もまた、茶とともに喉元を過ぎ、臓腑へと染み込んでいった気がした。
 いつものように、通りに面した軒先は西日に射られ、煌々と朱に染めあげられた行き交う人々のさまは、常夜灯の提がるほの暗い店内とは好対照をなしていたが、ぎしぎしと神経に触る音を響かせながら狭い沿道を驀進する錆びついた銀輪を、なんとか躱そうと右往左往する人の群れもまた、天に提げられた、より輝かしい常夜灯に引き寄せられるように、店の通用口から流れ出た油の織り成す模様のごとく、男の目には映った。
 軒先から視線を戻した男は、かかる油の流滴がいつとはなしに、自分の斜向かいにも座していたことに驚いた。熟れた鬼灯(ほおずき)のような女の顔は、暗い店内でも煌々と朱に輝いており、その目は斑(ふ)のように黄色く濁っていて要領を得ないが、強い視線が手元にさし置かれた豆乳のスープに注がれていた。
 男は鬼灯から目を逸らした。飲み込んだはずのひしゃげた顔が臓腑を逆流し、舌先までせり上がってくるように感じられたからである。ひしゃげた顔が化石のように浮き出た舌で何を語ることが出来るだろう。誰がそのような者の語りに耳を傾けるであろうか。
 男の閉じた瞼の裏には、楽園が広がっていた。その地には一面に柔らかな草が息吹き、黄金色の風を吹き上げている。野辺を取り囲むように流れる小川の水底には、数日前にこと切れた大蛙が仰向けに沈みこんでおり、まだツボカビに覆われていない下腹部を四、五匹の鮒が熱心に貪っている。だが、食い荒らされた下腹部から何が飛び出してくるか、わかったものではないではないか。
 いささか落ち着きを取り戻した男は、徐に目を開いた。空になった碗はいつのまにか下げられてしまったようである。鬼灯の窪みにしか見えなかった斜向かいの目は、閉じられてはいたものの、先ほどより少し大きくなっているように思われた。女は疲れたのか、うとうとと舟を漕ぎはじめ、あたかもそのさまは、「小さい人たち」が鞠をついているかのようであったが、面と向かった相手の背後にそのような存在を見てとることは、彼にはまだ躊躇われた。男は再び目を瞑った。瞼の裏に広がる楽園がせり出してきた。水底には大蛙の跡形もない。かつて蛙を喰らっていた鮒たちも、流れの緩い場所で遊泳している。小川のほとりに目を向けると、ひときわ大きな生き物が這い回っているのが見えた。生の豚肉のような色をしたその生き物は、サテン地でできたクッションのような体表から粘液を分泌し、黄金色の風に吹かれると眩い照り返しを生じていたが、そこに〈綴じ目〉を見いだすことはついぞできなかった。
 不意に金板を切り裂くような音が轟き、生き物の体表がびりびりと震えた。楽園が反転し目を開けると、朽ちた腕を擡げ、そこから垂れ下がった襞つきの袖を蝙蝠のように広げた店主が、厨房に吊られた銅鑼を打ち鳴らして、居眠りは遠慮してくれと鬼灯に向かって抗議しているところだった。なお、店主はこちらにも振り返って、まだ居座るつもりなら注文をするようにと付け加えた。
 二杯目の茶が運ばれてきた。鬼灯の目は、その顔をなかば覆い隠しつつあった。瞼の裏の楽園は、ある種の強迫観念をもってこちらへと波のように押し寄せてきていたが、そのときにはすでに私の関心は目前の光景へと移っていたのであり、楽園はもはやそこから立ち去るべき場所へと変じつつあった。成長し続ける目によって語る口までも覆われてしまう前に、今こそ鬼灯の言葉に耳を傾けるのに良い頃合いではないだろうか。鬼灯の口からは、せせらぎのように言葉が流れ始めた。
 ここに通うようになってからというもの、あなたが試みてきたことといえば、まるで自分の影を踏みつけにしようと追い続けているかのようです。仮にこの店中の茶をすっかり飲み干してしまったとしても、あなたが追っているものを捕まえておくことなどできやしないでしょう。本当のところをいえば、それは捕まえておく必要さえないものなのです。碗の底に描かれた絵についても、あなたが今日にいたるまでそれを目にする機会が訪れてなかったのは単に偶然などではありません。それは、その絵にしても、それ自体がなにか重要な意味を秘めているわけではなく、むしろ、ことが明かされた暁に、そのしるしとして与えられるものなのです。あなたはそこに火と雷とを懸けましたが、それはそういったことを超えて向こうからやって来るでしょう。
 女は口をつぐんだ。言葉を尽くして語る口を失ったからである。時もまた尽きた。私は、女の口を通して「小さい人たち」が語ったのを知った。「小さい人たち」は女を通じて、私の聞くべきことを語らせたのであった。それを悟ったとき私は、自らの目にすっかり呑みこまれてしまい、いまや鞠のようになった斜向かいの鬼灯こそを、足元の窪みへと導いてやればよかったのだろうか。そのような思いが一瞬胸裡をよぎったが、すぐに打ち消した。たしかにそうしていれば、私もまた、このうらぶれた茶店を再び訪れる機会を望めたであろう。しかし「小さい人たち」はすでに姿を消し、私を楽園から追い立てたのと同じものが、いまや茶店からも立ち去るよう示しているのは明らかであった。
 私は茶の残りを足元の穴へと注いで代金を卓上に置くと、店主に一礼して颯爽と立ち去った。碗の底に描かれていたのは、銀細工の上でひときわ輝く金の林檎であった。女がかき混ぜていたスープの面には、さっきとはうってかわって、けたけたと笑うひしゃげた鬼灯のような顔が揺蕩っていたが、その哄笑はといえば先ほどまで男が座っていた足元の穴の奥から聞こえるものだから、女は淡い不安に駈られたのであるが、やがてはその不安も夕暮れの街の喧騒へと飲み込まれていき、店仕舞いを告げる老店主の銅鑼が辺りに虚しく響き渡るのであった。

(2699字)

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