科学について~陰謀論と科学~

人類はいつの時代にもその時にできる限りの力を使って科学を発展させてきました。素手で獲物と戦うより、落ちている石を投げた方が相手を倒しやすいことを発見し、その石と木の棒を組み合わせて武器にしたり、石を研磨することで殺傷力が高くなることを発見したりしました。
また、作物などがどのような地形・環境で育つのか観察して利用したり、天候などがどのように変化するかを観察して生活に役立てたりしました。
現代と比べればまだ未熟であったり、間違ったことを信じている部分はありますが、それは現代の科学でも同じことが言えます。未来の人からすれば現代の科学は未熟で間違っていると言われるでしょう。

しかし、私たち人類はどんな時代においてもこの世界を理解しようとし、挑戦(トライ&エラー)を繰り返して「真実」を求めてきました。
そしてそれこそが「科学」であり、科学の出発点となります。

今、コロナ禍の時期において何が真実で何が間違いか見極めることは難しい状況に人々は置かれています。しかし、人類がもっとも鍛えてきた生き残るための力は「科学」です。身体能力の低い人類がこの世界で生き残るために使った固有スキルが科学の力です。

科学の力はこのコロナ禍を生き延びるためにも必須となるでしょう。
だからこそ、科学とはどういったものかについて今一度整理をしておかなければならないと私は考えています。
この記事では私なりに科学を分解して整理しています。この記事の内容が正しいとか、それがすべてということはありませんが、基礎的な組み立ては一般常識としてどんな人にも納得して頂けると思います。

ひとつ結論のようなものを言うと、現在のコロナ禍の議論において「証拠偏重」的なものが多いように感じます。私たちは「科学」というものの成熟期にいるのだと思っていることからくる主張だと考えられます。証拠があることは科学にとって非常に大きな意味を持ちますが、証拠がないからといって科学ではないということではありません。そのことについてこれから説明していきます。

科学の要素

科学とは何かという問いかけは科学哲学という分野になります。
色々なものがありますが、この記事では科学の要素ということで3つの要素を挙げてみます。科学を分解してみたとき、大まかに3つに別けられると考えてみました。この分別をすれば、ここ最近の議論がどう科学的でないかが見えてくるのではないかと思います。

3つの要素

「技術」
ひとつ目は科学技術です。
これは科学要素の最終段階、表面に出てきたものです。
石斧も科学技術ですし、磨製石器も科学技術ですし、電子レンジや冷蔵庫も科学技術です。これらの科学技術を実現可能にするのがふたつ目の要素です。

「知識」
ふたつ目の要素は科学知識です。
観察と挑戦によって得た知識です。水の沸点や電気の特性、太陽の温度、病原菌の存在など生活の多くはこうした科学の知識が利用されています。
自然の理屈が解明できればそれを応用して色々なモノを作れます(科学技術)。
新型コロナウイルスにも、まず症状を観察したり、病原菌の観察をしたり、ワクチンや薬を投与してみたりと、知識を集めることに力を入れています。
データも科学知識のひとつです。
ではこの知識はどうやって生まれて来るのか?それがこの記事の本題です。

「精神」
みっつ目の要素が科学精神です。
科学精神とは何かというと「心」です。科学の知識が生まれるには様々な「心」が出発点となっています。

感動する心
不思議に思う心
疑問に思う心
自然を畏れる心

他にもたくさんの「心」があります。
好奇心や恐怖心、憧れ、興味関心など多岐にわたります。
雨が降るのはなぜか?作物が育つのはなぜか?病気になるのはなぜか?などまずは疑問に思ったり、調べたいと思ったり、おかしいぞと思ったり、そういう「心」がなければ知識は生まれないのです。
野生の動物はとても記憶力が高いです。
特にエサのある場所についてはよく覚えているようです。
生きるために一番大事なのは食べ物ですから当然といえば当然なのですが、他の動物はそこで終わりです。つまり「なぜこの食べ物がこの場所で育ったのか?」という「心」がないのです。だから調べません。実験しません。
もしかしたらあるにはあるのかも知れませんが人間のそれとは異質でしょう。

もう少し言うと、因果関係を調べようとはしないということでしょうか。
これは恐らく野生の動物はそういうことをするメリットがないか、因果関係を調べている余裕がないなどの理由で発達しなかったのかも知れません。
たまたまラッキーなことがあればそれを記憶することについては長けていますが、なぜそのような現象が起きたのか、科学的に検証することはないでしょう。

私たちの身の回りにはよくわからないこと、知らないことが溢れています。
もう解明されているもの、まだ解明されていないもの入り乱れています。
その中でも都市伝説や怪談話といったオカルト分野を楽しむ習慣はとても人気があります。未知のもの、不思議なものへの好奇心は知識を生み出す非常に強い原動力となります。生きるために必要かどうかだけではありません。

さて、前置きが長くなりましたが本題に入ります。
オカルト分野でも一大勢力となっているのが「陰謀論」です。
この陰謀論なのですが、科学がどのように関わっていけるのかを考えてみたときに、まず「常識では測れない」という特性がある以上、「技術」および「知識」があまり役に立たないことが多いです。
陰謀論の多くは現代科学の技術や知識では説明できない(荒唐無稽な)陰謀が紹介されることとなるため、第一印象としてはにわかに信じがたいです。
しかし、現代科学の常識から外れているからといって非科学的だと指摘するのはそれこそ非科学的な態度です。なぜか?それは「精神」が抜けているからです。科学を構成する根本支柱は「精神」だからです。
「技術」と「知識」で説明できない、食い違うからといって否定するのは科学精神ともっとも食い違う行為です。
では「陰謀論」を科学精神という要素から見ていくとどうなるでしょうか。

「陰謀論」の二要素
陰謀論を見ていくとき、以下の要素に切り分けてみます。

1.証拠の有無
2.可能性の有無

1について、これは「無い」ことが多いです。
あるいは証拠とされていても間違っていたり勘違いだったり、ひどい時には捏造である場合もあって、陰謀論が非科学的だと言われてしまう最大のポイントとなっています。1についてはこの記事でこれ以上掘り下げることはしません。

2について詳しく掘り下げていきます。
可能性の有無なのですが、例えば「世界を支配する一族がいる」とか、「コロナワクチンは人口削減計画だ」というような陰謀論について、どのような認識をすればいいでしょうか?

もしこのような主張を聞いたとき、説明を求める、あるいは証拠を求めるのはとても正しい科学的な態度です。頭から否定したり、鵜呑みにするのは科学としては危険な態度です。精神とは態度とも連動していますので、科学精神として正しいのは説明や証拠を求めるという「心」です。
疑問に思う、確かめたいと思う心は科学を支える柱です。

「陰謀論」の取り扱い
ここからが重要な部分になりますが、もし「証拠はない」となればどのように認識するのが科学として正しい態度なのでしょうか?
ここにおいて今現在コロナ禍中で繰り広げられている論争の核心があります。
例えばワクチンについて反対だと主張する人の主訴において、その「精神」部分、発露点はやはり「なにかおかしい」という心からでしょう。
そしてその疑問を持つことは科学として非常に正しい態度です。

しかし、現在の論争では証拠がない、あるいは説明ができなければ即座に非科学的だ、陰謀論者だと非難される状況があります。
証拠がないからといって非科学的にはなりません。それは、科学というものを「技術」と「知識」の要素でしか見ていないからそういう発想になるのです。
科学においてもっとも重要なのは「精神」です。科学精神がなければ技術も知識も生まれません。「証拠の有る無し」で科学的かどうか、陰謀論かどうかが決まると考えているほうが極めて非科学的な考えであり、危険思想です。

科学というのは常識を破るところから始まります。
陰謀論を信じろと言っているのではありません。
あくまでも証拠の有無で判断してはいけないということです。

新しい知識が生まれる前、証拠などありましたか?
かつて冥王星は存在を知られていませんでした。
言ってみればUMA(未確認生物)やUFO(未確認飛行物体)のようなものでしたので、冥王星の存在を主張しても「証拠」は出せなかったのです。
しかし、発見者は冥王星があると思われる位置の周辺の星の軌道が「おかしい」と思って調査を続けていたのです。そのちょっとした疑問、おかしいと思う心が冥王星の存在を証明するに至りました。

冥王星の存在が確定する前に証拠など出せません。
これは論理的なことですね。ある物事を証明するためには証拠が必要ですが、その証拠を掴むまでは証拠はありませんので、どんな物事もまずは証拠不在から始まるのです。気を付けて頂きたいのは「だからと言って陰謀論を信じろとは言ってない」ということです。

少しまとめます。以下のふたつの結論になります。

1.証拠がないからといって陰謀論だと否定しない
2.しかし、証拠がない以上それを有るものとして扱うこともできない

ものすごく煮え切らないですが、これが科学的に妥当な結論です。
しかしここからがこの記事の本当の結論になります。

「陰謀論」は実在する
ちょっと危険な主張に見えますが、安心してください。
基本原則はちゃんと今までの科学を踏襲します。

さてこのような結論についてなのですが、これは「論理的に」正しいのです。
なぜかというと、その陰謀論は証拠の有無、可能かどうかに関わらず「その陰謀論の内容を考えた者がいる」ことは紛れもない事実だからです。
それが実行されているのか、そんなことができるのかという側面で陰謀論を考えてしまいがちですが、その陰謀論の内容については「考えついた者」が確実に存在していますね?

例えば人口削減計画が進行しているという話、実際に進行しているかどうかはわからなくとも「人口削減計画というものを考えついた者が存在する」のは確実なことなのです。そして、それがこの世界を動かせる者が同じことを考えついたとしたらどうでしょうか。その可能性は否定できません。
なぜなら、陰謀論者がその存在を証明しているからです。
人口削減計画というものを思いつく人間が存在するということはその陰謀論者が自ら証明していますね。その陰謀論者が悪の心と世界を動かせる権力を持っていたらその「人口削減計画を実行している」でしょう。

以上のことから、陰謀論というのは実在します。
その陰謀論を考えついた人物がそれを実行しない・あるいはできない状況だから実行されていないだけで、条件さえ揃えばそれは起きる恐れがあるということです。
軍事では当たり前のことですが、「敵がどんな手を使ってくるか」ということをできる限り出し尽くします。どんな卑怯な手でも使ってくるという事を前提に作戦を立てます。楽観は死です。「そんなことありえない」ではなく「もしかしたらありえるかも」というのが大前提です。
極めて科学的で合理的な考え方です。
証拠などありません。でも備えるのです。
証拠の無いものに備えるのは非科学的で非合理的でしょうか?
証明できないものに備えるのはおかしいでしょうか?
リスク管理という面ではそれほどおかしくはありません。

一度、自分が支配者となりたかったらどんなことをするだろうかと考えてみてください。考え得る限りの卑怯な手、残忍な方法、倫理のかけらもない手法を悪魔になったつもりで考えてみてください。この記事を読まれているみなさんは善良な人だと私は信じています。その前提で話を進めると、その善良な一般人でさえ、恐ろしい計画を考えつくものだと実感してみてください。

自分に反対する者がいたらどうしますか?
マスコミを支配できるほどのお金を持っていたらどうしますか?
政治家の弱みを握っていたらどうしますか?

善良な人は良いことにその力を使うでしょう。
しかし残念なことにそうした権力者や富裕層が善良だとは限りません。
では今、みなさんが考えた恐ろしい計画を実行できる権力や財力を持つ者がこの世界に実在したらどうでしょうか?
その人物が善良な人であることを願うばかりですが、善良でない場合・・・
いや、悪魔のような人物であった場合の備えは必要なのです。

「馬渕大使から学ぶ」こと
でも具体的にどう備えるの?ということですが、これは馬渕睦夫さんという方が仰られている「精神武装」が一番適当な言葉だと思います。
まさに「精神」の武装だからです。
具体的には「まだ証拠がない、証明されていないことでも否定せずに目を光らせておく」ことです。積極的に信じろとまでは言いません。しかし、やはり人類の歴史を振り返ってみると人々にとっての「敵」はいます。

自分のことしか考えず、他人などどうなろうとかまわない。
平気で自国民を大量虐殺する者や、国民を騙して戦争を始める者、ユダヤ人が病原だと主張する者、ありとあらゆる悪魔の知恵を使って私たち国民を不幸にしてきた者は事実存在しました。
今、現代にそのような者がいないと思いますか?
もう戦後は世界が平和になってそんな悪魔のような者はいなくなったと思うのですか?
私はまったくそう思いません。これは陰謀論でしょうか?
世界には悪魔のような者がいて、また人類をめちゃくちゃにしようとしていると考えるのは陰謀論なのでしょうか?

・・・証拠はありません。
科学の「技術」と「知識」という側面だけで考えるなら、与太話でしょう。
しかし、科学の「精神」から見ればこの懸念は極めて科学的だと考えます。

証拠がないから陰謀論だ。
証拠がないからそんな悪魔は存在しない。

本気でそう結論付けるのが正しいと考えるのですか?
「おかしい」と感じる精神を無視して科学は成立しません。
そしてその感性を否定することは人間性をも否定することに繋がります。
「証拠偏重」と冒頭に書きましたが、この世界は裁判所ではありません。
証拠がすべてではないのです。

「疑わしきは罰せず」という精神には私も同意します。
しかし「疑わしきは備えず」という精神には反対です。

例えば「地震の予知ができる」という人の話を聞いたところどうも予知できていないと結論付けることと、地震に備えなくていいということは別です。
なので「コロナワクチンで不妊になる」ということがデマだったとしても、それだけでワクチンは安全ということにはなりません。

以前の記事で「偽旗作戦」について書きました。
https://note.com/seorituhime/n/nb7f508ac992d


わざと在りもしないと確定している「不妊になる」というデマを流布させて、後でその主張を完全論破することで「ワクチン否定派は嘘つき」というイメージを植え付けるという作戦は誰でも思いつくでしょうが強力です。
偽旗の証明は非常に難しいですからね。
このような偽旗作戦の可能性ですが、私が敵側で悪魔の心を持っていたなら実行するでしょうね。強力なので。事実あの不妊デマが偽旗なのかどうか不明ですし、仮に偽旗だったとしたら大成功していますね。
私が敵側の悪魔ならまずこの作戦は実行します。成功間違いなしです。
ワクチン否定派は大打撃を被りますからね。

証拠はありません。
ですが、証拠がないからといって切り捨てて良いことでしょうか?
この作戦ですが「少なくとも私は思い付きました」よ。
ナチスの宣伝相・ゲッベルスもこの作戦は大いに活用していますよ。
証拠がないというだけで備えなくていいのでしょうか?

備えていたなら、この一連のマッチポンプ感溢れるワクチンデマ騒動に対してもっと冷静に対処できたはずです。少なくとも「ワクチン否定派はデマ集団」という「敵側のレッテル貼り」に協力してしまうことは無かったはずです。

まず事実として、悪魔はいます。
必ず存在します。そしてそれらは常に私たち人類が不幸になるように行動します。それが彼らにとっての幸福になるからです。
これは陰謀論ではなく人類の歴史です。
そして今現代でも存在するでしょう。
これは証拠はありません。
しかし、合理的であり妥当な結論です。

証拠だけが物事の妥当性を決めるわけではありません。
今までの経緯、歴史から導き出される推論もまた科学的な妥当性を持っているのです。
今、ワクチンパスポートを準備しているようですが、ここに来てデジタル庁がマイナンバーカードとセットにしようとしています。
デジタル庁構想案、コロナパニック、ワクチンパスポート、マイナンバーカードとの紐付け。
予想通りの動きですね。

ワクチンを打っていない人は制限を受けるというのは、まだ説明ができます。しかし、ワクチンパスポートはそれを「マイナンバーカードを持ってない人は制限を受ける」ということにします。
マイナンバーカードを作らないと制限を受けるというのはどのような妥当性があるのでしょうか?
中国ではスマホにウィーチャットというアプリが入っていなければ生きていけません。これは誇張ではなく現実です。ウィーチャットがなければ何も買えません。食べ物も衣類も全てウィーチャットで支払います。

ワクチンパスポートを足掛かりにして、つまるところはマイナンバーカードの強制になっています。マイナンバーカードにはたくさんのメリットがあることは私も理解していますが、これを作成するかどうかは個人の自由であるべきです。
中国のようにマイナンバーカードを作らなければ生活に困る、制限を受けるようなことがあってはならないと私は考えています。

ワクチンパスポート自体、私は反対ですが、マイナンバーカードとの強制紐付けによってマイナンバーカード反対派からも声が上がりそうですね。
このような一連の流れを私は「おかしい」と思っています。

「技術」と「知識」に囚われた科学(のようなもの)は科学ではありません。もっと原初に戻って、おかしいと感じる心、調べてみようとする心を大切にする時が来たのだと思います。
コロナ禍は人類史に残る転換期になるでしょう。

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