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ユートピア主義への批判

「この論点を一般化すると、ユートピア的態度への更に進んだ批判になる。この態度が実践 的価値をもちうるのは、おそらく若干の修正は加わるとしても、もとの青写真が完成に至るま での作業の基礎であり続けると仮定する限りにおいてであることは明らかである。だがこれに は時間がかかる。それは政治的にも精神的にも革命の時期であろうし、政治の分野での新しい 実験や経験の時期であろう。それゆえ思想や理想も変化することが予想される。もとの青写真を作成した人々にとって理想国家と思えたものが、その後継者たちにはそうは見えないかもし れない。このことを承認すれば、この態度全体が崩れ去る。最初に究極の政治的目標を確立し その後にそれに向かって動き始めるという方法は、その実現過程の間に目標がかなり変化しう るということを認めるならば、空しいものとなる。いままでとってきた措置が新しい目標の実 現から現実には逸れるものであることが、いつ何時明らかになるかもしれない。またわれわれ が新しい目標に合わせて方向を変えるならば、再び同じ危険に身をさらすことになる。われわ れが払ったすべての犠牲にもかかわらず、どこにも到達しないかもしれない。ピースミールな 妥協の実現よりも遠い理想へ向かう一歩を好む人たちは、その理想が非常に遠い場合には、その一歩が理想に近づく一歩であるのかそこから遠ざかる一歩であるのかを言うことさえ困難 になるかもしれないということを常に記憶すべきである。このことは、ジグザグの歩みをとっ て進まねばならない場合や、ヘーゲルの隠語によれば「弁証法的に」進まねばならない場合、 また進路が全然明瞭には計画されていない場合にはとりわけそうである(この問題は、目的は どの程度まで手段を正当化できるかという、古くまた幾分子供っぽい問題と関連する。いかな る目的も決してすべての手段を正当化することはできないという主張は別としても、私はかな り具体的で実現可能な目的は、もっと遠い理想では決してなしえないような一時的手段の正当 化をなしうると考えている)。  いまや、ユートピア的態度を救うことのできる道は、プラトンのように唯一の絶対不変の理 想を信じることとともに、更に二つの仮定、即ち(a)この理想が何であるか、および(b)その 実現のための最善の手段は何であるかをきっぱりと決定する合理的方法が存在するという仮 定、を付け加える以外にはないことが分かる。ユートピア的方法論が全く空しいという宣言を 阻止できるためには、このような遠大な仮定をする他ない。だがプラトン自身や最も熱烈なプ ラトン主義者でさえ、(a)は確かに真ではないこと、究極目的を決定する合理的方法は存在せ ず、あるとすればある種の直感以外のものではないことを認めるであろう。それゆえ、ユート ピア工学者たちの間に何らかの意見の相違があれば、合理的方法が存在しない以上、理性の代 わりに力の使用、すなわち暴力に行き着くに違いない。ある一定の方向において何らかの進歩 があるとすれば、それは採用された方法にもかかわらずなされるのであって、その方法のゆえ にではない。その成功は、例えば指導者の卓越性によるものかもしれない。だがわれわれは、 卓越した指導者というものは合理的方法によっては生み出すことができず、運による他ないと いうことを決して忘れてはならない。」
 (カール・ポパー(1902-1994),『開かれた社会とその敵』,第1部 プラトンの呪文,第9章 唯 美主義、完全主義、ユートピア主義,pp.159-160,未来社(1980),内田詔夫(訳),小河原誠 (訳))


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