脊髄トーク vol.0000000001

「文章を書くということは、読者の立場になり、読みやすさの追求、そのための情景描写を徹底すること」

大学の講義でそんなん言われた。
その通りだ。そこで身につけた技術はここで役立つだろうし、そーゆー場所なんだから前に出すべきと思う。


知るかボケ。
俺は俺の書きたい文章を書くし、そこに整合性や承認欲求を出すつもりは一切無い。
自分が生きた、誰も知られない、いや教えたくない弱い自分をここに残して「あぁ、そんな自分もいたな。でもよくやったじゃないか。今日まで耐えて耐えて頑張った自分は比べることが出来ないくらい素晴らしいんだ。挫けずそれでも歩き続ける俺は誰よりも偉いんだ。」ってことを確認するために。

だから俺はこれをしてる。

たしかに物語を書いたりするけど、それはフィクション、つまり作品としての「楽しさ」とかではなく、自分の感性に沿った、美学、本当の自分を見える形にして、こうやって考えてた自分がかつて存在し、そして今俺がその上にいる。
だからあくまで他人にウケを求めたものではない。

だから敢えて言いたい。

俺は迷惑をかけない限度で自分らしくいたい。
自分が思ったことには素直でいたいし、嫌なことは嫌、神なんかより自分の気持ちを大切にしたい。
そこに誰かに読まれるとかではなく、ただ自分が生きていたということを残したい。
誰にも侵食されず、全力で大きな声で笑って、涙が絶えない時はその気持ちに従って枯れるまで流し、病んでる時は自分の形にならない気持ちを結論づけないでそのまま文字に起こしたり、ただボーッとしている時は深く考えないで明日あいつと飯くいに行こうかなとかそんな事を実行する訳でもなく適当に考える。

そんな自分で生きていたい。
だからnoteというコミュニティがあっても俺は自分らしくいたい、もちろん誰の実害にならない程度であって、キモい、イタいと言われようとも俺が感謝、尊敬、大切にしたい人でない限り無視する。まぁ腹立つ時はそんときは裏でウダウダ言うけどね。
でもそんなウダウダ言えなくなったらそれこそおしまいだよ。空気を読むのと誰かに従うのはまた違うことだと俺は思ってる。

「自分」を失うことがどれだけ怖いかはまだ知らない。
ただでも俺はいつかそんな空虚な時間を過ごすことになるだろうし、誰かと一緒に暮らしてプライドやポリシーは切り崩されることになると思う。いや必ずなる。
でも問題はその対象。その人が俺の信頼における人なら、俺は喜んで自分を削る。モラルとかいうそんな偽善ではなく、俺はそれが幸せだからするんだ。それも自分らしさだ。

ただ今はそう思える人がそばにいないし、すごく寂しい。
でもこの寂しさはいつか「絶えてて良かった」って思えることに繋がるだろう。しかしそれがいつかは知らない。もしかしたら死ぬまで来ないのかもしれない。そうなってたらそれでいい。そのあいだ俺は別のことで自分を満たすし、新しい幸せだって見つけるかもしれない。

思いつきをダラダラ書いてるから
何が言いたいのっておもうかもだけど、

結論はない。
ただ俺は俺が思いそして願ったその痕跡を残して
それが自分であって生きたというその強さがここにはあるはずだから書いてる。

あくまでも「はず」。
本当に強いかはしらん、けど辛さを乗り越えてその先にあるものを求め、踏みしめたその1歩は何より尊いと思ってる。

だから俺は今日も書く。
意味があろうとなかろうと、それが自分だから。

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