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まちづくりの正解は、街で暮らす人々の中に。小田急担当者が語る、「下北線路街」開発のこれまでとこれから。

小田急線の地下化に伴い生まれた、東北沢駅から世田谷代田駅に至る全長1.7kmにわたる線路跡地を開発して作られた「下北線路街」。全エリアの開発完了が年内に迫る中、ここで線路街開発のキーパーソンと共に一連のプロジェクトを振り返ってみることにします。

小田急電鉄で「下北線路街」のプロジェクトに長らく携わってきた、エリア事業創造部の橋本崇さんと向井隆昭さんに、開発のこれまでとこれからについてじっくり伺いました。

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小田急電鉄 エリア事業創造部 橋本崇さん(写真左)、向井隆昭さん(写真右)


支援型のまちづくりという挑戦

――「下北線路街」の開発プロジェクトは、今年11月に下北沢駅前に開業予定の「テフ ラウンジ」ほか、残る3つのエリアの開発をもってまもなく完了します。まずはプロジェクトに初期から携わってこられたお二人の、いまの率直な感想を聞かせてください。

向井:正直なところ、長かったです(笑)。地域の方々との対話や計画期間も含めると、ようやくここまで来た、という思いです。

橋本:そうですね。下北沢の開発計画に着任した当初は「地域から猛烈な反対にあっている」という印象でした。しかし、いま振り返ると、その印象はまったく違っていました。みなさんが声をあげていたのは、単純に開発に反対だからではなく、「もっとまちづくりに関わりたい」「自分たちにも意見を言わせてほしい」ということだったのだと思います。それを反対の声だと感じてしまっていたのは、私たちが耳を傾けてこなかったことに原因がありました。

その後、本当に多くの方からいろんな意見をお聞きし、街のみなさんと一緒にまちづくりを進めてきた結果、いまではこう思っています。この「下北線路街」開発プロジェクトは、下北沢のみなさんに手伝ってもらうことで、ここまで辿り着けた。それが本音ですね。

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――実際、開発のコンセプトも企業側から方向性を押し付けるのではなく、「シモキタらしく。ジブンらしく。」と街に暮らす人々の多様性を応援するものとなりました。

橋本:下北沢の街に入り込んで開発を進める中で、私たちの取り組み方、スタンスが変わっていったんです。「自分たちが頑張って全部やらなければ」から、「みなさんがやりたいことを後押しする」という支援型に変わっていきました。私たちデベロッパーはそのための場所と機会を提供する。これからのまちづくりは、それでいいのだなという実感が得られた数年間だったと思います。


――そうしたまちづくりに対する姿勢の変化は、結果としていい影響をもたらした?

橋本:良かったと思います。いま、まちづくりに関わる企業は、どこも「これが正解」という答えがない状況で試行錯誤しています。そうした中で、「下北線路街」は支援型のまちづくりという新しいかたちに挑戦した。開業以来、ここは同業他社の視察がすごく多いんですよ。

そのときに決まって、「どうやって新しい一歩を踏み出しましたか?」と聞かれます。他社の方々も、現状のままではいけないと理解しつつも、その先にどうやって進めばいいのか分からないところで悩んでいるのだと思います。

向井:まちづくりはいろいろなパターンをやってみて効果を検証することができないんです。例えば、今我々がいるBONUS TRACKを仮に作らなかったとして駐車場にしていたとしたら、どれだけ収益が違って、どれだけ住民の方々の反応が違ったのか。後戻りが出来ず比較できない。だから、企業として、特に不動産分野では新しい一歩を踏み出すことが難しいんだと思います。

でも、日本が人口減少に向かっている中で、不動産の短期的な収益性を追求するだけでは無理があります。特に僕らの世代は、人が増えないことを前提に持続可能な開発を考えないといけない。30年後も街の価値が維持されるような開発をしていくべきなんです。

たとえ高層ビルばかりを作っても、30年後には人口が減って、入居者を入れたくても難しいことになっているかもしれない。そう考えると、街の人々のニーズを反映し、その街に合った規模感の開発をすることで、町の個性が確立され、ブランドとしての価値が維持されるような方向を目指すことに、長期的な意味での経済合理性があると思っています。

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世田谷代田ゆかりの企業からもらったまちづくりのヒント

――「下北線路街」に商業施設などの“ハコ”がそろってきたことで、これからのプランは?

橋本:以前から、建物ができてからが本当のスタートだと言ってきましたが、これからはいっそう街の価値を上げることに注力していきます。私たちは街の価値を「モノ」「コト」「ヒト」の3つの軸で考えていて、企業としてはそれを循環させることで収益を上げる構造にしていきたい。

例えば、いまはリアルな場所で面白いPRをやりたい、と考えている企業が少なくありません。面白い取り組みという「コト」で街のイメージと収益を上げ、不動産としての「モノ」の価値に反映させ、それらの利益を「ヒト」に投資して街への愛着を高め、人々が住みたいと思える街にしていく。そして、また下北沢で何かやりたいという人が集まってきて……という循環です。


――「ヒト」に利益を還元するとは、どういうことなのでしょう?

橋本:いろいろな取り組みで稼いだ利益を、街に緑を増やすための活動に使ったり、学生寮の奨学金に活用したりと、下北沢で暮らす人々の幸福度を上げるための活動にまわすということです。その仕組みが可視化できれば、もっと多くの人が主体的にまちづくりに関わりたいと思ってくれるはずだと考えています。

実は、こういう支援型のまちづくりのヒントになった話があるんです。それは「カルディコーヒーファーム」(などを運営する株式会社キャメル珈琲)の経営者から聞いたエピソードです。カルディさんは世田谷代田で生まれたことで知られていますが、あのあたりは海外赴任の経験がある富裕層の方が比較的多く暮らしているエリアでもあります。

そして、輸入食品を扱っていたカルディさんに、その方々が海外で知った美味しい商品を輸入してくれるように頼むようになりました。カルディさんがそれを会社の倉庫に並べて提供をはじめたところ、次第に評判を耳にしていろんな方が買いに来るようになり、そこから今のカルディさんの業態の原型が生まれたというお話です。

カルディの経営者は、「うちは世田谷代田の人々に育ててもらった」と話していました。目利きは住民たちであり、会社はその方々の求めるものを吸収して大きくなったということです。「下北線路街」の開発における私たちの立ち位置も、これと同じようなものです。

自分たちだけで「これを作ろう」と決めるのではなく、「こういうものがほしい」という意見を聞き、それを実現する。そうすれば、まちづくりは住民にとっての自分ごとになります。まちの開発に対して意見を言いたい人が多いということは、それだけ下北沢を愛している人が多いということでもあります。「あそこはこうしたほうがいい」と意見するのは、ここに住み続けたいと思っているからですよね。

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下北線路街で最初にオープンした下北線路街 空き地
「空き地」がまずオープンしたことによって、まちに住む人たちが
開発を自分ごととしてとらえやすくなった。


――まちづくりの正解は街で暮らす人々の中にある、と?

橋本:そう思います。でも、それは当たり前のことなんです。本来、地域のニーズは地域によって違うはず。でも、これまでのまちづくりは都心で流行ったものを沿線の津々浦々で展開する「金太郎飴」状態でした。それだと街への愛着は上がらないですよね。

ただ、提供するものが画一的でなくなるとコストは上がります。そのコストと多様性のバランスをどうやって取るか。いくらまでだったら地域はコスト増を許容してくれるか。そのバランスを見極めるためにも、街に入り込み、街の人々の立場になって運営する必要があるんです。私たちが「下北線路街」のプロジェクトでやってきたのは、結局のところ、その「地域の人たちの目線で考える」ことへの挑戦だったのだと思います。


コロナ禍の開発への影響は?

――一方、コロナ禍という想定外の事態もありました。開発にも大きな影響があったのでは?

橋本:もっとも予想外だったことでいえば、「下北線路街」がコロナ以降のまちづくりにおける、ある種のモデルケースになったことでしょうか。


――どういうことでしょう?

橋本:コロナ禍の以前から、私たちは鉄道会社としては、人口減少やテクノロジーの進化・浸透に伴い電車に乗る人が減少する未来がやってくると予測していました。リモートワークや多様な働き方が浸透して、毎日必ず都心に大量に人が移動するような出勤が減ると想像していたんです。ただ、それは10年、20年先のこと、それに、じわじわやってくる変化だろうと思っていました。しかし、その変化がコロナ禍で一気にやってきた。すると、何が起こったか。

いままで都心で暮らす人は、住む場所、働く場所、遊ぶ場所が別々に分かれていました。しかし、リモートワークが浸透すると、人々は暮らしている場所で働いたり遊んだりするようになりました。その結果、多くの人が自分の住む街に多様な機能を求め始めました。

デベロッパーが街の価値の再定義を迫られる一方、意外にも下北沢は「住む・働く・遊ぶ」をもともと実現できていた街だったんです。そうした街の特性を活かすべく、私たちは自宅から徒歩20分圏内の暮らしを豊かにすることを念頭に置いて開発に取り組んできました。世田谷代田と下北沢の間に「由縁別邸 代田」という温泉旅館を開発したのも、そのひとつです。


そうした取り組みが偶然にも、「下北線路街」がコロナ以降のまちづくりのモデルケースとして評価されることにつながったんです。


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由縁別邸 代田のロビー。世田谷区の真ん中であることを忘れそうになる。


――施設単位で計画が変わったことはありましたか?

橋本:あります。BONUS TRACKも当初の計画では、他にはない個性的なテナントを入れることで、インバウンドのお客さんも多数訪れることを想定していました。しかし、コロナ禍によってその計画は実現できなくなりました。

しかし、周辺住民のみなさんが昼間も自宅にいなければならなくなったことで、日中もBONUS TRACKに来てくれるようになりました。それが地域の交流を生み、開店早々に緊急事態宣言が出て困っているお店を地域で支えようという意識を生んだ。実際にまとめ買いをしてくれる方がたくさんいらっしゃったりしています。コロナ禍がなければ、BONUS TRACKが地域に馴染むまでもっと時間がかかったかもしれません。

下北沢の他のエリアも含めてですが、もちろんテナントが抜けてしまったり、お店の経営が苦しかったりと、課題はたくさんあります。コロナ禍によって悪いことといいことの両方があったということですね。

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生産者と消費者のつながりを都心でも

――みなさんが目指す“支援型のまちづくり”の理想の姿とは?

橋本:価値の循環の話をしましたが、街の中でみんなの愛情がぐるぐると回っていくようになればいいと思っています。

例えば、お店に定着してもらいたいから賃料を相場よりも低く抑えたとします。その分、お店の人には街の行事に主体的に参加してもらう。そうすると街に活気が出て、ここで暮らしたいと思う人が増える。人が定着するようになれば、お店が儲かって、私たちも安定した収益が得られるようになる。

それが生活圏内に多様な豊かさを求めるようになったコロナ以降の時代に合ったまちづくりなのではないでしょうか。あとは、この循環を消費者と生産者の間にも作りたいと思っています。

複合施設「世田谷代田キャンパス」に東京農業大学のアンテナショップや、青森の食を提供する「DAITADESICA フロム青森」に入ってもらっているのは、まさにそれが理由です。ものを作っている人たちの顔が見えるようになると、価格に対する納得感が変わってきます。いいものを適正な価格で購入するようになり、都心にものを提供する人たちの暮らしも豊かになり、社会全体の持続可能性が高まっていく。


向井:下北沢でいえば、文化がまさにそうですよね。演劇や音楽がここから生まれていった過程を見ているから下北沢の人々は文化を愛し、守りたいと思っている。

橋本:だから、施設という“ハコ”だけがあってもダメなんですよ。劇団員やバンドマンが暮らしていて、バイトもして、夢を語り合う場所もある。それを住民が見ているから、文化への愛着が湧いている。この生産者と消費者の関係を食でも作りたいと思っています。

でも、それは決して新しい街の姿ではなく、昔の村なんてそうやって助け合いながら回っていたはず。つまり、そこで暮らす人を中心にしたまちづくりを考えていくと、自然と暮らしの原点に近付いていくということなのかもしれませんね。

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写真/鈴木大喜 取材・文/小山田裕哉  編集/木村俊介(散歩社)

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