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狂、散りゆく ~高杉晋作の第二次長州戦争と、それから~①


 慶応二年(一八六六年)、六月七日、瀬戸内に浮かぶ長州藩領内の周防(すおう)大島(以下、大島)沿岸に、突如として砲弾が撃ち込まれた。大島の沖合に浮かぶ幕府軍艦の放った砲弾であった。この砲撃により、諸藩の連合軍である幕府軍と、長州藩との間で、両者の二度目の戦である「第二次長州戦争」が開始されたのである。

 幕府軍は、多数の兵を大島に上陸させ、島全域をたちまち制圧した。加えて、多くの幕府兵が島内で強姦(ごうかん)・殺戮(さつりく)の蛮行(ばんこう)に及び、その報が山口の長州政庁に伝わるや、長州藩士たちは激昂(げっこう)した。政庁内では、「大島奪還」の声が噴出し、協議の末、海軍総督である高杉晋作に「大島奪還」の命を下したのであった。

 高杉晋作は、大島砲撃から三日後の六月十日(慶応二年)、馬関(現在の下関)の港に繋留(けいりゅう)してある丙寅丸(へいいんまる)に、わずかな同士たちとともに乗り込んだ。主な面々は、海軍総督である高杉晋作のほか、高杉と松下村塾の同窓である山田市之允(いちのじょう)(後の山田顕義(あきよし))、土佐藩脱藩の志士で、武市半平太が中心となって結成した土佐勤王党に属していた田中顕助(あきすけ)(後の田中光顕(みつあき))などであった。

 しかし、意気軒高と舟には乗り込んだものの、海軍総督である高杉晋作以下、乗船した者たちの中に蒸気船の罐(かま)をあやつれる者はいなかった。

――さて、どうしたものか……

 高杉は、その独特なざんぎり頭を撫でつけながら一人思案した。海軍総督である高杉自身が、操舟術に関しては素人であり、他の面々も同様であった。

 その中、土佐藩を脱藩した田中顕助(あきすけ)が、進み出て言った。「私がやってみましょう」

「罐の扱い方がわかるのか」高杉が訊ねると、

「わかりませんが、ま、何とかなるでしょう」

 高杉は天を仰ぐようにして笑った。「それでは、田中くんに一任することにしよう」

「うけたまわった」田中顕助(あきすけ)はうなずいた。

 高杉は口許に笑みを残し、「しかし、土佐藩士というのは、難儀に直面しても狼狽(ろうばい)することがなく頼もしいな。武士とはいかなるときもそうでなければならない」

「土佐藩士が皆そうなのではなく、土佐藩を脱藩した我ら下士の一部の者たちだけが、左様な心胆(しんたん)の持ち主なのであるということを心得ていただきたいものですな」

「覚えておこう」高杉晋作は得心したようにうなずいた。「では、操舟の方、よろしく頼む」

 田中顕義はうなずき、舟底へ下りていこうとしたが、ふと足を止めて高杉を振り返った。

「高杉さん」

「ん?」高杉は田中顕義を見た。

「そのなりで戦に行かれるのですか」

 高杉晋作は、平服に扇子(せんす)一本という出で立ちであった。

「なあに、公儀(幕府)の鼠賊(そぞく)どものあやつる軍艦など、この扇子一本で十分さ」高杉はそう言って、扇子で顔を扇いで見せた。

 田中は、ふっ、と笑みを浮かべた。「左様ですか、されば」会釈をし、舟底に下りていった。

「市之允(いちのじょう)っ、来てくれっ」高杉は、つづけて松下村塾の同窓である山田市之允を呼び寄せた。「君には砲隊長をやってもらいたい」

 山田市之允はうなずいた。利発さがその秀麗な顔立ちににじみ出ているような若者であった。長州藩内では、高杉に次ぐ戦術家と評判を取る男である。山田市之允は、高杉の青白い横顔に視線をそそぎつつ、

「高杉さん、お体の方は」

「まあ、今しばしは持つだろう」

「それにしても敵は大軍です。こちらは舟の罐(かま)一つ動かせる者もいません。何か秘策があるんで」

「ない」

 きっぱりと言い切られて、山田市之允は目を細めた。「何とも頼もしいお言葉ですね」

 平素は礼儀にうるさい山田市之允も、松下村塾の同窓で気心の知れた高杉に対してだけは、敬意と甘えを込めて、こんなこましゃくれた口の利き方をするのである。

「早まってもらっては困る。今はまだ妙案はないということだ。しかし、妙案が決まってから動き出していては遅すぎる。それゆえ動き出しながら、妙案をひねり出すのだ」

「なるほど、それで得心(とくしん)が行きました」山田市之允はうなずいた。

「まあ、大島につくまでには何かよい思案が浮かぶだろう。そのために一度、三田尻に寄りたい」

「ああ、貞永(さだなが)さんのお屋敷ですね」

 高杉晋作はうなずいた。「一刻(およそ二時間)ほど、じっくりと策を練りたい」

 山田市之允はうなずいた。

「まあ、見ていろ。俺がこの丙寅丸(へいいんまる)で、幕府の腑抜けどもに目に物見せてくれるっ」

「楽しみにしておきましょう」

 ややあって舟が律動し始めた。

「田中くんめ、なかなかやる」高杉は甲板に向かってにやりと笑みを投げた。やがて、舟がゆっくりと岸を離れ始めた。

 丙寅丸(へいいんまる)は一路、長州の地の底をくぐるようにして瀬戸内の海を東進した。

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