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『信長公記』「首巻」を読む 第18話「柴田権六、中市場合戦の事」

第18話「柴田権六、中市場合戦の事」

一、七月十八日、柴田権六、清洲へ出勢。あしがる衆、我孫子右京亮、藤江九蔵、太田又助、木村源五、芝崎孫三、山田七郎五郎、此れ等として、三王口にて取合ひ、追ひ入られ、乞食村にて相支ふること叶はず、誓願寺前にて答へ候へども、終に町口大堀の内へ追ひ入らる。河尻左馬丞、織田三位、原殿、雑賀殿切つてかゝり、二、三間扣き立て候へども、敵の鑓は長く、こなたの鑓はみじかく、つき立てられ、然りと雖も、一足去らずに討死の衆、河尻左馬丞、織田三位、雑賀修理、原殿、八板、高北、古沢七郎左衛門、浅野久蔵、歴々三十騎計討死。武衛様の内、由宇喜一、未だ若年十七、八、明衣のしたてにて、みだれ入り、織田三位殿頸を取る。武衛様逆心おぼしめし立つると雖も、譜代相伝の主君を殺し奉る其の因果、忽ち歴然にて、七日日と印すに、各討死。天道恐ろしき事どもなり。

【現代語訳】

一、天文23年(一説に天文22年)7月18日、柴田勝家は、清洲へ向けて出陣した。足軽衆は、我孫子右京亮、藤江九蔵、太田牛一、木村重章、芝崎孫三、山田七郎五郎などである。
 清洲衆は山王口で戦ったが、追いやられ、乞食村(安食村)で食い止めようとしたが無理だったので、誓願寺(常願寺)の門前で応戦したが、ついに町口(清州城の城下町(総構え)の出入り口)の大堀の中へ追い込まれてしまった。河尻左馬丞、織田三位、原殿、雑賀殿が切っててかかり、2、3間(4~6m)隔てて槍で叩きあった。敵(柴田勝家軍)の鑓は長かったが、味方(清洲衆)の鑓は短かったので、突き立てられた。とはいえ、一歩も引かず戦ったので、河尻左馬丞、織田三位、雑賀修理、原殿、八板、高北、古沢七郎左衛門、浅野久蔵などお歴々(譜代の武将)が約30人討死した。武衛様(尾張国守護の故・斯波義統)の家臣・由宇喜一は、未だ若干17、8歳で、明衣(湯帷子)を着て乱入し、織田三位殿の首を取った。
 武衛様(尾張国守護の故・斯波義統)の逆心(守護代・織田大和守家から、織田信長の織田弾正忠家への鞍替え)が原因とはいえ、代々の主君・武衛様を(7月12日に)殺てしまった因果は忽ち歴然。武衛様殺害から7日目(武衛様の初七日)に討死した。天道は恐ろしい(外れてはならない)。

【解説】

 柴田勝家の足軽衆として、弓の達人・太田牛一(『信長公記』の著者)が初登場! 今までの記述内容は伝聞でも、ここから先は体験談だと信じたいものです。
 その太田牛一が生まれた村の名や、育った寺の名を間違えるはずがないのですが・・・???

乞食村:尾張国春日井郡山田荘安食村。現在の名古屋市北区。太田牛一生誕地。(ではなく、清洲の乞食村だという。)
誓願寺:常願寺。現在の成願寺(愛知県名古屋市北区成願寺二丁目)で、この地を支配していた安食・山田一族の菩提寺。旧寺号の「常観」は安食重頼の法号「常観坊隆憲」に由来する。太田牛一は、当寺で育ち、後に還俗して織田信長に仕えたという。(ではなく、清洲の誓願寺だという。)


 なお「中市場合戦」については、「安食(あじき)の戦い」という呼称の方が一般的ですが、太田牛一が生まれ故郷の村名や寺名を間違えるはずはなく、通説の「尾張国春日井郡安食村の戦い」は誤りで、「清洲城下の中市場の戦い」が正しいようですので、「中市場の戦い」と呼んだ方がよさそうです。((斯波義統の敵討ちだと)柴田勝家軍が攻めてきたので、(斯波義統を討った)清洲衆は清洲城から出陣して山王口(清州城の南の山王社付近)で戦ったが、町口まで押し返され、そこの堀に落ちて、槍で討たれた。短い槍で突き上げる(下槍?)よりも、長い槍で突き下ろす(上槍?)の方が有利!)

【ここまでのまとめ】

 尾張国守護は斯波氏である。尾張国には8郡あり、上4郡を岩倉の守護代・織田伊勢守が、下4郡を清洲の守護代・織田大和守が治めていた。織田信秀は、清洲の織田大和守家の重臣「清洲三奉行」の1人(織田弾正忠家)である。(「第1話 尾張国上下分かちの事」)
 織田信秀は、津島の商人の支援もあり、主家・織田大和守家と張り合うほどに勢力を伸ばし、三河の今川衆や、美濃国の齋藤衆と戦ってていた(「第2話 小豆坂合戦の事」「第4話 美濃国へ乱入し五千討死の事」)が、42歳という若さで病死してしまった。(「第10話 備後守病死の事」)
 織田弾正忠家は一応、「大うつけ」として評判の長男の織田信長が継ぐが、織田弾正忠信長と名乗らず(名乗れず?)織田上総介信長と名乗った。(家督相続問題の解決には1年かかったともいう。信長以外の宗主候補者は、叔父の信光と弟の信勝であった。) 
 織田信秀が病床に就くと、
・上4郡の下4郡への乱入「第9話 犬山謀叛企てらるゝの事」
 織田信秀が死去して織田信長が家督を継ぐと、
・忠臣・山口教継の今川方への寝返り「第11話 三の山赤塚合戦の事」
・守護代・織田信友の敵意表明「第12話 深田・松葉両城手かはりの事」
などあったが、織田信長は、織田信光と共によく防いだ。
 織田信長が斎藤道三と同盟を結んで(「第15話 山城道三と信長御参会の事」)、今川氏の尾張国侵攻(「第16話 村木の砦攻められしの事」)を防ぐ頃には「大うつけ」とは呼ばれなくなったようである。
 尾張国守護・斯波義統が、梁田の働き(「第13話 簗田弥次右衛門御忠節の事」)で、守護代・織田信友を見限って、織田信長に内通すると、守護代・織田信友(実際は実権を握っていた小守護代・坂井大膳)が、尾張国守護・斯波義統を殺害してしまった。(「第17話 武衛様御生害の事」)
 織田信長は斯波義統の子を匿ったが、仇討ちは喪が明けてからと思ったのか、いくら悪でも主君は討てないと思ったのか、清洲を攻めないでいると、7日目に痺れを切らした末森城主・織田信勝が、家臣・柴田勝家に清洲城を攻めさせた。(「第18話 柴田権六、中市場合戦の事」)

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