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『信長公記』「首巻」を読む 第19話「織田孫三郎殿御生害の事」

第19話「織田孫三郎殿御生害の事」

一、清洲の城守護代、織田彦五郎殿とてこれあり、領在の坂井大膳は小守護代なり。坂井甚介、河尻左馬丞、織田三位、歴々討死にて、大膳一人しては抱えがたきの間、此の上は織田孫三郎殿を憑み入るの間、「力を添へ候て、彦五郎殿と孫三郎殿、両守護代に御成り候へ」と、懇望申され候のところ、「坂井大膳好みの如く」とて、「表裏あるまじき」の旨、七枚起請を大膳かたへつかはし、相調へ候。

一、四月十九日、守山の織田孫三郎殿、清洲の城南矢蔵へ御移り、表向は此の如くにて、ないしんは信長と仰せ談ぜられ、清洲を宥め、取り進めらるべきの間、尾州下郡四郡の内に、於多井川とて、大かたは此の川を限つての事なり。孫三郎殿へ渡し参らせられ候へと、御約諾の抜公事なり。此の孫三郎殿と申すは、信長の伯父にて候。川西・川東と云ふは、尾張半国の内、下郡二郡、二郡ツヽとの約束にて候なり。

一、四月廿日、坂井大膳御礼に、南やぐらへ御礼参り候はゞ、御生害なさるべしと、人数を伏せ置き、相待たるゝのところ、城中まで参り、冷しき様子(けしき)をみて、風をくり、逃げ去り候て、直ちに駿河へ罷り越し、今川義元を憑み、在国なり。守護代織田彦五郎殿を推し寄せ、腹をきらせ、清洲の城乗取り、上総介信長へ渡し進められ、孫三郎殿は那古野の城へ御移る。其の年の霜月廿六日、不慮の仕合せ出来して、孫三郎殿御遷化。忽ち誓紙の御罰。天道恐ろしきかなと、申しならし候へき。併せて、上総介政道御果報の故なり。

【現代語訳】

一、清洲城には、守護代として織田彦五郎信友がいて、坂井大膳は小守護代(守護代の補佐。「守護又代」とも)であった。清洲衆の坂井甚介(坂井大膳の弟。萱津の戦いで討死。首は中条家忠と柴田勝家で取った)、河尻左馬丞与一(中市場合戦で討死)、織田三位(中市場合戦で由宇喜一に討たれた)ら家老衆が討死にて、坂井大膳1人では荷が重いので、こうなったら、織田孫三郎信光(織田信長の叔父)に頼み、「力を借りて、織田彦五郎信友と織田孫三郎信光の2人で守護代をお務めください」と懇願すると「坂井大膳の好きなように」と言って、「(神仏に誓って)嘘偽りはない」と書いた「七枚起請」(起請文(誓約書)7枚)を坂井大膳へ送って、話がまとまった。

一、天文24年4月19日、守山城主・織田孫三郎信光は、清洲城の南櫓へ移り、表向きはこのように、清洲衆の一員となったが、実は織田信長と密かに相談していて、「織田孫三郎信光が清州城に入り、清洲衆を宥(なだ)めて(安心させて)、清洲城を奪い取ったら、尾張国4郡をだいたい於多井川(庄内川)を境に2つに分け、半分を織田孫三郎信光に与える」という秘密の約束を交わしていたのである。この織田孫三郎信光は、織田信長の叔父である。「川西」「川東」というのは、尾張半国(下4郡)を2郡ずつ分け合うという約束(尾張国4郡を於多井川(庄内川)を境に東西に分け、東半分を織田孫三郎信光に与えるという約束)である。

一、天文24年4月20日、織田孫三郎信光は、坂井大膳が(清洲衆に入って協力してくれる事に対する)お礼を言おうと南櫓に来たら殺してしまおうと考え、兵を隠して置いて待っていたが、坂井大膳は、城中に入ると、殺気を感じ、まるで風に乗ったかのようにさっと逃げ、すぐに駿河国へ行って今川義元に匿ってもらい、駿河国の住人となった。織田孫三郎信光は、清洲城主である守護代・織田彦五郎信友を攻め、切腹させ、殿を推し寄せ、清洲城を乗っ取り、織田信長へ清洲城を渡した。織田孫三郎信光は、織田信長が住んでいた那古野城の城主となった。
 弘治元年(天文24年10月23日、「弘治」に改元)11月26日、「不慮の仕合せ」(よい運命(幸せ)も悪い運命も「仕合せ」(めぐり合わせ)という)で、織田孫三郎信光は、亡くなった。これは、誓紙(起請文)に書いた誓いを破ったからであろう。誠にの天道とは恐ろしいものである。(神仏に誓った起請文の契約を破ると、神罰、仏罰が下される。「七枚起請」の場合、書いてある内容(約束)に背いた場合の罰は死である。)
 また、織田信長の場合は、主君・織田信友を自分の手で殺そうとしなかったので、天が報いて道が開けたのである。

【解説】


織田信定信秀(三郎。末森城主→病死)─信長(三郎)
       ├信康(与次郎。稲葉山城攻めで討死)
       ├信正(美濃国嶋村に移住して「嶋信正」)
       ├信光(孫三郎。守山城主→那古野城主)
       ├信実(四郎次郎)
       └信次(孫十郎。深田城主→守山城主)

※織田信友の死後、織田信長は、清洲城を居城とし、これまでの居城・那古野城は、織田信光の居城となり、これまでの織田信光の居城・守山城は織田信次の居城となった。

 織田信長の父・織田信秀は武勇に優れていたが、叔父・織田信光も優れた人物であった。織田信秀が亡くなった時、家督相続の候補は、
・「大うつけ」の織田信長(嫡男)
・「品行方正」な織田信勝(織田信長の弟)
・武勇伝(実績)の多い織田信光(織田信長の叔父)
だったという。結局は「嫡男」である織田信長が選ばれたが、信勝派や信光派もいた。
 ここにきて、織田信光が本性を表して「下4郡のうちの半分(2郡)をよこせ」と言ってきたが、「主君(守護代・織田信友)殺し」を天が見逃すはずはなく、「不慮の仕合せ」で亡くなった。「不慮の仕合せ」の内容は不明であるが、『甫庵信長記』は、近習・坂井孫八郎が織田信光の妻・守山(森山)御前との密通がばれたので、織田信光を那古屋城内で殺したのだという。(坂井孫八郎は、織田信長の命を受けた佐々孫介にすぐに討たれた。)

「孫三郎殿は不慮に、同11月26日、夜に入て、近習の坂井孫八郎と云者、差し殺し奉る。其を如何と尋るに、彼夫人、内々、孫八郎と心をかよはしけるに、其事、洩れ聞へしかば、彼妻と心を合せて殺しけるとぞ聞へし。」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2544599/32

 清洲城主・織田信友は傀儡であり、操っていたのは坂井大膳である。「坂井大膳は悪いやつだ」と思っていたが、その坂井大膳は駿府に逃げた。ここで坂井大膳の黒幕が今川義元であることが判明した。今川義元は、坂井大膳を操って尾張国を内部分裂させ、その隙きに尾張国へ侵入して、尾張国を乗っ取ろうと企んでいたのである。

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現在は明智光秀公の謎の解明と『明智軍記』の現代語訳に取り組んでいます。
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