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『政秀寺古記』を読む 第7話「織田信長卿、尾張国を統一せし事」

第7話「織田信長、尾張国を統一せし事」

 是より信長卿の御行跡もよくならせ給ひて、撫育民姓国家を治め給はん御心より外は別なし。
 日々武勇を振られ乎、戦場国中数度の合戦、清州城を初めとして、武略にて一日の内に御手に属し、其の次、守山の城、其の次に、岩倉の城、其の次に、犬山の城、何も御手に入りけり。
 小牧山にも御在城の由、美濃の国、斎藤藤右兵衛太夫龍興代に至り、以の外、無法度になり行き候時分、武略を廻され、一日片時の間に井の口の城を二重、三重に取り巻かれ候。龍興は、降人となって逃散したり。

【現代語訳】

 平手政秀の諌死により、織田信長公の行ないが良くなり、「撫育民姓国家(民、百姓を撫で育てる国家。織田信長の国家論。為政論「布武天下」と双璧を為す)を築こう」という考え以外の考えは持たなかった。

 毎日、その武勇を示し、尾張国内で何度も戦い、清洲城を初めとして、武略により、たった一日で城を落とした。清州城の次には、守山城、岩倉城、犬山城と落としていった。

 織田信長は、居城を清州城から小牧山城へ移した。美濃国の領主は、織田信長公と同盟を結んでいた斎藤道三から、その子・斎藤龍興に替わると、想像以上に無法な混乱状態になったので、武略(「西美濃三人衆」(稲葉良通、氏家直元、安藤守就)の織田信長への内通)により、一日ちょっとで井の口にある稲葉山城を二重、三重に取り巻かれると、斎藤龍興は、城を捨て、城下の長良川を船で下り、北伊勢の長島へと亡命した。

【解説】

 簡単すぎでがっかりです。小牧山に居城を移した効果で、東美濃衆が織田方に寝返った話とか・・・。『信長公記』についての文句が書かれていませんので、「詳しくは『信長公記』を読んで」ってことなのかな?
 個人的には、「沢彦和尚は、美濃国大宝寺から尾張国政秀寺に移り、平手政秀の遺言により、織田信長の守役(実際は軍師)になって活躍した」詳細が知りたかったのですが、残念です。

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