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カットされた記事(1)「永平寺について」

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<写真1:永平寺(永平寺唐門)>

 第4話は、「朝倉義景永平寺参詣事付城地事」(朝倉義景、永平寺参詣の事。付けたり、城地の事)です。明智光秀の主君・朝倉義景が、父・朝倉孝景の17回忌にあたる永禄7年(1564年)3月22日に、一乗谷から吉祥山永平寺(福井県吉田郡永平寺町志比)に参詣した話で、帰り道、朝倉義景が「これからは鉄砲の時代。城を築くならどこがいい?」と明智光秀に聞いたので、明智光秀が答えています。

※朝倉孝景:宗淳。朝倉義景の父。越前朝倉氏10代、一乗谷朝倉氏4代。一乗谷朝倉初代(越前朝倉氏7代)孝景(英林)とは別人。父・朝倉貞景が、鷹狩の途中で急死したので、家督を継いだ。天文17年(1548年)3月22日、日本達磨宗の波着寺(通称:波着観音。福井市成願寺町)への参詣の帰りに急死。享年56。16歳の嫡男・朝倉延景(後に足利義藤(後の足利義輝)より「義」の1字を賜わり、義景と改名)が家督を継いだ。

 当時の越前国は、禅宗(曹洞宗、日本達磨宗、臨済宗、黄檗宗、普化宗)のうち、日本達磨宗と曹洞宗(道元系、宏智系)が盛んだったようです。

※道元系曹洞宗:「永平寺系」とも。道元が宋から帰国して伝えた曹洞宗。
※宏智系曹洞宗:宏智正覚の5代法孫・東明慧日が来日して伝えた曹洞宗。

 「戦国三大文化」のうち、今川氏の本拠地・駿府(静岡県静岡市)に京風文化が栄えたのは、臨済宗妙心寺派の僧侶や寺院のお陰で、朝倉氏の本拠地・一乗谷に京風文化が栄えたのは、曹洞宗宏智派の僧侶や寺院のお陰だと聞いています。(「臨済将軍、曹洞士民」(臨済宗は都の武家政権中心、曹洞宗は地方武家中心)と言いますよね。)

 「北の京」と呼ばれた一乗谷では、連歌などの公家文化はもちろん、臨済宗中峰派の名僧(禅僧)・月舟寿桂(1460-1533)が永正6年(1509年)に弘祥寺の住職に就任して、医学が闊達したようです。月舟寿桂は、日本医学史にその名を残している僧医で、多くの漢籍医書を集め、日本初の印刷医書『医書大全』(1528年)に刊語を記したことで広く知られています。日本で二番目の印刷医書『勿聴子俗解八十一難経』(1536年)は、朝倉孝景が招いた医師(僧医)・谷野一栢が出版した本で、越前国で出版された最古の本になります。月舟寿桂と谷野一栢は昵懇でしたから、朝倉孝景に谷野一栢を推薦したのは、月舟寿桂かもしれませんね。

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<写真2:朝倉義景墓所(一乗谷館の旧・松雲院墓地)>

 朝倉義景(戒名「松雲院殿太球宗光大居士」)の菩提寺は、永平寺ではなく、心月寺末寺・松雲院ですが、どうも朝倉氏は、本拠地を一乗谷に移してから、道元系曹洞宗の影響を受けたようですね。朝倉義景の辞世が永平寺第3世・徹通義介(日本達磨宗から曹洞宗に改宗)の遺偈と酷似しています。

 ・朝倉義景の辞世「七顛八倒 四十年中 無他無自 四大本空」
 ・徹通義介の遺偈「七顛八倒 九十一年 蘆花覆雪 午夜月圓」

それもそのはず。一乗谷の北の山を越えれば、そこは永平寺!(実際に行ってみて、あまりにも近いので驚きました  w(゜o゜)w 
(越前国の宏智系曹洞宗は、朝倉氏の滅亡と共に衰退しました。)

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<写真3:「道元禅師」座像(永平寺)>

 永平寺は、希玄道元(承陽大師)が開いた寺で、曹洞宗の大本山の1つです。後に瑩山紹瑾が開いた諸嶽山總持寺と分裂して「両大本山」となり、永平寺を「修行の本山」、總持寺を「布教の本山」と呼んでいます。

 さて、永平寺では、19代貫首(『明智軍記』では途中から1代ずれている)・祚玖が道元や永平寺の説明をしました。

1.道元が志比庄に大本山・永平寺を建てた理由


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<写真4:波多野義重座像(永平寺)>

 なぜ道元が奈良や京都ではなく、越前国吉田郡志比荘(現在の福井県吉田郡永平寺町志比)に大本山・永平寺を建てたかというと、

①興聖寺に替わる寺が必要であったこと
②深山幽谷での修行への思いがあったこと
③波多野義重の勧誘
④越前国の日本達磨宗の勧誘

が考えられます。

『明智軍記』には、さらに、

⑤白山比咩神(菊理媛神)が祀られている白山に近いから
⑥道元の師・天童如浄が越州(中国浙江省紹興市)出身だから

とあります。

※資料:『明智軍記』(第4話)「朝倉義景永平寺参詣事付城地事」
 山居の志(こころざ)し、御座(おはしま)しける処に、越前の前の太守・波多野出雲守義重入道如是、頻(しきり)に請待申されるに付き、和尚、思惟せられけるは、我、宋地に在りし刻に、『碧巌集』を書写の時、日域越路の鎮守・白山権現の助筆を蒙りし事あり。然れば、神恩を報じ、殊に吾師・如浄禅師は震旦越州の降誕なれば、旁々以て望みある国なり。

(【大意】 道元には深山幽谷での修行への思いがあった。波多野義重に勧誘されると、道元は、「越前国は、①『碧巌録』の写本を助けてくれた白山比咩神を祀る白山に近く、②師の天童如浄が越州出身であり、このような条件から、行きたいと望んでいた国である」と言って移った。)

 ──忽ち白衣の神人来たりて、助筆して畢(おわ)る。これは日本の白山権現なり。(『建撕記』)

 道元が宋から帰国する前夜、まだ『碧巌録』を写し終えていなかったが、白山比咩神が現れて、写本を助けたので、曹洞宗の寺院は、白山神社を鎮守社(守護社)としています。

2.寺号「永平」の意味


 道元は、波多野義重の招きで越前吉田郡志比庄に移ると、傘松に大仏寺(波多野義重の戒名「大仏寺殿如是源性大居士」による)を開き、後に「傘松峯大仏寺」を「吉祥山永平寺」に改めました。この「永平」という寺号は、天台宗総本山・比叡山延暦寺の寺号「延暦」を意識したのでしょうか。延暦7年(788年)に、最澄が、一乗止観院を建てたのが比叡山延暦寺の始まりであり、開創時の年号をとって「延暦」という寺号が使われました。ちなみに、徳川家の菩提寺の東叡山寛永寺(東京都台東区上野)は、「寛永2年(1625年)創立の『東の比叡山』」という意味です。

※資料:『明智軍記』
 吉祥山永平寺と号す。山号は、仏法興隆に吉祥の位ありて、太白、天童に髣髴(ほうふつ)す。寺号は、天竺より震旦へ仏心宗の渡りけるは、漢の永平年中也。今又、震旦より日本へ曹洞宗を伝ふるに依りて、三国通用の理を合(かな)へ、異国の年号を取りて、永平寺と云へり。
(【大意】 吉祥山永平寺の山号「吉祥」は、仏法興隆の吉祥を感じさせる名であり、中国で道元が修行した太白山(「天童山」とも。太白(金星)が童子の姿となって現れた山)を彷彿させられる名である。吉祥山永平寺の寺号「永平」は、インドから中国へ仏教が伝わった時の中国の元号であり、その中国から日本へ「三国通用の理」(三国(インド、中国、日本)に通用する教え)である仏教(曹洞宗)を伝えるにあたって、中国の「永遠の平和」を意味する元号「永平」を寺号としたのである。)

3.山号「吉祥」の意味

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<写真5:山門の額(道元の真筆は焼失)>

※資料:『建撕記』
 同年七月十八日、開堂説法云云。師、今日より此の山を吉祥山(きちじょうざん)と名づけ、寺を大佛寺と号す。乃ち頌有り曰く、「諸仏如来大功徳、諸吉祥中最無上、諸仏倶来入此処、是故此地最吉祥」。この日、諷経の間、龍神の起雲降雨、草木樹林みな吉祥の瑞気をあらわすと見へたり。
 補 上の四句の偈は、『華厳経』「夜摩天宮品」の偈の例を以て、文字を易(か)へて自作して唱へらる。直の経文にはあらず。またこの時には、「傘松峯」と号して、「吉祥山」の号には、宝治二年に初めて改めらる。額字の写し、今、洛下道正庵にあり。こヽに記す。「南閻浮提(なんもんふだい)、大日本国越前国吉田郡志比荘傘松峯、従今日名吉祥山。諸仏如来大功徳、諸吉祥中最無上、諸仏倶来入此処、是故此地最吉祥。宝治二年十一月一日」と、八行に書せり。これ真筆の写しなり。「自今日」(今日より)とあれば、昨日までは傘松峯なり。こヽは記者の失考なり。(中略)是を吉祥山と名けらるヽことは、吉祥は帝釈宮の名、又、仏の成道の時、吉祥草をしき玉ふ。今地を平げ、伽藍を建立する処、吉祥なり。
(【大意】 宝治2年11月1日、山号「傘松峯」を「吉祥山」と変えた。「南閻浮提、大日本国越前国吉田郡志比荘傘松峯、従今日、名吉祥山。諸仏如来大功徳、諸吉祥中最無上、諸仏倶来入此処、是故此地最吉祥。宝治二年十一月一日」とある。この偈の元ネタは、『華厳経』第四「夜摩天宮会」第十六章「夜摩天宮菩薩説偈品」である。永平寺の「吉祥閣」は、帝釈天を祀る建物の名であり、「吉祥草」(古代インドにおいて、祭祀の際、地面に撒く草)の「吉祥」であって、釈迦も成道の時(悟りを開いた時)、菩提樹の下に吉祥草を敷いて坐したという。)

4.永平寺歴代貫首


《道元系曹洞宗法系図》 ※丸数字は永平寺貫首

①希玄道元─②孤雲懐奘┬③徹通義介─瑩山紹瑾(總持寺)─峨山韶碩─大源
             ├④義演    
             ├寒巌義尹
             ├宝慶寂円─⑤義雲─⑥曇希─⑦以一・・・⑲祚玖
             ├永興詮慧
             ├義準
             └道荐

 永平寺では、内紛(日本達磨宗から改宗した人物と生え抜きとの貫首(永平寺の住職)争い)を徹通義介が収めきれず、徹通義介は東香山大乗寺(石川県金沢市長坂町)に移り、義演が4世となりました。徹通義介の弟子・瑩山紹瑾は、能登国(石川県鳳至郡門前町)に總持寺(後に神奈川県横浜市へ移転)を開山し、後醍醐天皇(南朝)から「日本曹洞賜紫出世之道場」の綸旨を得るが、永平寺も後円融天皇(北朝)から「日本曹洞第一道場」の勅額・綸旨を受けたので、曹洞宗の大本山が2寺(両大本山)になってしまいました。

 瑩山紹瑾は弟子に恵まれ、「四哲」(明峰素哲、無涯智洪、峨山韶碩、壺庵至簡)を輩出して発展しました。一方、永平寺では、保守派の義演と進歩派の宝慶寂円(道元の師・天童如浄の甥)が対立し、外護者・波多野氏の支援も弱まって、寺勢は急激に衰え、廃寺同然になりましたが、5世・義雲が再興すると、その後は宝慶寂円の法孫が歴代貫首となりました。

5.「永平寺十一景」


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<写真6:「玲瓏の滝」(永平寺)>

「永平寺八景」に3景を加えたのが「永平寺十一景」になります。後に「永平寺十境十景」に変更されました。

※「八景」については、『明智軍記』第44話「信長公御居城被定江州安土事付天守事」で解説します。

①玲瓏巖(れいろうがん):天童山景徳寺にも似た岩があり、横に同寺から運んだ木の苗を植えた。

②涌泉石(ゆうせんせき):水が、渓流石に当たって、水が湧いてるように見える。

③偃月橋(えんげつきょう):半月を偃せたような橋。満月の半分。

④承陽春色(じょうようしゅんしょく):承陽庵(現・承陽閣)の周囲に春になると百花が競って咲き誇る。

⑤西山積雪(せいざんせきせつ):西の山には夏にも雪が残っているという。

⑥竹径秋雨(ちくけいしゅうう):孤雲閣の西の竹藪の小道に降る秋の雨。

⑦仮山松風(かさんしょうふう):承陽庵の左の仮山の老松を通る風(の音)。

⑧白石禅居(はくせきぜんきょ):承陽庵の前の道元の座禅石。

⑨深林帰鳥(しんりんきちょう):深い林に帰る鳥。

⑩祖壇池月(そだんちげつ):承陽庵の池に映る月。

⑪樵屋茶烟(しょうおくさえん):境内から見える山民(きこり)の家の茶煙(さえん)。

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<写真7:涌泉石と偃月橋>

おまけ「永平寺十境十景」

《十境》

①傘松峰(さんしょうほう):大仏寺山。傘の形の老松があった。

②剣降嶺(けんこうれい):剣ヶ岳。昔、宝剣が降ったという。

③玲瓏巖(れいろうがん):天童山景徳寺にも似た岩があるとして、道元が借用して命名。

④虎咆泉(こほうせん):天童山景徳寺の滝の名(虎咆泉)を道元が借用して命名。

⑤涌泉石(ゆうせんせき)

⑥偃月橋(えんげつきょう)

⑦白山水(はくさんすい):湯茶用の湧き水。

⑧羅漢松(らかんしょう)

⑨霊山谷(りょうぜんこく):霊山院がある谷。

⑩菩提園(ぼだいえん):弧雲禅師の墓所。

《十景》

①承陽春色(じょうようしゅんしょく)

②弧雲名月(こうんめいげつ):弧雲閣から見る月。

③白石禅居(はくせきぜんきょ)

④青山積雪(せいざんせきせつ)

⑤仮山松風(かさんしょうふう)

⑥祖壇池月(そだんちげつ)

⑦竹径秋雨(ちくけいしゅうう)

⑧樵屋茶烟(しょうおくさえん)

⑨神林帰鳥(しんりんきちょう):白山権現を祀る林に帰る鳥。

⑩西嶺斜照(せいれいしゃしょう):夕日に照らされた西嶺(吉野ヶ岳?)。

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