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視聴記録『麒麟がくる』第25回「羽運ぶ蟻」2020.9.27放送

覚慶(滝藤賢一)は還俗(げんぞく)し、足利義昭を名乗る。しかし受け入れを希望する越前・朝倉義景(ユースケ・サンタマリア)の態度が決まらず、近場で立ち往生を余儀なくされていた。一方、信長(染谷将太)は長きにわたる斎藤龍興との戦に勝ち、ついに美濃を平定する。かつての家臣・伝吾(徳重 聡)から文が届き、光秀(長谷川博己)は母・牧(石川さゆり)を連れて、なつかしい美濃へと旅をする。訪ねた岐阜城で「何のために戦っているのかわからなくなった」と言う信長に、光秀は「上洛して新しい将軍と幕府を再興すれば、武士が誇りを持てる平らかな世になりみんなが喜ぶ」と言う。しかし肝心の将軍候補・義昭の評を信長から聞かれると、光秀は口ごもってしまうのだった。越前に戻った光秀を、なんと義昭が待ち構えていた。

★小和田先生の解説
https://www.youtube.com/watch?v=NwTn8eKasBk

1.前回の復習


 前回(第24回「将軍の器」)は永禄8年の話であった。
 永禄8年(1565年)5月19日、足利義輝が暗殺された(「永禄の変」)。事の真相は不明であるが、一説に「足利義輝を討つもりはなく、室町時代の常套手段「御所巻」(強訴)により、訴訟を通そうとしたが、交渉が決裂し、刃向かってきたので、討ってしまった」という。この説の典拠が、次の「永禄8年6月19日付、直江景綱宛、山崎吉家&朝倉景連連署状」(『上杉家文書』)である。

※直和:直江大和守景綱。永禄7年(1564年)、上杉景虎から「景」を拝領して「景綱」と改名。

就京都之儀、自是可申之所、去十四日之御状、令被閲候、去月十九日、号三好左京大夫、松永右衛門佐、訴訟、公方様御門外迄致祗候、人数御殿江依打入、直に度々御手を下され、数多被為討捨、無比類雖御働候、御無人之条、不及御了間、被召御腹由候、誠恣之仕立、前代未聞、無是非次第、限沙汰ニ候、鹿苑院殿様も於路次御生害、慶寿院殿様於殿中御自害候、其外諸侯之面々卅人計、女房衆も少々被相果旨候、一条院殿様無御別儀南都ニ御座之由候、先以可然御儀と申事ニ候、定而可為御同意候、京都様躰其無意儀旨候、時合方々注進、従此方差登飛脚等申之趣、乍同前少相替様ニ候、従林右(林平右衛門尉)具被申下由候間、注之進入不申候、然而、彼国江儀、先日御報ニ委曲如申入候、来月盆前後御出張肝用存候、又遅々候てハ、不可有曲候、京都如此之時者、覚旁尚以被相急度事候歟、委細、御使僧江令申候間、不能再三候、恐々謹言、
 六月十九日  
     朝玄景連
     山崎吉家
  直和
 参 御返報

 先月(5月)19日、三好左京大夫義重(三好長慶の嫡養子。変後に義継)と松永右衛門佐義久(松永久秀の子。変後に久道)が「訴訟」と言って、「公方様御門外迄致祗候」(足利義輝が居る二条御所を取り巻き)、「人数御殿江依打入」(兵が討ち入ると)、「直に度々御手を下され」(足利義輝は、直々に自ら刀を持って戦いに加わり)、「数多被為討捨、無比類雖御働候」(数多くの敵を討ち取るという見事な働きをしたが)、「御無人之条」(多勢に無勢であったので)、「不及御了間」(了簡に及ばず=十分に考えて判断することが出来なくなって=頭が真っ白になって)、被召御腹由候(切腹した)。
 とはいえ、「訴状を足利義輝が見る前に討ち入った」「弟・周暠を殺した」「身ごもっていた側室・小侍従を殺した」ということを考えると、「訴訟決裂」は口実であり、はじめから「足利一族の殲滅」「倒幕」が目的であったと考えるべきであろう。三好家の分裂がなければ、三好義重が三好義継と名乗って将軍になっていたはずである。(結局、三好義継は、阿波三好家の意見を取り入れて、足利義親を将軍候補とした。)
 下掲の「永禄8年5月26日付、河野左京大夫通宣宛、梅仙軒霊超書状」(『河野文書』)では、「永禄の変」の黒幕を足利義親とし、足利義親を将軍にしようして行ったのであり、足利一族の死は、「不慮出来候」(不慮の出来事である)とする。

呉々も此分由候ても連々頼存事候間、偏ニ万端頼ニ存事此刻候、尚以無正体、又一様ニ罷成候事、具撨江ニ申合候間、可申入候、口惜敷迄候、此外不申候、南都一条院殿今日迄ハ無事候間、先以大慶候、此外不申候、
急度令申候、仍去十九日巳刻、三好孫六郎、松永右衛門佐、公方様へ取懸申候処、奉公衆数刻戦申候、然共人々無之□時節候間、被御腹切候、同時に慶寿院殿・鹿苑院殿御生害候、其の外、奉公衆六十余人打死候、前代未聞、絶言語迄候、此儀、去年冬、志野原、堺津へ罷上、阿州公方入洛調段、御時刻候哉。上下共曽以無風聞候間、不慮出来候、公方様御動様無及樊噲様ニ申候、慶寿院殿も御自害無比類事ニ候、其外奉公衆何も御動不及是非事、さて〱、無申方事□、忘前後迄候、拙者存命無曲次第候、併御分別専一候、猶撨江斎可申候、恐々謹言、
 五月廿六日       霊超在判
※切封上に
   河野左京大夫殿     霊超
    進之候

「去十九日巳刻」(去る5月19日の巳の刻に)、「三好孫六郎、松永右衛門佐」(三好義重と松永義久が)、「公方様へ取懸申候処」(足利義輝を襲うと)、「奉公衆数刻戦申候」(奉公衆が数刻(数時間)にわたって応戦した)、「然共人々無之□時節候間」(とはいえ、多勢に無勢であったので)、「被御腹切候」(足利義輝は切腹した)、「同時に慶寿院殿、鹿苑院殿御生害候」(足利義輝の母・慶寿院は火に飛び込んで焼身自殺し、足利義輝の弟・鹿苑院周暠を討ち取った)、「其の外、奉公衆六十余人打死候」(その他、奉公衆60余人が討ち死にした)、「前代未聞絶言語迄候」(前代未聞、言語道断の出来事である)、「此儀、去年冬、志野原、堺津へ罷上」(この事件については、去年の冬、篠原長房が堺港へ行って)、「阿州公方」(足利義親)の「入洛調段」(上洛について調(ととの)えたる段)に始まる。

※「此儀去年冬志野原、堺津へ罷上、阿州公方入洛調段、御時刻候哉。上下共曽以無風聞候間、不慮出来候」を、ある学者は、
「私は足利義栄が黒幕だ(この事件については、去年の冬、篠原長房が堺へ行った時、足利義親を入洛させる算段を調整した時に始まる)と思うのであるが、私だけがそう思っている(世間では、曾て、そういう風聞が立たない)うちに、不慮の出来事が発生した」
と訳されていたが、私の訳は、
「この事件については、去年の冬、篠原長房が堺へ行った時、足利義親の入洛の手はずを調整したことに始まったと思われる。その後、身分の高い、低いにかかわらず、『足利義親が足利義輝を京から追い出して将軍になる』という曾(かつ)てない(途方も無い)風聞(噂)が広まり、ついに、今回の『足利義輝を京から追い出すのではなく、殺害する』という思わぬ事件に繋がったのである」
である。世間に倒幕の噂があったのか、なかったのか。

 「足利義親が黒幕」としているのは、足利義輝に仕えていた梅仙軒霊超(上掲『河野文書』)、宣教師のルイス・フロイス(『日本史』)、公家の山科言継(『言継卿記』)であり、学者は、足利義親黒幕説を、「個人(霊超、フロイス、言継)の推測」、もしくは、「公家や宣教師の間に広まった噂であり、世間(庶民)や武士の間には噂が広まっていなかった」として否定する。その根拠は、「足利義親の渡海が、「永禄の変」の直後ではなく、翌年の9月23日だから」とするが、渡海が遅れたのは、三好家の分裂というか、将軍になろうとした三好義継との調整期間があったからであろう。

 以上、「永禄の変」の真相は不明であるが、足利義輝の死については、ドラマのように「戦って討たれた」のではなく、「戦ったが、敵の数が多くてきりがないので、切腹した」が史実だという。(確かに、討死であれば、討った三好検校の名が、叛逆者として、「明智光秀」程度に広く知られているはずである。私は、「下級武士に討たれた」が史実で、それでは世間体が悪いので、足利義輝の名誉のために「切腹した」と公表したと考えている。三好氏にしても、「討った」よりも「自害した」の方が「謀反」のイメージが薄れてよいかと思われる。)

「永禄の変」の首謀者には次の3説がある。

1.首謀者=松永久秀説
2.首謀者=足利義親(義栄)説
3.首謀者=三好義重(義継)説

・首謀者=松永久秀説:以前は、首謀者=松永久秀説が有力であったが、現在では否定され、『麒麟がくる』の松永久秀は、「黒幕であり、息子にやらせたが、『殺せ』とは指示していない」としている。「将軍殺害は、息子や三好義重の暴走」という認識であろうか。

・首謀者=足利義親(義栄)説:四国の足利義親は、以前から上洛して将軍になりたがっていたという。「永禄の変」の直後に上洛して将軍になったのなら首謀者であろうが、将軍になるのに1年以上もかかっているので、首謀者だとは考えにくい。

・首謀者=三好義重(義継)説:首謀者は三好義重で、将軍になろうとしたがなれず、足利義親を推すことになったというのが、「永禄の変」の真相であろう。

 以上、「永禄の変」とは、「倒幕」、あるいは、三好義重が足利義輝に代わって将軍になろうとした「政変(クーデター)」であろうが、三好義重は将軍にはなれなかった。三好宗家の宗主・三好長慶を継いだ三好義重の正体は、養子の十河重存であり、「将軍の器」であっても、足利家に比べたら、「血」が劣る。足利氏が絶えたら、継ぐのは足利氏の分家である斯波家、細川家、畠山家、いわゆる「三管領」の何れかであろう。(足利家の分家に吉良家、吉良家の分家に今川家があり、『今川記』に「室町殿の御子孫絶えなば吉良につがせ、吉良も絶へば今川につがせよ」とあるが、これは『今川記』の作者の願いにすぎない。)

★関連記事:「永禄の変」の真実
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■「永禄の変」後の改名が面白い!


松永久道:松永久道は、将軍・足利義輝から「義」を拝領して、「義久」と名乗ったが、「永禄の変」後、「義」を捨て、「久道」に戻した。

三好義重:十河重存は、三好長慶の養子となり、将軍・足利義輝から「義」を拝領して、「三好義重」と名乗ったが、「永禄の変」後、「義継」(「義」(足利氏)は絶え、三好氏が「継」ぐ)と改名した。(「義」は足利氏の通字であり、「足利氏」や「足利将軍」の象徴である。)

足利義親:三好義継に対抗して、「義栄」(「義」(足利氏)は絶えず、「栄」える)と改名した。

覚慶:還俗して「足利義秋」と名乗るが、元服の時、「秋(あき/しゅう)」は「愁(しゅう)」に通ずとして「昭(あき)」に置き換えた。また、「秋」は凋落を意味する「冬」にさしかかる季節であるから不吉だとして、あるいは、足利義栄の父・足利義維(よしつな)の「義冬」への改名を受けての改名ともいう。(足利義維と足利義冬を別人とする説もある。)

2.今回の予習


 今回(第24回「羽運ぶ蟻」)は永禄9年と10年の話である。(正確には永禄9年9月8日の越前国敦賀へ動座~永禄11年2月8日の足利義栄の将軍就任までである。)

 さて、この「視聴記録『麒麟がくる』」は、『麒麟がくる』の史実の解説とドラマの感想の記事であるが、この永禄9年と10年には重要な出来事が起き、史実の解説を書いていたら8472文字になってしまったので、これを「【活動支援記事】第25回マニアックVer.」とし、この記事ではドラマの感想を中心に書いています。(「取材費をめぐんでやる。サポートしてあげるからしっかりと取材せよ」とおっしゃる方は、「【活動支援記事】第25回マニアックVer.」をご購読下さい。)

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■略年表

永禄8年(1565年)5月19日、兄・義輝が暗殺される。(「永禄の変」)
永禄8年(1565年)

7月28日   覚慶、興福寺から脱出。近江国甲賀郡の和田城へ。
11月16日 「三好三人衆」結成
11月21日 覚慶、近江国野洲郡矢島村の矢島御所へ。
12月5日   織田信長、細川藤孝宛の書状で上洛の意向を示す。
------------------------------------------以上、第24回「将軍の器」-------------
永禄9年(1566年)
2月17日   覚慶、還俗し、「足利義秋」と名乗る。
4月21日   足利義秋、従五位下・左馬頭に叙位・任官
5月13日   生駒吉乃、小牧山城にて病死
7月13日   足利義秋、武田義統に濃尾和睦を連絡
7月17日   織田信長、「尾張守」と名乗る。
8月3日     三好長逸、矢島御所を襲撃(明智光秀は田中城に篭城?)
8月22日   織田信長の上洛開始予定日であったが延期
8月29日   織田信長、斉藤竜興と交戦し、閏8月8日に敗北
8月29日   足利義秋、妹婿・武田義統を頼り、若狭国小浜へ動座
9月8日        足利義秋、朝倉義景を頼り、越前国敦賀へ動座
9月23日   足利義親、阿波国から摂津国越水城へ動座
9月24日   木下藤吉郎、墨俣城を一夜で築城
10月3日   足利義秋、朝廷に太刀と馬を献上
10月20日 米田貞能、明智光秀が沼田清延に口伝した『針薬方』を写す。
12月7日   足利義親、摂津国越水城から摂津国富田普門寺へ動座
12月24日 足利義親、朝廷に従五位下・左馬頭に叙位・任官を要請
12月28日 足利義親、従五位下・左馬頭に叙位・任官
永禄10年(1567年)
1月5日     足利義親、「足利義栄」に改名
2月16日   三好義継、出奔。松永久秀の元へ。
4月8日     武田義統、死去。享年42。家督は嫡男・武田元明が継ぐ。
5月17日   織田信長の長女・徳姫と徳川家康の長男・信康が結婚
8月1日     美濃三人衆、織田信長に帰服
8月12日   朝倉義景、若狭国へ出兵し、武田元明を拉致
8月15日   織田信長、稲葉山城を攻略。「岐阜城」に改名
11月21日 足利義秋、朝倉義景を頼り、越前国一乗安養寺へ動座
永禄11年(1568年)
2月8日    足利義栄、摂津国で将軍宣下を受け、第14代将軍に就任
------------------------------------------以上、第25回「羽運ぶ蟻」-------------

■登場人物


足利義昭:永禄8年(1565年)5月19日の「永禄の変」で、兄である将軍・足利義輝が殺害され、次期将軍候補として名が挙がった覚慶は、興福寺に監禁されたが、脱出し、江南の和田谷の公方屋敷へ一時避難をした。
 11月21日には、山間部の隠れ家である和田谷の公方屋敷から、江南の矢島御所へ動座。矢島は琵琶湖を利用した水上交通の要所で、琵琶湖を渡り、峠を越せば京都である。覚慶は、各戦国大名に上洛の要請をすると、織田信長が応じた。それで、和田惟政と細川藤孝を織田信長のもとへ派遣した。
 覚慶は、永禄9年(1566年)2月17日に還俗して「足利義秋」と名乗り、4月21日には従五位下・左馬頭に叙位・任官し、あとは上洛するだけであった。8月3日、三好長逸に襲撃されるが難無きを得た。一説に、対岸の田中城(比良城)に待機していた明智光秀(足利義輝の奉公衆とも、細川藤孝の家臣とも、牢人(傭兵)とも)らが駆けつけて追い返したという。
 足利義秋は上洛を急ぎ、その日が8月22日に決まるも、江南を領する六角氏に不穏な動き(六角氏の家臣が親三好派と反三好派に分裂)があるとして 延期された。8月29日、織田信長は美濃国に侵攻し、同日夜に足利義秋は、妹婿・武田義統を頼って若狭国へ動座した。織田信長の美濃国侵攻の理由については諸説あるが、私は足利義秋動座の陽動作戦だと考えている。

※若狭国小浜へ移る時、足利義秋が琵琶湖を渡る舟の上で詠んだ漢詩
 落魄江湖暗結愁(落ちぶれて、琵琶湖は暗く、愁いが募る。)
 孤舟一夜思悠悠(一艘の舟、一夜をかけて、悠々と行く。)
 天公亦慰吾生否(天は、また、我が生を慰めるか、否か。)
 月白盧花浅水秋(月光が白く輝き、芦の花が見える琵琶湖の秋である。)

 若狭国の政情が不安定なことから、足利義秋は、朝倉義景を頼り、9月8日に越前国へ動座するも敦賀で足止めされ、1年後の永禄10年(1567年)11月21日、ようやく、一乗谷南端の安養寺御所へ動座できた。

織田信長:足利義秋を擁しての上洛を決意し、永禄9年(1566年)7月17日、「織田尾張守信長」と名乗り、上洛日を細川藤孝、和田惟政と相談して8月22日に決めたが、延期された(「幻の第1次上洛作戦」)。
 永禄10年(1567年)、美濃国と交戦中であるにもかかわらず、突如、伊勢国に侵攻した。(この理由には諸説あるが、私は上洛のためのルートと兵の確保だと考えている。)そして、高岡城(城主は策士・山路弾正)を攻めている時、美濃三人衆(稲葉良通、安藤守就、氏家直元)が織田方に寝返ったので、踵を返して美濃国へ侵攻し、8月15日に稲葉山城を落とした。

・「紀行」
岐阜県岐阜市。美濃を攻略した織田信長は、義理の父・斎藤道三が築いた稲葉山城に入りました。焼失した斎藤氏の居館跡を造成・大改修して造られた信長の館には、いくつもの庭園があったといいます。中でも自然の岩盤を生かした庭には、滝も流れていました。地上の楽園ともいわれた居館は、特別な客人を迎える迎賓館でもあったのです。長良川の鵜飼いを接待の場として用いた信長は、漁師に「鵜匠」という名称を与えて保護したといいます。さらに、新しい町づくりを行い、道三が築き上げた「井ノ口(いのくち)」と呼ばれたこの地を、中国の故事にちなみ、「岐阜」と改名しました。美濃の新たな主(あるじ)となった信長は、この地を拠点に上洛を目指すのです。
https://www.nhk.or.jp/kirin/journey/25.html

帰蝶、生駒吉乃
 ──帰蝶ロス。
 最近、帰蝶が登場しない。太田牛一『信長公記』には、帰蝶について、結婚の記事しか載っていないので、離婚説や早世(自害)説もある。ドラマでは、織田信長が「清洲で子育てをしている」と言っていたが、「清洲」ではなく、「小牧山」であろう。(私は、帰蝶は、稲葉山(金華山)山麓の居館の奥の間に居ると考えている。)
 小牧山城は、今までは「美濃国攻めの最前線の砦で、稲葉山城を落とすと城割(破壊)された」と考えられてきた。ところが、武家屋敷はもちろん、民家も清洲から小牧山麓に移されたことが分かり、「最前線の砦」ではなく、「居城」であることが分かった。
 奇妙丸(信忠)、 茶筅丸(信雄)、五徳(徳姫)の生母とされる生駒吉乃については、偽書『前野家文書』によれば、織田信長が、生駒屋敷にいる生駒吉乃に「小牧山城に住むように」と連絡すると、生駒吉乃の兄・八右衛門が「産後の肥立ちが悪くて寝ているので、移動は難しい」と答えたので、織田信長は驚き、生駒吉乃の身分では乗ることはできないはずの輿に乗せて小牧山城に運び入れたが、永禄9年5月13日に亡くなったという。

足利義栄:父・足利義維は、享禄5年(1532年)、将軍・足利義晴らとの戦いに敗れ、阿波国へ逃げ、阿波三好氏に保護されていた。足利義親は、永禄9年(1566年)9月23日、中風を患って体力的に将軍にはなれない父・義維、弟・義助と共に渡海し、摂津国越水城(兵庫県西宮市桜谷町)へ動座した。12月7日、越水城から摂津国富田の臨済宗妙心寺派普門寺(大阪府高槻市富田町)へ動座し、12月28日には従五位下・左馬頭に叙位・任官されて、足利義秋と同レベルになった。そして、足利義秋がもたついているのを横目に、永禄11年(1568年)2月8日、普門寺で将軍宣下を受け、第14代将軍に就任した。勝負あり!!将軍就任レースに勝った!!
http://www.city.takatsuki.osaka.jp/rekishi_kanko/rekishi/rekishikan/jidai/shaji/1327671353304.html

3.今回のストーリー


 覚慶は還俗して「足利義秋」と名乗り、近江国和田谷(公方屋敷)→近江国矢島(矢島御所)→若狭国小浜→越前国敦賀と動座しました。頼りとする朝倉義景がいる一乗谷には、まだ入れません。細川藤孝が使者として一乗谷へ行くも、朝倉義景は仮病を使って会おうとしませんでした。朝倉義景には上洛の意志があったのですが、明智光秀の「覚慶は将軍には適さない人物である」という報告を聞いて迷っていたのでした。(そうしているうちに、足利義秋の髪の毛が生え揃った!)

 ──その足利義秋は、庭で「羽運ぶ蟻」をじっと観察していた。

(蟻・・・垣根涼介の『信長の原理』にインスパイアされたのか?)
 さて、その頃、織田信長は、美濃国稲葉山城から斉藤義竜を追放し、美濃国を平定しました。そして、明智光秀の母・牧のもとに、明智庄の藤田伝吾から手紙が届き、牧は「故郷・明智庄に帰る」と言い出しました。妻・煕子は、「ここが子供たちの故郷ですから」と同行を拒否しました。(明智光秀は、「美濃国は母の生まれ育った地」と言っていました。牧は、若狭武田氏とされていますが、このドラマでは、こういう設定なのでしょうね。ところで、明智庄の今の領主は誰なのでしょう? 旧領主の正室・牧の帰還を快く思っているのでしょうか?)
 明智庄へ母・牧を送っていった明智光秀は、藤田伝吾から、10年近く及んだ尾張国との抗争に終止符がうたれたのは、「若い斉藤竜興は、国主の器に有らず」と判断した「美濃三人衆」が織田方へ寝返ったことであると知ります。
「斉藤義竜が生きていたら、こうはならなかっただろう」
と思う明智光秀でした。戦国時代、滅ぶ国と滅ばざる国の違いは、国主の力量の差にあるようです。

 明智光秀は、織田信長に謁見しました。織田信長の「儂に仕える気はないか?」という誘いに「やりたいことが分からないので」と断ると、織田信長も「儂も分からない」と言い返しました。
 ──目標ロス。
明智光秀の「足利義輝の奉公衆になって足利幕府を再興する」という夢は、足利義輝の死によって途絶えました。織田信長の「美濃国を平定する」という10年近くにわたる夢は成就するも、織田信長は、
「戦は好きだ。勝てば皆が喜ぶ。只、この先、どこへ向かって戦をいしてゆけば良いのか、それが分からぬ」
と目標を失っていました。明智光秀は、
「周囲の国々にとらわれること無く、上洛して『大きな国』を作れば良い」
と進言しました。兼ねてから堺を手に入れたいと思っていた織田信長は目を輝かせます(明と商いしたいようなこと言ってましたが、堺での日明貿易は、織田信長が生まれる11年前から行われていません。再開するの?)が、
「足利義秋を担ぐのか? 足利義秋は将軍の器か?」
と聞かれて返答できない明智光秀でした。

 ここで場面変わって、京都の駒。今井宗久が登場します。
 「病気なのにお金がなくて医者にかかれない人のために、寺社が買い取って無料で配る丸薬」が「芳仁丸」ですが、「母が病気」と偽り、無料で得た「芳仁丸」を転売している少年がいると聞いて、駒はお説教するために少年・平吉の家に行きました。(大大的にやってるかと思いきや、1袋売って数銭儲けただけのようです。)
 話は変わりますが、コロナ禍で、1500円で購入したマスクを15000円で転売した人(通称「転売ヤー」)がいます。第三者は「10倍で売るとは悪どい」と言いますが、「コロナ禍でリストラされ、仕事がなくなったので、生きるために仕方なくやった」のでしょう。「生きるため」なら何でも許されるわけではありません。嘘はダメです。法律違反もダメです。でも、モラル違反なら許される? 望月東庵ならば、マスクの転売について、「誰も間違っとらんよ。お金を払うだけの余裕がある者が買い、その人を助けている」(お金が金持ちから貧乏人に流れて、所得の格差が縮まれば良いこと)と言うでしょう。転売を否定することは、「商品の価格は、需要と供給のバランスで決まる」という商業の基本や、「安く買って、高く売りつける。苦労しないで転売で儲ける商人は汚いから軽蔑する」(「士農工商」と、商人を最下位にランク付ける)と、商業や商人、貨幣経済の否定に繋がります。難しい問題ですね。(それはそうと、妙昇寺の住職役の不破万作さんって、どこかで見た記憶が・・・『おんな城主 直虎』「盗賊は二度仏を盗む」の近藤氏の菩提寺・冨賀寺の住職そっくり(笑)。)

※関連記事:【『麒麟がくる』関連コラム㊴】駒の丸薬「芳仁丸」
https://ameblo.jp/sengokumirai/entry-12626655974.html

 明智光秀が越前国に帰ると、家の前に警備兵が・・・なぜか警備兵に呼び止められず(苦笑)、家に入ると足利義秋がいました。足利義秋は、訪問理由を「敦賀にいると息が詰まるし、退屈だ」と言いますが、自宅訪問の真意は「朝倉義景に上洛を促して欲しい」という直々の要請でした。足利義秋は、庭で「羽運ぶ蟻」を観察して、「羽」は将軍の座、「蟻」は自分だと思ったそうです。
「僧の覚慶は無力であった。数人の貧民に食料を与えることしか出来なかった。でも、将軍になれば、力を得れば、もっと多くの貧民を救えるかも知れない。そう考えれば、将軍になるのも悪くない。力を貸して欲しい」
と頼まれ、心が動く明智光秀でした。

 朝倉義景は、のんびりと暮らしているようで、実は地獄耳であり、明智光秀が足利義秋に会っていたことを知っていました。何を話したか聞かれた明智光秀は「蟻の話」と答え、足利義秋の人物評を
「強い大名方がお支えすれば、立派な将軍になるやもしれません」
と変えると、朝倉義景は、
「松永久秀が『織田信長と共に上洛せよ』と書状で言ってきている。『織田信長と共に』が気に食わないが、致し方なし。上洛しよう」
と決心しました。『織田信長と共に』が気に食わない理由は、格下の織田信長と同等に扱われたからです。朝倉家は守護。織田家は守護の下の守護代の分家。家格が違う。(朝倉氏=越前国守護説は現在では、ほぼ否定。)

司馬遼太郎『国盗り物語』(第3巻)
「信長?」
朝倉土佐守はあざ笑った。織田家はその遠祖さえさだかでない家で、流説では先祖はこの越前の丹生郡織田荘の神官で、それがいつのほどか尾張へ流れて行った者の末裔がいまの信長であると土佐守はきいている。信長がちかごろどれほど東海地方で頭を出しはじめているにせよ、名家の朝倉家からすれば、わが領内から流れて行った者の末裔にすぎない。

「(山崎吉家の反対を振り切って)ついに山が動く!」と明智光秀が朝倉義景を見直していると、朝倉義景の長男・阿君丸(くまぎみまる)が泣きながらやってきて、「ペットであるネズミの忠太郎が逃げた」という。縁の下に潜ってネズミを探す朝倉義景の姿を見て、明智光秀は幻滅した。国主なら威厳を持って、いなくなった状況を聞いて、「逃したお前が悪い」「また捕らえれば良い」とか、「今度は逃げない金魚を飼おう」と代案を出すことでしょう。少なくとも家臣に探させ、自分では探しません。「国主とは、そういう存在だ」と自分の姿で帝王学を教えなければなりません。(私なら「ネズミではなく、鷹を飼え」と言います。ちなみに明智光秀は子年生まれとか。)

 そうこうするうち、永禄11年(1568年)2月8日、足利義栄が、第14代将軍に就任してしまいました。足利義秋の負け~~~!!!

【後日譚】今回、上洛に意欲を示した朝倉義景であるが、永禄11年6月25日に阿君丸が病死(一説に毒殺)すると、失意に陥り、上洛はもちろん、政務を放棄したという。それで足利義昭は、朝倉義景を見放して一乗谷から岐阜に動座し、織田信長が単独で(実際には同盟者の徳川家康にも手伝ってもらって)足利義昭を上洛させた。

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