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熱田大神=楊貴妃!?

ここでは、
「熱田大神=楊貴妃は史実なのか?」
が問題なのではなく、
「『熱田大神=楊貴妃説』は人々に知られていたか?」
「熱田大神=楊貴妃だと人々に信じられていたか?」
が問題です。

江戸時代の大ベストセラー『東海道名所図会』には、次のようにあります。

※秋里籬島『東海道名所図会』(巻の3)「熱田大神宮」(江戸時代後期)
 里諺(俚諺。りげん)にいう。むかし唐の玄宗皇帝、400余州を治め、この日本(ひのもと)を取らんとて計り給ふを、当社の御神しろしめして、仮に楊貴妃と現れ、世を乱し給ひければ、日本を取ること叶わず、貴妃は馬嵬(ばがい)が原にて、高力士がために空しくならせらる。玄宗、別れを惜しみ、方士・楊通幽と云ふ者を四方へ遣はして、その魂魄(こんぱく)を尋ねられしに、「日本蓬莱山におわします」とて、当社に尋ね来たりしと云ふ。すなわち、この内天神(うちのてんじん)とは、楊貴妃の霊を祭るなりとぞ。このこと古く、世の人口に膾炙(かいしゃ)す。社説には聞こへ侍らず。しかはあれど、『仙伝拾遺』を引いて、『暁風集』にもこのこと載せたり。また、『東海瓊花集』には、秦の徐市、始皇の詔(みことのり)を奉(う)けて、不死の薬を求めんとて日本へ渡り、「熱田の神祠、これ、蓬莱宮なり」と記す。
https://websv.aichi-pref-library.jp/wahon/detail/179.html


『東海道名所図会』に載っているということは、「有名な話」ということです。実際、「世の人口に膾炙す」とあります。織田信長も中島可之介も知っていたことでしょう。ただ、「人々は知っているが、信じていたか?」といえば、多くの川柳で茶化されていますので、信じてはいなかったでしょう。

  楊貴妃は もと神州の まわし者
  楊貴妃も 元かつがれた 女なり
  大和言葉は おくびにも 貴妃出さず
  玄宗は 尾張詞に たらされる
  大国の 美人尾州に 跡をたれ
  日本には かまいなさるなと 貴妃はいひ
  唐の人 魂を日本で めつけ出し

白居易「長恨歌」関連の川柳もあります。

 三千の 一は日本の まわしもの

これは、白居易「長恨歌」の「後宮佳麗三千人。三千寵愛在一身(後宮の佳麗3000人。3000の寵愛、一身に在り)」。

  楊貴妃を 上へきらくを 先ずたづね
  よし原に 居るのにへきらくまでたづね

こちらは、白居易「長恨歌」の「上窮碧落下黄泉(上は碧落(へきらく)を窮(きわ)め、下は黄泉」。

 あっちからは玉藻 こっちからは貴妃

 楊貴妃=熱田大神の話は、「元寇を追い払ったのは伊勢神宮の神風」という話に対抗して熱田神宮が創作したと考えられていますが、楊貴妃の五輪塔をいつ、誰が立てたのか、熱田神宮の社誌には記載がなく、詳細は不明です。

※『海と列島文化』(8巻)「伊勢と熊野の海」
 蓬莱山は、中国の神仙思想において説かれる神山の一で、神仙が住み常人の行き着けぬところとされていた。蓬莱山の思想はわが国にももたらされ、その空想上の神山への憧れは現実の世界にそれを求め、具体的に比定された場所の一つが熱田神宮であった。
 蓬莱説は一般的にいって徐福伝説に結びついており、熱田神宮の場合も徐福伝説と結びつけようとする考え方があったようであるが、それとは異なる楊貴妃伝説を媒介とする説が主流を占めているところに、熱田蓬莱説の特徴がある。
 熱田と楊貴妃が結びつくような説が考え出されるにいたった理由は明確ではないが、十四世紀前半に成立した、比叡山の僧光宗の著作『渓嵐拾葉集』に、「唐の玄宗皇帝、楊貴妃とともに蓬莱宮に至る。その蓬莱宮は我が国の今の熱田明神是なり」と述べ、社壇の後ろにある五輪の塔婆が楊貴妃の墳墓であるとしている。また南北朝時代の作とされる『曽我物語』にも、楊貴妃は熱田明神であり蓬莱宮は熱田であるとしている。
 熱田明神=楊貴妃説は、水野守俊の作といわれる『尾陽雑記』に、玄宗皇帝が中国を支配しさらに日本をも侵略しようとした。そのとき熱田明神が楊貴妃となって唐に渡り、玄宗皇帝の心を蕩かして世を乱れさせたので、日本を攻めることができなくなった。その後楊貴妃は馬嵬で殺されたが、その幽魂の居所を方士に尋ねさせたところ、蓬莱山にいることがわかった。その尋ねていった蓬莱山というのが、熱田社である。と述べられている。
 『尾陽雑記』は、口碑と文献資料を混在させた著作であるが、正徳5年(1715)の序文を持つ井沢長秀(蟠竜子)の『広益俗説弁』も、俗説としてほとんど同じ内容を掲げたうえで「今案ずるに此説甚だ非なり」と否定している。
 『渓嵐拾葉集』にあるように、熱田明神=楊貴妃説は南北朝時代にすでに登場しているし、蓬莱山だけでは必ずしも楊貴妃には直結しないから、この種の伝承は以外に早くから成立していたかもしれない。天文年間(1532~55)にこの地を通った谷宗牧の『東国紀行』にも、 「唐の代おこりて我国をかたぶけんとせしにも、貴妃に生まれたまひて彼世をみだれしもこの御神の力とぞ。方士がたずね来れる蓬莱も此勝地を申となり。長恨歌の大真院此宮の春敲門思ひよせられたり。はるばるいりぬる海づら。宮中の大末神代おぼえたる景色。霜がれをしらぬみどり。常住不滅の表相うたがふべからず」と記されている。
 この楊貴妃=熱田明神説は、中世における長恨歌研究そのもののなかに採用されており、『尾陽雑記』や『広益俗説弁』に引かれている俗説は、もともとは和文による長恨歌の注釈書のなかに見られる。『長恨歌并琵琶引私』の外題を持つ室町時代の写本には「此ノ蓬莱ト云ハ日本ニ尾張ノ熱田明神ヘ尋行ト云義」だとし、それは「玄宗ノ日本ヲ攻テ取ラントスル処ニ熱田明神ノ美女ト成リテ玄宗ノ心ヲ迷スト云」うことによるもので、「此社ニ春敲門ト云フ」名の門があって「春ノコロ此ノ扉ヲ道士ガ敲ク故ニ其ノ門ノ額ヲ如此打ト云」ことをろんじている。
 熱田明神が楊貴妃になる理由については、『広益俗説弁』が「思うにそのかみ好事の者あつて蓬莱をもつて日本の事とし」たと述べたうえで、「日本武尊其姨倭姫の御衣を服し、婦女のかたちに似て川上梟帥(たける)を誅し、其帰路伊勢国能褒野(のぼの)に薨じ給ふことをもって熱田明神楊貴妃となつて玄宗の心を蕩し、馬嵬に死なりと妄作せしものならん」と説いているのが注目される。

【参考記事】『謡曲の統計学』「蓬莱を捜しあてれば熱田宮」
http://jiuxia.web.fc2.com/Nohpage/NohSenryu/Nohsen07Yokihi/NohSenryu07.html
【参考図書】近藤春雄『長恨歌の研究』

 いずれにせよ、この話は、『雲州樋河上天淵記(うんしゅうひのかわかみあまがふちのき)』『曽我物語』等に載り、古浄瑠璃『楊貴妃物語』、土佐浄瑠璃『唐玄宗』にもなっています。

1.資料『雲州樋河上天淵記』『曽我物語』

※北畠親房『雲州樋河上天淵記』大永3年(1523年)
又四十五代聖武四十六代孝謙帝間、李唐玄宗募権威欲取日本。于時、日本大小神祇評議給、以熱田神倩給生代楊家而為楊妃乱玄宗之心醒日本奪取暇之志給誠貴妃如失馬塊坡乗舟着尾州智多郡宇津美浦帰熱田給云云。
(第45代聖武天皇から、第46代孝謙天皇の時、李隆基(唐の玄宗皇帝)は、権力を得て、日本を取ろうと思っていた。この時、日本の神々が集まって評議した結果、熱田大神が楊家に生まれ貴妃になることに決まった。そして玄宗皇帝の心を乱し、「日本を奪い取ろう」という志を忘れさせた。「安史の乱(安禄山の乱)」が起き、逃げる途中、玄宗皇帝は、楊貴妃を馬嵬坡(ばかいは)で失ったというが、実は、楊貴妃は、船に乗って逃げ、尾張国知多郡美浜町内海に着岸して熱田神宮に戻ったという。)
https://www.digital.archives.go.jp/das/meta/M1000000000000065328.html
※作者不詳『曽我物語』(巻2)「玄宗皇帝の事」
しかれば、飽かぬ北の御方の御名残りは、玄宗皇帝(げんそうくわうてい)、楊貴妃(やうきひ)と申(まう)せし后、安禄山(あんろくざん)戦(いくさ)の為に、夷(えびす)に下し給ふ。御思ひの余りに、蜀(しよく)の方士(はうじ)を遣はし給ふ。方士神通にて、一天三千世界を尋(たづ)ね回(まは)り、太真苑(たいしんゑん)に至る。蓬莱宮(ほうらいききゅう)これなり。ここに来たつて、玉妃に会ひぬ。この所に至りて見れば、浮雲(ふうん)重なり、人跡(じんせき)の通ふべき所ならねば、簪(かんざし)を抜きて、扉(とぼそ)を叩く。双鬟(さうくわん)童女(どうにょ)二人出でて、「しばらくこれに待ち給へ。玉妃は、大殿籠(おとのごも)れり。ただし、いづくより、如何なる人ぞ」と問ふ。「唐の太子の使ひ、蜀の方士」と答へければ、内に入りぬ。時に、雲海沈々(ちんちん)として、洞天(とうてん)に日暮れなんとす。悄然(せうぜん)として、待つところに、玉妃(ぎよくひ)出で給ふ。これ、即(すなは)ち楊貴妃(やうきひ)なり。右左(みぎひだり)の女(をんな)七八人。方士(はうじ)揖(いつ)して、皇帝(くわうてい)安寧を問ふ。方士、細かに答ふ。言ひ終をはりて、玉妃、証(しるし)とや、簪(かんざし)を分きて、方士に賜たぶ。その時、方士、「これは、世の常にある物なり。支証に立たず。叡覧に備へ奉らんに、如何なる密契かありし」。玉妃、暫く案じて、「天宝(てんぽう)十四年の秋七月七日の夜、天にありて、願はくは比翼の鳥、地にありて、願はくは連理の枝、天長地久にして、尽くる事なからんと、知らず、奏せんに、御疑ひあるべからず」と言ひて、玉妃去りぬ。方士、帰り参りて、皇帝に奏聞す。「さる事あり、方士、誤りなし」とて、飛車に乗り、我が朝(ちょう)、尾張の国に天下り、八剣(やつるぎ)の明神と顕れ給ふ。楊貴妃は、熱田の明神にてぞ渡らせ給ひける。蓬莱宮、即ちこの所とぞ申まうす。兵衛佐(ひやうゑのすけ)殿は、若君、北の御方御行く方へ、知らせ奉る者なかりしかば、慰み給ふ事もなかりけり。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/877589/38

【参考文献】渡瀬淳子「熱田の楊貴妃伝説 : 曽我物語巻二「玄宗皇帝の事」を端緒として」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihonbungaku/54/12/54_KJ00009683223/_pdf/-char/ja

3.楊貴妃の五輪塔


(1)有名だった楊貴妃の五輪塔


※光宗『渓嵐拾葉集』鎌倉末期
「以我國ヲ習蓬莱宮ト方如何。
答。唐ノ玄宗皇帝共楊貴妃至蓬莱宮。其蓬莱宮トハ、我國今ノ熱田ノ明神是也。此社壇ノ後ニ有五輪ノ塔婆。五輪銘ニハ釋迦ノ種子■字ヲ書タリ。「此塔婆ハ楊貴妃ノ墳墓也」ト熱田ノ神儀ニ見タリ尋云。
以熱田社習五智如來方如何。 
答。熱田明神トハ、金剛界ノ大日也。故ニ以五智習本智也。或又以眞言三部經爲本地。或又以寶劍爲神體ト也。皆是金剛界智門ノ表示也。凡ソ蓬莱宮ト云モ順寶者不壞金剛智體也。法花宗ノ意。本地無作ノ三身指久遠壽量ヲ習不老不死ノ妙藥ト也。故ニ天台ノ御釋ニ云。實相常住ニ■如天ノ甘呂ノ。是不死之藥云云深ヲ可思。又云、金剛界ノ曼荼羅。大海ノ中ニ有金龜。金龜上ニ有寶山。寶山ノ上ニ有寶塔矣今ノ熱田ノ社壇ノ相貌ハ、伊勢ノ海ノ如月輪之圓滿海也。北ノ端ノ中央ニ有金龜ノ島。今ノ社頭是也。神體ニ有三部經。蓬莱又有三ノ山。多ク生不死ノ藥ヲ。不死トハ天仙ノ名也」
【参考】『熱田宮秘釈見聞』:熱田大神の本地は五智大日如来で、衆生を化度するために日本国尾張国愛智郡蓬莱山に垂迹した。地下には金亀が住み、亀の背に大宮、首の部分に八剣宮、頭の部分に源太夫社(現・上知我麻神社)、尾の部分に高蔵宮(現・高座結御子神社)が建てられ、これらをまとめて「蓬莱島」という。
https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100115910/viewer/1

※『梅花無尽蔵』「重陽謁熱田楊妃廟」(文明17年(1485年)9月9日)
九日。宮背有石浮図。(宮の背(背後)に石の浮図(ふと)有り。)
名楊妃廟。(「楊妃廟」と名づく。)
謹白真妃若有霊 謹んで白す。真妃に若し霊有らば、
開遺廟戸試閑聴 廟戸(びょうこ)を開き遣りて、試みに閑かに聴け。
生々合託鴛鴦菊 生々(しょうじょう)合(まさ)に託すべし、鴛鴦の菊、
天宝海棠何故零 天宝の海棠(かいどう)、何の故にか零(お)つる。
(謹んで申し上げます。もしここに楊貴妃の霊魂がおられるのであれば、廟の戸を開け、試しに私の言葉を静かに聞いて下さい。生々流転する(何度も死に、何度も生まれ変わる)といえども、鴛鴦(えんおう、おしどり)、重陽の菊花の契りを交わしたあなたと玄宗皇帝ですが、日本の天宝時代、海棠(「此真海棠睡未足耶」から楊貴妃の別称)は、(安碌山の乱で)なぜ討たれて亡くなったのでしょう?)──「鴛鴦夫婦」と見えても、そこには愛がなく、役目が終わったので、死んだことにして日本に帰ったんじゃないの?

※谷宗牧『東国紀行』天文13年(1544年)
 「唐の代(よ)起こりて、我国を傾(かたぶ)けんとせしにも、貴妃に生まれ給ひて彼の世を乱されしも、この御神の力とぞ。方士が尋ね来れる蓬莱も此の勝地を申すとなり。「長恨歌」の大真院、此の宮の春敲門、思ひ寄せられたり。遥々いりたる海づら。宮中の木末、神代覚えたる気色。霜がれを知らぬみどり。常住不滅の表相、疑ふべきにあらず」
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1882662/126

(2)現在の楊貴妃の五輪塔

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楊貴妃の五輪塔は、貞享3年(1686年)の造営の時に撤去されたが、湧き水をためた方形の池の中央の石は、楊貴妃の五輪塔の先端部分とされ、
・柄杓で石に3回水をかければ願いは叶う(一説に綺麗になる)。
・池の水で3回洗顔すれば美白肌になる。
という。

(3)その他

「755年(天宝14載)、楊国忠と激しく対立した安禄山が反乱を起こし、洛陽が陥落した(安史の乱)。この時、玄宗は親征を決意し、太子李亨(後の粛宗)に国を任せることを画策したが、楊国忠・韓国夫人・虢国夫人の説得を受けた楊貴妃は土を口に含んで自らの死を請い、玄宗を思いとどまらせたと伝えられる。その後、唐側の副元帥である高仙芝は処刑され、哥舒翰が代わりに副元帥となり、潼関を守った。756年(至徳元載)には哥舒翰は安禄山側に大敗し捕らえられ、潼関も陥落した。玄宗は首都長安を抜け出し蜀地方へ出奔することに決め、楊貴妃・楊国忠・高力士・李亨らが同行することになった。しかし馬嵬(現在の陝西省咸陽市興平市)に至ると、乱の原因となった楊国忠を強く憎んでいた陳玄礼と兵士達は楊国忠と韓国夫人たちを殺害した。さらに陳玄礼らは玄宗に対して、「賊の本」として楊貴妃を殺害することを要求した。玄宗は「楊貴妃は深宮にいて、楊国忠の謀反とは関係がない」と言ってかばったが、高力士の進言によりやむなく楊貴妃に自殺を命ずることを決意した。
 『楊太真外伝』によると、楊貴妃は「国の恩に確かにそむいたので、死んでも恨まない。最後に仏を拝ませて欲しい」と言い残し、高力士によって縊死(縄で首を捻られて殺される)させられた。この時、南方から献上のライチが届いたので、玄宗はこれを見て改めて嘆いたと伝えられる。陳玄礼らによってその死は確認され、死体は郊外に埋められた。さらに安禄山は楊貴妃の死を聞き、数日も泣いたと伝えられる。その後、馬嵬に住む女性が楊貴妃の靴の片方を手に入れ、旅人に見物料を取って見せて大金持ちになったと伝えられる。
 玄宗は後に彼女の霊を祀り、長安に帰った後、改葬を命じたが、礼部侍郎李揆からの反対意見により中止となった。しかし玄宗は密かに宦官に命じて改葬させた。この時、残っていた錦の香袋を宦官は献上したという。また玄宗は画工に彼女の絵を描かせ、それを朝夕眺めていたという。」(Wikipedia。ちなみにライチは楊貴妃の大好物です。)

 楊貴妃は「安史の乱」で亡くなりました。熱田神宮の伝承では、熱田に帰り、熱田大神に戻ったということですが、他にも説があります。
 玄宗皇帝は、楊貴妃の遺体を探して埋葬しようとしたが、見つからなかったというのです。それもそのはず、安禄山が逃し、日本に亡命したというのです! そして、彼女のお墓があるのは、
 ──二尊院(山口県長門市油谷向津具下)
https://nisonin.com/
https://www.city.nagato.yamaguchi.jp/site/kanko/1637.html
玄宗皇帝が油谷の楊貴妃に送ったという2体の仏像があります。
仏像と言えば、
 ──泉湧寺(京都市東山区泉涌寺山内町)の楊貴妃観音堂の楊柳観音像
玄宗皇帝が亡き楊貴妃の面影を写させて造像した聖観音で、湛海律師が寛喜2年(1230年)に南宋から持ち帰った像です。(美人祈願の観音様として親しまれています。江戸初期から、その美しさ故に「楊貴妃観音像」というニックネームで呼ばれているだけで、楊貴妃ではないらい。)
https://www.mitera.org/

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