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『信長公記』「首巻」を読む 第31話「浮野合戦の事」

第31話「浮野合戦の事」

一、七月十二日、清洲より岩倉へは三十町に過ぐべからず。此の表、節所たるに依つて、三里上、岩倉の後へまはり、足場の能き方より浮野と云ふ所に御人数備へられ、足軽かけられ候へぱ、三千計りうきうきと罷り出で、相支へ候。

一、七月十二日午の剋、辰巳へ向つて切りかゝり、数剋相戦ひ追崩し、爰に浅野と云ふ村に、林弥七郎と申す者、隠れなき弓達者の仁体なり。弓を持ち罷り退き候ところへ、橋本一巴、鉄炮の名仁、渡し合ひ、連々の知音たるに依つて、林弥七郎、一巴に詞むかけ候。「たすけまじき」と、申され候。「心得候」と申し候て、あいかの四寸計りこれある根をしすけたる矢をはめて、立ちかへり候て、脇の下へふかぶかと射立て候。もとより一巴もニツ玉をこみ入れたるつゝをさしあてて、はなし候へぱ、倒れ臥しけり。然るところを、信長の御小姓衆・佐脇藤八、走り懸かり、林が頸をうたんとするところを、居ながら大刀を抜き持ち、佐脇藤八が左の肘を小手くはへに打ち落す。かゝり向つて、終に頸を取る。林弥七郎、弓と太刀との働き比類なき仕立なり。
 さて、其の日、清洲へ御人数打ち納れられ、翌日、頸御実検。究竟の侍頸かず千弐百五十余りあり。

【現代語訳】

一、永禄元年7月12日、清洲城より岩倉城へは30町(約3.3km)もない。直線距離だと近いが、途中に要害(大河など)があるので、3里(12km)北から大回りして、岩倉城の後へ回り、足場のよい方から「浮野」(愛知県一宮市千秋町浮野道下)という所に出向いて軍隊を配置し、まずは足軽に攻めさせると、岩倉城から約3000人が悠々と出てきて、合戦となった。

一、永禄元年7月12日、午の剋(正午前後)、辰巳(南東)へ向って攻めかかり、数刻(数時間)戦って追い崩した。ここ、浅野という村(愛知県一宮市浅野)に、林弥七郎(豊臣秀吉の御台所・ねねの父)という弓の達人がいた。弓を持って退こうとしたところ、橋本一巴(織田信長の鉄砲術の師匠)という鉄砲の達人が渡り合った(1対1の勝負となった)。それぞれが達人であることは噂で知っていたので、林弥七郎は、橋本一巴に背を向けたままで「(鉄砲の達人だからといって)助けてはやれないぞ(殺すには惜しい達人だからといって、手を抜いて、わざと外したりしないぞ)」と言うと、橋本一巴は「心得た(こちらも手を抜かない)」と返事した。林弥七郎は、「あいか」(意味不明。伊勢国相賀か?)の約4寸(12cm)の「矢の根」(鏃)の茎を箆に挿し込んだ矢を手にして構え、振り返って橋本一巴に向かい、橋本一巴の脇の下へ、深々と矢を突き立てた。もちろん、橋本一巴も鉄砲玉を2個込めた鉄砲を構えて撃ったので、林弥七郎は倒れた。(林弥七郎と橋本一巴は相打ちだった。)これを見た織田信長の御小姓衆・佐脇藤八が走り出て、林弥七郎の首を取ろうとすると、林弥七郎は、倒れたままの姿勢で太刀を抜き、佐脇藤八の左の肘を篭手もろともに打ち落した。佐脇藤八は、果敢に立ち向かい、終に林弥七郎の首を取った。このように林弥七郎の弓と太刀の腕前はすごかった。
 さて、その日(永禄元年7月12日)は、清洲へ退却し、翌日(永禄元年7月13日)、首実検をすると、屈強の武士の首が1250以上集まった。

【解説】

 尾張は8郡から成る。上4郡を支配するのが岩倉城の織田信安(織田大和守家)で、下4郡を支配するのが清洲城の織田信長(織田弾正忠家)である。(海東郡や知多郡は今川義元方。)

 岩倉城主・織田信安は、長男・信賢を遠ざけ、次男・信家に家督を譲ろうとしたが、弘治3年(1557年)、信賢に追放された。(織田信安は、後に総見寺の住職になった。)この内紛をチャンスと見た織田信長は、翌・永禄元年(1558年)、2000の兵で岩倉城を攻めた(「浮野の戦い」)。織田信賢の兵は3000であるので、織田信長軍は押されたが、この時、犬山城主・織田信清(正室は織田信長の姉)が1000の兵を率いて加勢に来たので、3000対3000の互角の戦いになった。形勢は一気に織田信長軍へと傾き、織田信賢軍は、兵の半数近く、1250もの死者を出して、織田信賢は岩倉城へ退却した。
 翌・永禄2年(1559年)、再び織田信長が岩倉城を包囲。数ヶ月の篭城戦の後、織田信賢は降伏した(第34話「岩倉落城の事」)。こうして、織田信長による尾張統一が完成した。

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