見出し画像

『信長公記』「首巻」を読む 第4話「美濃国へ乱入し五千討死の事」

第4話「美濃国へ乱入し五千討死の事」

 さて、備後殿は国中を憑み勢をなされ、一ヶ月は美濃国へ御働き、又翌月は三川の国へ御出勢。或る時、九月三日、尾張国中の人数を御憑みなされ、美濃国へ御乱入、在々所々放火候て、九月廿二日、斎藤山城道三が居城・稲葉山の山下村々に推し詰め、焼き払ひ、町口まで取り寄せ、既に晩日申刻に及び、御人数引き退かれ、諸手半分ばかり引取り候所へ、山城道三、瞳と南へ向かつて切りかゝり、相支へ候と雖も、多人数くづれ立の間、守備の事叶はず、備後殿御舎弟・織田与次郎・織田因幡守・織田主水正・青山与三右衛門・千秋紀伊守・毛利十郎・おとなの寺沢又八舎弟毛利藤九郎・岩越喜三郎を初めとして、歴々五千ばかり討死なり。

【現代語訳】

 さて、織田信秀は、尾張国(愛知県西部地方)中に「憑(たの)み勢」(援軍)を申し入れ(出陣を依頼し)、ある月に美濃国(岐阜県南部地方。岐阜市?)へ出陣し、続けてその翌月に三河国(愛知県東部地方。安城市?)へ出陣した年(天文11年?)があった。
 ある年(天文16年)の9月3日、尾張国中の兵を率いて美濃国へ乱入し、あちこちに放火して、9月22日、斎藤道三の居城・稲葉山城がある岐阜市の稲葉山(金華山)の山麓の村々に押し寄せ、焼き払い、城下町の出入り口まで詰め寄った。既に日は暮れ、申の刻(午後4時前後)になって、兵が引きあげて、半分ほどに減った時に、斎藤道三は、どっと南へ向かって切りかかってきた。応戦したが、多くの兵が引きあげて、隊形が崩れていたので、守りきることが出来ず、織田信秀の弟・織田信康、織田因幡守、織田主水正、青山与三右衛門、千秋季光、毛利敦元、長老・寺沢又八の弟、毛利藤九郎、岩越喜三郎をはじめとして、お歴々が5000人程討ち死にした。

【解説】

『信長公記』ではあるが、織田信長の父・織田信秀の話が続きます。
 尾張国内の兵を集め、尾張国を守るために東の今川氏や北の斎藤氏と戦う織田信秀って・・・それって、守護とか、守護代の役目では?(それほど、織田信秀の名声は、尾張国内では高かったのでしょう。織田信秀に呼びかけられたら、行くしか無い!)
 それにしても、5000人の討死は痛い。ここで初めて、織田信秀の弟(織田信康)が討ち死にしました。(他の弟たちはまだ生きています。)

 稲葉山城攻めで織田信康が討たれた「加納口の戦い」(「井ノ口の戦い」とも)には、天文13年(1544年)9月22日説と天文16年(1547年)9月22日説があります
 『信長公記』の著者は、まだ調べていないのか、調べたが分からなかったのか、「ある年」としています。ただ、筆者、あるいは、編集者が、天文13年だと思えば、天文15年1月の吉法師元服の話の前に置くことでしょう。(織田信秀の話でもあるので、尚更、織田信長の元服の前に置きたいと思うはず。)
 単純に言って、織田信秀の矛先は、最初は美濃国(斎藤氏)で、次に三河国(今川氏)なので、美濃国での「加納口の戦い」は天正13年、三河国での「小豆坂の戦い」は天正17年の出来事であって、『信長公記』の掲載順はおかしい気がします。

あなたのサポートがあれば、未来は頑張れる!