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視聴記録『麒麟がくる』第21回「決戦!桶狭間」2020.6.7放送

今川から元康(風間俊介)を離反させる工作は失敗に終わった。信長(染谷将太)は、父・信秀の教えを思い出し、今川が本当にうわさされるような2万もの大軍であることを疑い、前線へ出陣する。局地戦を展開して義元(片岡愛之助)自ら率いる本隊から徐々に兵を引き離す作戦を決行する。一方の元康は三河勢を駒のように扱う今川方に次第に嫌気が差し始め、織田軍の迎撃に加わることを拒否。そして暴風雨の中、数の減った今川本隊は桶狭間山での立ち往生を余儀なくされる。そこに織田の軍勢が襲いかかる。

<トリセツ>

桶狭間の戦い
永禄3年5月19日。駿河の今川義元が、大軍を率いて尾張に侵攻。尾張国の桶狭間で、織田信長は少数の軍勢で今川本陣を奇襲。大将の今川義元を討ち取り、織田軍が大勝利を収めました。

今川義元は、なぜ「輿(こし)」に乗っていたのか?
桶狭間の戦いで今川義元は、馬ではなく「輿」に乗っていました。その塗り輿を目印に、織田勢に奇襲をかけられました。
当時、輿は一部の限られた高貴な身分の者だけが使用を許される特別な乗用具で、義元が輿に乗ることができたのは、足利将軍家の分家であり親密な関係にあったため将軍家から「外出時に輿に乗ってよい」という特別許可をもらっていたからです。
義元が輿に乗って尾張へ進軍したのは、織田家との家柄や格の違いを周辺に見せ威圧するための戦略的なパフォーマンスの意味もあったようです。

信長がうたった、幸若舞「敦盛」。
信長が清須城で戦況報告を受け「籠城する」と家臣に告げたあと思案しながらうたったのは、幸若舞「敦盛」の一節でした。
織田信長の一代記である史料「信長公記(しんちょうこうき)」でも、桶狭間へ出陣する前に信長が「幸若舞」の一節を舞ったと記されています。
ちなみに幸若舞は、能と並んで戦国時代の武将に愛好された芸能で、その中でも一ノ谷の戦いの平敦盛と熊谷直実を題材にした「敦盛」は特に好まれていたそうです。
劇中で信長役の染谷将太さんが口ずさんだ「敦盛」は、番組で芸能考証・指導を担当されている友吉鶴心さんの指導によるものです。

★小和田先生の解説
https://www.youtube.com/watch?v=R-l-zn_DSrc

1.感想


 今回は待ちに待った「桶狭間の戦い」です。
 「桶狭間の戦い」のシーンについては、【従来説】【新説】【オリジナル説】が絶妙にミックスされた「興味深い脚本」でした。
 脚本について、あれこれ言われていますが、「いい脚本」とは、「史実通りの脚本」ではなく、「腑に落ちる(納得できる)脚本」であり、「悪い脚本」とは、「史実と違う脚本」ではなく、「辻褄が合わない(納得できない)脚本」のことをいいます。
 今回の脚本を「悪い脚本」だと言う人は、「三河衆は、自分を含め、駿府に人質(家族)を残してきたとして、松平元康は、織田方に寝返らなかった。ところが、三河衆は、松平元康に同意し、床を叩いて今川義元の下知を拒否していた。あれは「寝返り」に匹敵する。あれでは、駿府の人質はもちろん、鵜殿長照に報告されて、駿府へ帰ったら本人たちも処刑されるだろう」と指摘しています。確かにあれはまずかったかな。松平元康であれば「寝返りがばれない寝返り方」を考えられたと思います。
 松平元康の最後の登場シーン──「絶対に生きて駿府に帰る」と誓った駒にもらったお守りの丸薬をじっと見ていたのが印象的でした。松平元康は、丸薬を見つめ、「許せ、駒さん。私は駿府へは帰られなくなってしまった」と心の中で言ってるのでしょう。
 私が腑に落ちないのは、松平元康から駒への手紙に「織田信長の特別なはからいで岡崎に戻れた」とあったことです。これでは「織田方に完全に寝返らず、今川軍を攻撃しないで、織田方の丸根砦を攻撃した。とはいえ、織田軍が今川本陣を攻撃する時、後方から織田軍を攻撃しなかったので許す」と、まるで織田信長の家臣のような扱いです。
 さらに腑に落ちないのは、ラストシーンです。多分、あのシーンは、明智光秀が尾張国から越前国へ帰っていくシーンだと思うのですが、駒が松平元康からの手紙の話の内容を望月東庵に話すシーンの後に置かれていました。駒が松平元康から手紙を受け取ったのは「桶狭間の戦い」の数日後でしょう。明智光秀は数日間、尾張のどこで、何をしてたんだ?

2.桶狭間の戦い


まずは、戦(いくさ)の前。

(1)織田家重臣が軍議で案を出すが、織田信長は無言。【従来説】
 その理由を「いい作戦があったが、スパイに聞かれないように内緒にしていた」のではなく、「いい作戦が思いつかないし、重臣たちもいい作戦を提案しなかったから」無言だったとする。【オリジナル説】

(2)「松平元康の調略」を、明智光秀が提案し、帰蝶も、織田信長も乗った。【「明智光秀の提案」はオリジナル説。「松平元康寝返り説」は以前からある。】

(3)明智光秀の策が失敗するはずがない。水野信元と於大の方による「松平元康の調略」に成功したと思い込んだ織田信長は、
「松平元康の大高城兵糧入れを妨げるな」
「万が一、松平元康が丸根城攻めて来たら、砦に火を放って逃げよ」(丸根砦の城兵は、全て織田本隊が吸収して、今川本陣へ向かわせる)
と指示をした。

(4)「神君大高兵糧入(松平元康の大高城兵糧入れ)」は成功した。「大高道を往き、深夜に丸根砦の目の前を通った」(【従来説】)というが、丸根砦と大高城との間には、大高川(当時は入江)があり、渡る時に襲われる。それをこのドラマでは、「松平元康を味方だと思っていた織田信長が無事に渡らせた」(【オリジナル説】)としていた。
 「神君大高兵糧入の道」は、「家康路」と名付けられているが、地元の伝承では、実際に松平元康が通ったのは、観光用「家康路」ではなく、南の木ノ山村(このやまむら。現在の愛知県大府市共和町)の峠越えの道だという。
※「神君様、兵米御運びあそばされ候よし。その節、木之山村を御通り、兵糧を御運びあそばされよし申し伝え候。同村開け城へ再度籠城あそばされ候よし伝えもあり。」(『桶狭間合戦名残』)
 ドラマでは、今川義元が「さすが三河衆。地の利がある」と褒めていたが、この時、向山砦の水野信元が織田方から今川方に寝返ったので、松平元康は、南から、楽に大髙城へ兵糧を入れられたという。

※「三河守」に任官された今川義元は、松平元康が邪魔になり、「織田信長に殺してもらおう」と思い、「大高城兵糧入れ」を命じたが、松平元康が織田軍と接触しないルートを通って兵糧を入れてしまったので、がっかりし、矢継ぎ早に「丸根砦攻め」を命じたともいう。
※「大高城兵糧入れ」の時、松平元康は「金溜塗具足」(久能山東照宮蔵)を身につけていたとされるが、『信長公記』には「家康は朱武者」とあり、実際、「竹千代胴巻」(静岡浅間神社蔵)は朱色である。

(5)「松平元康が丸根城攻めた」=「松平元康の調略」に失敗した、と知った織田信長は、死を覚悟し、帰蝶に奇妙丸と尾張国を託して出陣した。(織田信長が討たれていたら、清須城の城主は、「おんな城主 帰蝶」となっていたか?)

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 【従来説】の作戦は、「迂回奇襲」(大きく迂回して今川軍との接触を避け(兵数を減らさないようにして)、太子が根の山頂から、窪地にいた今川義元を奇襲した)というもので、「勝因は、奇襲」だとしています。一方、【新説】の「正面攻撃説」では、「勝因は、兵数の差がさほどなかったこと」になります。
 ドラマの織田信長は、
・【新説】のように兵数の差がさほどないと考え、佐々隊300人に対して今川本陣から1000人出た時点で出陣を決心した。(禁止した乱取りをされて、頭に血が登っていた今川義元は判断ミスをしましたね。佐々隊は、鳴海城の城兵に討たせればよかったのです。)
・【従来説】ほど大きく迂回はしなかったが、坊主山の北麓を、暴風雨が今川軍の物見の視界を奪っている中、こっそりと進軍しました。

【従来説】は「局地戦(今川本陣のピンポイント攻撃)」で、大切なのは、
 ──今川本陣はごこにあったのか?
ということになりますが、【従来説】では「田楽狭間という窪地」、【新説】では「今川義元は、窪地という見晴らしの悪い場所に本陣を置くバカではない」として「桶狭間山」だとしています。
 また、今川義元が討たれた場所の伝承地は、尾張国桶狭間村(愛知県名古屋市緑区の桶狭間古戦場公園)と三河国大脇村(愛知県豊明市の桶狭間古戦場伝説地)の2ヶ所があり、【新説】では、
・桶狭間山の本陣から大髙城へ逃げようとして西麓(尾張国桶狭間村)へ
・桶狭間山の本陣から沓掛城へ逃げようとして東麓(三河国大脇村)へ
向かい、追いつかれて討たれたと解釈しています。(だいたい、敵に背中を見せたら負け。強気な方が勝つ。)
 ドラマでは「本陣は桶狭間山にあったが、暴風雨を避けるために山麓の窪地に移動し、再び桶狭間山の本陣に戻って、本陣で討たれた」という【オリジナル説】が展開されました。番組最後の「紀行」でも、「戦場は、名古屋市緑区から豊明市にかけて広がる丘陵地一帯だったといわれています」とし、「現在の桶狭間の戦い」と呼ばれる「戦場や今川義元が討死した場所は名古屋市か、豊明市か」という論争への言及は避けていました。

※「今川本陣は、暴風雨を避けるために山頂から山麓の窪地に移動していた」というのは私も考えたが、発表する前にドラマで使われてしまった。(昔のブログに書いておいたような気もする。)
※【新説】では、桶狭間山(丘陵)の今川本陣に向けて「釜ヶ谷から信長坂を駆け上った」とか、「北谷(太子ヶ根の山麓)から駆け上がった」とする反面、「暴雨風の後に坂を駆け下ることは可能だが、桶狭間山が丘陵ではなく、急峻な高根山であれば、駆け上がるのは不可能」とも。ドラマのように駆け下った方が絵的にはカッコいいですね。(駆け下る前、織田軍は弓で攻撃していますが、史実は「鉄砲で攻撃」です。織田軍は、晴れて鉄砲が使えるようになるまで、山際で待機していました。)
※私が脚本家なら、西から織田信長が今川本陣へ向かうと、東(小川城)から水野信元が「信長殿~、元康の調略に失敗したお詫びに加勢申す~」とやってきて、今川本陣を挟み撃ちにして勝ったとするかも。(史実の水野信元は向山砦にいたと思われるが、通説では、小川城から一歩も出なかったとする。於大の方に「松平元康と戦わないで」と頼まれたのかもしれない。)
※「戦の勝ち負けは、天が決める」(天道思想)という。『信長公記』では「今川義元は讒言を信じ、鳴海城主であった山口父子を駿府に呼び出して切腹させたので、山口父子の元領地で死ぬことになった」とする。
 ドラマでは、明智光秀が奇妙丸について聞いた時、帰蝶は「殿の隠し子じゃ。ひどい夫じゃ」と言わず、「天から降ってきた大事な預かり物じゃ」と言った。奇妙丸は、「麒麟を遣わすにはまだ早い」と判断した天が帰蝶に授けた「お守り」だったのであろう。芳仁の丸薬よりも効くお守りだ。
※勝因の1つは、熱田神宮の方向から吹いてきた暴風雨「熱田の神風」である。織田信長は、戦の前、熱田神宮に参拝した。
・当時の熱田神宮は海辺にあり、熱田の漁民が「昼に暴風雨になる」と教えたという。(織田信長の初登場シーンの伏線回収)
・熱田神宮の鳥居で「今川義元の元近習」が待ち構えており、桶狭間の今川本陣で、「これが今川義元だ」と教えるも、「この裏切り者~」と今川義元の近習たちに斬り殺されたという。『豊明市史』には「今川方に織田信長の顔を知る者はなく、織田方には今川義元の元近習がいた」とある。一説に、今川軍は、佐々政次を討ち取ると、彼の首を織田信長の首だと思い込み、勝利の酒宴や乱取りを始めた。そこに織田信長が襲ってきたので慌てたという(【影武者説】)。
・ドラマの織田信長は、輿を探している。「輿に乗っているのは影武者」だとは考えなかったのか? そもそも、輿に乗って通ることができる広い道幅の道が、当時あったかどうか疑問である。桶狭間に現れる今川義元の幽霊は、白馬にまたがっているという。当日の今川義元は、白馬に乗っていたのではないだろうか?(刈谷市北端の境村(尾三国境・境川の三河国側)に残されている「鎌倉街道」は、平野部だからか、広く、馬に乗った人がすれ違うことができる。二村山に残る「鎌倉街道」は、山中だからか、狭く、馬に乗っている人同士がすれ違えない程の細さであった。)

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※「鎌倉街道伝承地」碑と「鎌倉街道の由来」碑(愛知県刈谷市東境町)

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※二村山の山頂から鳴海へ下る「鎌倉街道」と案内碑(左)

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 上の二村山の「鎌倉街道」案内碑にあるように、「鎌倉街道」は、「近世東海道」(江戸時代初期に整備された「五街道」の「東海道」)が整備されるまで「東海道」であったが、江戸時代の「東海道」同様、時期によってルートが異なる。
 「鎌倉街道」が制定された鎌倉初期は、地球温暖化の時代で、「鎌倉街道」は、山麓の湿地を避けて、山の尾根にあり、ここでも二村山の山頂を通っていた。しかし、「桶狭間の戦い」が起きた戦国時代は、地球寒冷化の時代(寒くて作物が育たないので、戦って略奪する時代)で、「鎌倉街道」は二村山の山頂を通らず、南麓の沓掛到下(「峠」は国字とは言え、1484年成立『温故知新書』には既に「峠」の字がみえる)を通っていた。この周辺では、境川ではなく、尾張国側の沓掛到下(沓掛峠)が新たな尾三国境となっており、峠には「堺松」があった。

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 「桶狭間の戦い」の時の暴雨風で、「堺松」の近くのクスノキが倒れ、「堺松」にぶつかって、国境の目印である「堺松」に当たって倒れてしまうかとハラハラしたが、ギリギリセーフ。「堺松」をかすめて横に倒れたという。太子が根の山際からその楠の巨木が倒れる様子を間近で見た太田牛一は、衝撃を受けたようで、「山際まで御人数寄せられ候ところ、俄に急雨、石氷を投げ打つ様に、敵の輔(つら)に打ち付くる。身方は後の方に降りかゝる。沓掛の到下(とうげ)の松の本に、二かい、三がゐの楠の木、雨に東へ降り倒るゝ。余りの事に、「熱田大明神の神軍か」と申し候なり」と『信長公記』に記している。
https://note.com/senmi/n/nd7f28bfc3ed9

【参考動画】『戦国・小和田チャンネル』
「【麒麟がくる】6/7放送「決戦! 桶狭間」」
https://www.youtube.com/watch?v=R-l-zn_DSrc
結局「桶狭間の戦い」とは、「織田信長は善照寺砦を本陣として3000人を集めた。先陣・佐々政次1000人が出陣すると、今川軍は「織田信長が出陣した」「織田本隊は、たったの1000人」と思い込み、その首を取ろうと佐々政次の周囲に集まった。その隙きに織田本隊2000人が今川本隊500人に向けて移動した。その移動する姿は、暗雲が立ち込め、昼なのに夜のように暗くて、今川軍の物見は見失った」ということでOK?(後世の人は「夜襲」と誤伝し、「日本三大夜襲」「日本三大奇襲」の1つとなった。)

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