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『信長公記』「首巻」を読む 第5話「景清あざ丸刀の事」

第5話「景清あざ丸刀の事」

 先年、尾張国より濃州大柿の城へ、織田播磨守、入れ置かれ候事。去る九月廿二日、山城道三、大合戦に打ち勝つて申す様に、「尾張者はあしも腰も立つ間敷候間、大柿を取り詰め、此の時攻め干すべき」の由にて、近江のくにより加勢を憑み、霜月上旬、大柿の城近々と取り寄せ候ひき。
 爰に希異の事あり。去る九月廿二日の大合戦の時、千秋紀伊守、景清所持のあざ丸を最後にさゝれなり。此の刀、陰山下掃部助求めさし候て、西美濃大柿の並び、うしやの寺内とてこれあり、成敗に参陣候て、床木に腰をかけ、居陣のところ、散々に悪き弓にて、木ぼうをもつて、城中より虚空に人数備への中へくり懸け候へば、陰山掃部助左のまなこにあたる。其の矢を抜き候へば、又、二の矢に右の眼を射つぶす。
 其後、此のあざ丸、惟住五郎左衛門所へ廻り来なり、五郎左衛門眼病頻に相煩ふ。「此の刀所持の人は必ず目を煩ふの由風聞候。熱田へまいらせられ然るべし」と、皆、人毎に異見候。これにより、熱田大明神へ進納候てより、即時に目もよく罷り成り候なり。

【現代語訳】

 「加納口の戦い」前の天文15年、織田信秀は、尾張国の織田播磨守常知(織田大和守家・織田藤左衛門尉寛故の子)を美濃国大垣の大垣城へ入れた。天文16年9月22日、斎藤道三は、大戦(おおいくさ)に勝って、「尾張国の者どもは脚も腰も立たないであろうから(今、大垣城を攻めても援軍は送れないであろう)。この好機(チャンス)に、大垣城を取り囲み、一気に攻め滅ぼそう(大垣城から織田播磨守を追い出そう)」と言って、近江国から援軍を憑(たの)み、11月上旬、大垣城の近くまで攻め寄せた。
 ──ここに奇異(ミステリアス)な事件が起きた。
 去る9月22日の大合戦の時に討ち死にした熱田社(後の熱田神宮)大宮司家の千秋季光が、平景清が所持していた妖刀「痣(あざ)丸」(平景清がこの刀を見つめた時、彼の顔の痣が見えたので、この名がついたという)を最後に差して戦った人物であるが、この刀を美濃衆の陰山一景が手に入れ、差して、西美濃の大垣城の隣の牛屋山大日寺の境内に陣を構え、床几に腰掛けて陣幕の中に居たところ、激しく「悪き弓」(大垣城から大日寺まで矢が届く強弓)で、木棒を大垣城の城中から大空を通って「人数備へ」(兵が集まっている場所。城であれば「武者溜まり」)の中へ繰り懸ける(何度も繰り返し仕掛けること、ここでは、何度も射ること)と、陰山一景の左目に当たった。その矢を抜くと、今度は二の矢が右目に刺さった。

※「きぼう(木棒、木鉾)」:鏃(やじり)の一種。丸くて長く、棒状。木や竹で作り、楯を射割るのに用いる。木桙(きぼこ)とも。

 その後、この痣丸は、巡り巡って丹羽長秀の所持刀となると、丹羽長秀は、頻りに眼病を患った。「この刀を所持する人は、必ず目を煩うという噂である。熱田社へ奉納するのが良いだろう」と皆が皆、口々に勧めたので、熱田社に奉納すると、すぐに目が良くなったという。

【解説】

 妖刀「痣丸」(愛知県指定文化財)は、現在も、熱田神宮で保管されています。

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