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『信長公記』「首巻」を読む 第50話「公方様御憑み百ケ日の内に天下仰せ付けられ候事」

第50話「公方様御憑み百ケ日の内に天下仰せ付けられ候事」

明くる年の事。
一、公方一乗院殿、佐々木承禎を御憑み候へども、同心なく、越前へ御成り候て、朝倉左京大夫義景を御憑み候へども、御入洛御沙汰中々これなし。
 さて、「上総介信長を憑み、おぼしめす」の旨、細川兵部大輔、和田伊賀守を以て上意候。則ち、越前へ、信長より御迎へを進上候て、百ケ日を経ず、御本意を遂げられ、征夷将軍に備へられ、御面目、御手柄なり。

 さる程に、丹波国桑田郡穴太村のうち長谷の城と云ふを相抱へ候、赤沢加賀守、内藤備前守、与力なり。一段の鷹数奇なり。
 或る時、自身関東へ罷り下り、然るべき角鷹二連を求め、罷り上り候刻、尾州にて、織田上総介信長へ、「二連の内、何れにても、一もと進上」と申し候へぱ、「志の程感悦至極に候。併し、天下御存知の砌、申し請けられ候間、預け置く」の由候て、返し下され。此の由、京都にて物語り候へぱ、「国を隔て、遠国よりの望み、実らず」と申し候て、皆々笑ひ申し候。然るところ、十ケ年をへず、信長御入洛なされ候。希代不思儀の事どもに候なり。

【現代語訳】

織田信長の「稲葉山城攻め」(第49話)から明けて永禄11年(1568年)の事。
一、上洛して将軍職に就きたいと思っていた足利義昭は、佐々木承禎(六角義賢)に頼んだが承認してもらえなかったので、越前国へ行って、朝倉義景に頼んだ。しかし、入洛する気配は中々見られなかった。
 そこで足利義昭は、「織田信長に上洛の協力をしてもらいたい」ということを、細川藤孝(後の幽斎)、和田惟政を通して伝えてきたので、織田信長は、越前国へ迎えの者を送り、それから100日も経たない内に、足利義昭は、本意を遂げ(上洛し)、征夷大将軍に任じられた。これは、織田信長にとって面目(名誉)であり、手柄である。

 ところで、丹波国桑田郡穴太村(京都府亀岡市曽我部町穴太)の長谷城を守っていた赤沢加賀守は、内藤備前守の与力である。大変、鷹が好きであった。
 ある時、自ら関東へ下り、それ相当のクマタカ(耳が角のように見える鷹)を2羽得て京都へ上る時、尾張国で織田信長に会い、「2羽の内、どちらか1羽差し上げる」と言うと、織田信長は、「お志(こころざし)は大変嬉しいが、天下人になったらいただく。今は預けておく」と言って断った。
 この話を、京都ですると、「尾張国は京都から遠いので上洛できない。天下人にはなれない」と言って、皆で笑った。それから10年を経ず、織田信長は入洛した。世にも不思儀(理解を超えて、考えられないよう)な話である。

【解説】

足利義昭上洛の功労者は明智光秀だと思うのですが、名が出てきません。

 ──十ケ年をへず、信長御入洛なされ候。

ということは、何年も前から上洛を考えていたということですね。

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