松下村塾を訪れて

Go To トラベルを利用し、山口県萩市を訪れた。
幕末の知識はある程度あったものの、萩市の街並み、吉田松陰の生きざまを改めて目の当たりにし大きく動かされた。

東京に戻り次第、kindleで司馬遼太郎の「世に棲む日々」を購入。一気に吉田松陰が亡くなるまでを読み込んだ。

注目すべき点はその人生の濃度である。30歳に至らずして死罪となるが、それまでの間に驚異的な勉強量から日本のあるべき姿を固め講義し、数畳の小屋で子弟を育て世に輩出した。教えた期間もわずか3年に満たない。志を受け継いだ教え子たちは幕末の動乱期に命を落としながらバトンをつなぎ、薩摩、土佐の志士たちと倒幕までたどり着く。

弱っていたといえ江戸幕府とい巨大な体制を破壊するために必要とするエネルギーは途方もないものである。高杉、久坂、伊藤、品川、彼らのエネルギーのトリガーとなったは吉田松陰の強烈な死に間違いない。

では何がわずかな期間で松陰を松陰たらしめたのだろうか。

一つ目は責任の重さだと思われる。齢8歳から長州藩から一人の学者として教鞭に立っていた。藩主毛利の前で試験が2年ごとにあり、長州藩全体が松陰に投資し、純粋培養していた。裁量権や責任が重くなればなるほど人は短期間で成長を強いられ、耐えうる人間は飛躍できる。長州には才能のあるものを抜擢し、培養する風土があった。
ゆったり並行して全員で同じカリキュラムを進める現代の教育制度ではありえない。元服して成人としてみなされるのも15歳などと圧倒的に現代より早い。18歳、22歳まで学生で統一されている我々は躍進の機会を失っているともいえよう。

もう一つは読書量だ。人に講師として説明するという立場で若い時から読書に励んでいたことで彼は知識を血肉化することができた。日本の進む道について強い信念を持つうえで、西欧の歴史、中国の歴史、日本史の豊富な知識がバックボーンをなしているのは間違いない。持ち前の行動力も、王陽明の伝習録にある「実行の中にのみ学問がある。行動しなければ学問ではない。」に触発されている。黒船の2回目の来航で乗り込みに行くという宗教性さえも感じる行動性はこういった読書に影響をうけている。

また江戸時代の特徴ともいえるのが論客との議論の場である。日本中を歩き回りながら、各地の名高い学者に弟子入りし学ぶ。さらに紹介を受けて江戸や長崎に遊学する。そういった場所には同じような思想を持った各地から来た同年代の論客があふれており、議論をぶつけあうことでお互いを刺激しあい同志となる。友情とネットワークをはぐくみつつ我こそは競い、行動を加速させる。

長州藩の「培養」によって育まれた勉強力、発信力、「読書」によってつくられた知識量、行動力。そのサイクルが「同志」の存在により加速し、短命ながらも日本史に爪痕を残し次の世代の心に火をつけたといえよう。

現代はネットがある。教材も無料で無限に集められるうえに、簡単に発信し、いろいろな人とつながり、論じ合うことができる。

私も技術力を高めながら、成果物を大量に発信しつつSNSで同志を見つけてアイディアを実行していこうと思う。





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