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第52話 SARSが台湾に残したもの

 台湾のコロナ対策での成功は、SARS(重症急性呼吸器症候群)なしには語れない。

 2003年、アジア一帯に猛威をふるったSARSは、台湾で346人の感染者と73人の死者をもたらした。いかにひどい状況に陥ってしまったかは、ネット上に散らばる当時の記事を読んでもらえると良いと思う。加えて、隔離政策によって人権が侵害され、差別によって社会に対立が生まれ、国内は混乱に陥ったので、疾病とは別の悲惨さが当時の台湾にもたらされたことを注記しておきたい。

 今回のコロナ対策のキーパーソンのひとりだった副総統・陳建仁氏は、2003年5月から2005年7月までの2年間、衛生署長を務めた人物だ。(日本の厚生省に相当するのが台湾では衛生福利部だが、2013年7月に昇格する前は衛生署とされ、組織ランクとしては今より一段階下だった。)陳氏は、SARSの真っ只中に衛生署長に就任し、SARSの対応と後始末に力を注いだ。

 2003年12月に彼が衛生署長として発表した論文「SARSを通して我が国の公衆衛生医療システムの危機処理能力を再検討する:反省と今後」(注)に、彼の熱い思いと決意が込められていた。

 文中の反省の部分だけを概訳すると、
「感染流行の監視力、院内感染管理力、検査診断力、保健医療システムの危機対応能力、省庁横断的な連携、国民の防疫知識教育、のどれもが不十分であった。
国内の危機対策は台風や地震を想定したものばかりで、感染症に対する警戒心がすっかり低下していた。その結果、感染流行勃発時には、一元的な指揮系統も十分な法律もなく、中央政府と地方政府の足並みは揃わず、衛生署内の関連部署は機能が重複し、公衆衛生の専門人材は不足していた。内閣内に対策本部を設立したが、省庁間の役割や責任分担が不明瞭で、各部門は通常業務の手順に則った形でしか運用できず、結果的にワンチームとしての力を発揮することができなかった。
マスコミ各社は事実確認しないままに取得した情報をこぞって報道し、国民の不安と混乱を助長した。」

 文章の最後はこう締め括られていた:
「SARSが過ぎた今、政策の各項目を再検討し、その反省を未来の政策執行に一つずつ着実に反映させている途中である。これが唯一私たちにできるSARSで犠牲になった国民と医療者への供養であり、これを無くして社会の真の成長はない。」

 台湾が徹底したコロナ対策を取れるのは、SARS以降に法律を整備し、危険性の高い伝染病が発生した際に国民への強制力を執行できる法律が既に出来上がっていたからだ。それにより、医師による通報や一般市民への検査実施、強制隔離措置、違反時の罰則などの法的拘束力をもって行えた。

 法律整備とともに、組織改革も行われた。台湾CDCの機能強化、人材育成、感染症の発生監視から緊急対応までのプロトコール策定、感染症指定病院を含む地域医療連携体制の整備など、上記の論文で述べられた反省点を全て網羅すべく、新興感染症を意識した組織作りが実行され、歴代の衛生部長(厚生大臣に相当)がそのバトンを繋いだ。

 また、台湾では強制措置を取らなくても民間での自主的な検温・マスク着用の取り組みが幅広く行われたのだが、SARSの教訓が政府だけでなく国民に浸透している所以だろう。17年前の記憶は、台湾人にとってはまだまだ新しい。

 法治国家において、法律は基本中の基本だ。行政単位は法的根拠なしには動けない。コロナ対策では法律が整備され、それに基づいた機動力のある組織が政府内に瞬時に結成されたからこそ、政府は力を発揮できたのだと思う。しかし、これらはあくまでも前提条件だ。台湾にはコロナ対策を展開するにあたっての有利な前提条件がそろっていた、と表現した方が適切だろう。そして繰り返しになるが、それはSARSのおかげだった。

 日本のコロナ対策をどう評価するのかは意見が分かれると思う。死亡率などの数字から見れば、良かったという評価もできる。一方で、私自身は高評価を下すことに躊躇する。新興感染症に対応する法律と組織。この前提条件が日本には揃っていない、ということを今回痛感した。もし次未知のウイルスがやってきたとき、日本が今のままで大丈夫だとは私は思えない。

(注)

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