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山中鹿之助、「七難八苦」

戦国武将において僕が今一番はまっている山中鹿之助について今回は紹介していきたいと思います。

山中鹿之助の人生を一言で表すと、まさに「七難八苦」いまからこの理由を話していきたいと思います。

山中鹿之助は史実では天文14年8月15日にに出雲国富田庄(現在の島根県)で生まれたとされています。鹿之助は当時中国地方東部を支配していた尼子家につかえることとなります。ここから山中鹿之助の武士としての才覚が開花し始めます。

まず、当時急成長し勢いに乗った毛利軍が尼子家の白鹿城を攻めた際、尼子軍自体は敗北し、退却を始めるのですが、その際鹿之助は200の兵を率いて殿の役目を受け、吉川元春・小早川隆景といった毛利軍のいわばエースの追撃を七度にわたり退け、敵の首を七つ打ち取っています。退却中にここまでの戦果を挙げるのはかなりの功績であり、個人的にはこの成績は鹿之助の圧倒的な武勇を表しているのでは?と思います。続く毛利軍との第二次月山富田城の戦いでも、鹿之助はまたもや吉川元春らの軍と戦い、これを撃退することに成功します。 さらに鹿之助は、この戦いで毛利家の高野監物を一騎討ちで討ち取っています。鹿之助のこの奮戦のせいもあってか、毛利軍は撤退を余儀なくされてしまいました。この後も毛利軍は尼子家に攻勢をかけ続け、鹿之助は夜襲や一騎打ちで戦果をあげますが、最終的には尼子家は毛利家に降伏し、尼子家の長であった尼子義久は幽閉され、尼子家は滅亡することになってしまいます。ここで普通の武将なら浪人となり他家に下るなどしますが、忠誠心の高い鹿之助は尼子家を再興させようとします。

    鹿之助の尼子再興運動ですが、史実では三回行われていることが確認されています。

まず第一次再興運動では、その昔尼子家の敵国であった山名家の力も借り、出雲の国にて16もの城を攻略し、勢力を拡大することに成功します。  しかし、布部山の戦いにて因縁の相手である吉川元春、小早川隆景らの毛利軍との決戦に敗れると、尼子再興軍の勢力は一時衰退しますが、毛利家の当主である毛利元就が急病を患うと再び尼子再興軍は巻き返し始めます。毛利の城を次々と攻略し、勢力を島根半島全域にまで拡大することに成功します。しかし最終的には毛利軍が優勢となり、尼子再興軍は撃退され、鹿之助も幽閉されることになり、第一次尼子再興運動は失敗に終わります。しかし鹿之助は毛利家に1000寛の所領とともに下るチャンスを与えられますが、これを断り脱獄し、再び再興運動を起こします。

このようにして尼子の為に奮戦を重ねた鹿之助でしたが、最終的には毛利家家臣によって謀殺されることになります。しかし、強大な毛利家、そして毛利家のエースである吉川元春や小早川隆景と互角以上に渡り合った鹿之助の武勇は今でなお語り継がれています。山中鹿之助が「七難八苦」という言葉で有名なのは尼子滅亡の際に「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った逸話がある為です。確かに、七難八苦という言葉がぴったりな戦ばかりを繰り広げていましたね。それにしても鹿之助のこの強さ、そして何度でも挑む精神力は大河ドラマになってもいいレベルですよね! 以上鹿之助についてでした。