クリスマスの初体験
忘れもしません、6年前のクリスマス。
25日だったか7年前だったかは忘れましたが、大宮の劇場で、クリスマスにちなんだ企画ライブが控えていたときのことです。
クリスマスライブは夜から。
昼間に時間の空いた僕は、お腹が減ったので「てんや」へ入ったんです。天丼のおいしいあのてんや。
カウンターに座り天丼を注文しました。
僕の右横には、大学生くらいの若い男の子が座っており、すでに天丼を食べています。
もちろん見ず知らずの初対面。人となりを何も知らないけど、何だか好青年。という感じの男の子。
クリスマスに1人でてんやで昼食、ってのは、
青年、どうなんだい? 夜には予定があんのかい?
おじさんはこれから仕事だから、その前の腹ごしらえだ。きみもそうか?
いや、見たところ大学生ぐらいだ。夜に仕事ってわけじゃないだろ?
てことはどうなんだい? 恋人と過ごす予定はあんのかい?
まぁ、世の中の全ての20代が、クリスマスをカップルで過ごすわけじゃないからな。仲間たちと弾けるクリスマス、それもまたいいだろ。
おじさんの若い頃? おじさんの20代のときはまあ、いろいろだよ。
彼女と過ごしたりそうじゃなかったり。
ははは、たしかに。偉そうに「恋人はいんのか?」と言えた立場じゃないな。
うん、よく考えたら女の子と過ごした聖なる夜の方が少ないかもな。
今? 今はこれから夜に舞台があるんだよ。
そう、すぐそこに劇場があってね。こう見えてもおじさんは芸人をやってるんだ。
ああ、女性とすごす1対1の甘い夜じゃないけどな。何人ものお客さんの笑い声をもらう、明るい夜を迎えようと思ってるよ。
どうだ、それもまたいいもんだろ?
という一人言を心の中でしゃべってると、店内に新しいお客さんが入ってきます。
ご婦人です。
何と言うか、
クリスマスにてんやに入ってくるとは思えないような感じの。
年の頃は50代後半から60代。
エレガントというか華美というか。ドレスとまではいかないけど、てんやに来る人でそんな格好の人いる? という感じの少しズレたフォーマル。
たとえるなら、弱デヴィ夫人。
弱デヴィ・スカルノさんは、大学生(仮)の横に座ります。
つまり、僕の右の右の席。
優雅に腰を下ろす違和感だらけの貴婦人。
すると、弱デヴィさん。カウンターに座るなり、1人でペラペラとしゃべり出したんです。
どれにしようかしら。
メニューがいっぱいあるのね。
おいしいのはどれかしら。
とか何とか、そんなようなことを言っていたと思います。
ひとしきりの一人言を呟いた弱スカルノさんは、自分だけで喋るのに飽きたのか、今度は隣の大学生(仮)に話しかけるんですね。
あーたは、ここによく来られるの?
あーた、それは何を食べてらっしゃるの?
"あーた"とは言ってなかったかもしれません。僕の記憶が弱デヴィのフィルターをかけたものになってます。
しゃべりかけられた大学生(仮)は、やはり好青年でした。
弱さんの言葉にキチンと全部答えていくんです。
声はそこまで大きくなく、少し困った様子を見せながらだけど、
はい。
はい。
そうですね。
と、良い人が滲み出てる返事を返します。
「あーたはここによく来られるの?」
「あ、はい、たまに」
「おいしそうなメニューがたくさんあるわね」
「そうですね」
「私ここの割引券を持ってるんだけど…」
割引券持ってんのかい。
何度か来たことあんだろそれ。初入店の人が言うセリフしか言ってなかったぞあーた。どこに向けてのフェイクだ。
「割引券、あなたにあげます」
「あ、いいんですか。ありがとうございます」
気前がいい……のか? 東アジア最弱のセレブ。
青年は嫌な顔一つ見せず偉いね。
「あなたの横にいるのはお友達?」
バッチバチに僕のことですね。
「いえ、違います」
「あらそう。じゃ、この割引券をそちらの方にもあげるわ」
全部聞こえてるよ。
どうやらオレにも割引券がやってくる。
「あーたこれ、そちらの方に渡してくださる」
「あ、え……はい」
聞こえてるって。
どうやらオレにも割引券が、横の青年を介してやってくる。
弱・スカルノさん。その子はオレのことを知らないって言ってんだから、割引券を託すなよ。
良い子だし断れないんだから、かわいそうでしょ。
割引券を受け取った青年は、少しだけ思案した後、僕に話しかけます。
「あの……」
全ての成り行きを知ってる僕は、即座に
「はい」
と答え、なんだか申し訳ない気持ちで青年に向き合いました。
「あの、これ……」
そうなるよね。
横に座ったおばさまにいきなり話しかけられ、初対面の男性に割引券を渡してくれてと頼まれた。
こんなに不条理なおつかいはありません。
大丈夫だ青年。
オレは全部理解してる。
その割引券をサッと渡してくれて構わない。
こちらの受け取り準備は整ってる。ドンとこい。
僕にどう伝えようか一瞬悩んだ青年でしたが、軽い決意を胸に口を開きます。
誰もが耳にしたことあるけど現実世界では滅多に聞かない……もしかすると一生聞かずに終わる人の方が多いかもしれない。
万が一聞いたとしても、てんやじゃないし、渡すのはお酒だろうし、ましてや男のオレが言われる確率は激薄という、あのセリフとともに。
あの、
と割引券を僕の前に差し出した青年は言います。
「あちらのお客様からです」
ここできみから聞くの!!!!?
本当にありがとうございます!! 先にお礼を言っときます!