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ぐりこさんによる私の論考のまとめ

ぐりこさんが私の論考について書いてくれた。ありがとうございます。

たぶん、ぐりこさんと私は「立場」は違うのだと思う。多くのひとが、安心安全プライバシーの確保を主張するときに、「そこにある男女の身体的差異(多分本当に言いたいことは、身体的なリアリティの重さ)」を根拠とされているのに対して、私は「身体」というものは否定しないものの、それを根拠とはしない、身体(の性別)は「社会的合意」である、と考えていると書いた。(ただし、確かに現実の身体はヴァルネラブルで傷つきやすいものであり、身体論は別途必要だと思う。無視していいものでも、無視できるものでもない)。

(暫定的に)「安心安全プライバシー」のほうに重きを置く側の主張(という名づけが的確かどうかはわからないが)では、私の見解はあまり見たことのない立場であって、ぐりこさんとは突き詰めれば立場は違うのだと思う。ただその立場を超えて、きちんと読み込んでくれたことを、嬉しく思う。

私は、すべてのひとの「安心安全プライバシー」をまもるためには、トイレや風呂の分割線は、性別によらないものにならざるを得なくなるのではないか、それででよいと思っているし(「同性」だからといって加害をされない保証はないからである。女性の加害者や男性の被害者もいるのだという事実を重く見れば、そうなるだろう)、身体が「社会的合意」であるべきの論理的な帰結としては、性別判定に必ずしも「外性器」を基準とする必要はないことになる(どうしても今までと同じ社会を維持したいと皆が合意するなら、それを基準とすることもあるのかもしれないが、私はそれを選択していない)。

生物学的本質主義が大きく幅を利かせてきていた時代がから(例えば「女とは子どものを産むもの」といった定義がそれ)、性別がそれを中核としないものとなり、性別の「線を引きなおす」ことが行われる時代(完全ではないかもしれないが、本人のジェンダー・アイデンティティや表現を尊重する時代)へと変化した。性被害者がプライバシーを守る際の理由に、「男性器」の有無に焦点化する人がいるのは、これまで外性器にさまざまな意味が付与され、なおかつ新しい時代に、制度や言説資源は追い付いていないことが理由だと理解している(私の理論的な帰結としては、それを是としないが、どうしてそういうことが起こるのかは上記のように、理解している)。

書きすぎた。取り合えず、ぐりこさんに書いていただいたことを紹介することが目的だった。労をとってくださったことに対して、最大限の感謝を。


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