【我が師】Vol.0657(2010年8月2日発行のブログより)
宮沢賢治
宮沢賢治は34歳で初めてサラリーマンになりました。
⽯灰肥料の販売担当でした。
宮沢賢治は明治⽣まれですが、当時から営業のセンスが抜群でした。
まず、上司に対して報告・連絡・相談を⽋かしませんでした。
判明しているだけで、
出張中に会社に対して書いたハガキが117通もあります。
わずか半年ほどの間にですから、
平⽇はほぼ毎⽇のペースでハガキを書いていたことになります。
しかも、あのハガキのサイズに⾒事なまでにコンパクトに進捗状況が
まとめられていました。
さすがです。
これだけでも本にできそうです。
僕は、ぜひ出版して欲しいと思います。
また、当時からダイレクトメールの⼿法を使って新規開拓をしていました。
印刷技術がまだまだ未発達だった当時に、
なんとその数1ヶ⽉で5000部送っていたのです。
賢治のもとには商品を買いたいという⼈が⾏列を作っていました。
これは、⾒事なまでのマーケティングです。
⼀流のマーケッターでもあったのです。
また、雑誌に肥料会社が広告を出していました。
キャッチコピーは賢治が考えていたのです。
いかにして訴求するか、⼈の⼼を掴むのか、
に対しての視点はさすがとしか⾔いようがありません。
天才コピーライターだったのです。
そして出張中に病で倒れてしまいます。
療養⽣活中に秘密の⿊い⼿帳に書きとめたメモが、
『⾬ニモマケズ』
でした。
没後になって評価されるのは天才のお決まりのパターンです。
何やらわかりにくい⽂章で様々な隠喩が含まれているのですが、
どうもしっくりきません。
それもそのはず、最後のセンテンスになって初めて主語が出てくるのです。
主語は「私」だったのです。
⽂章は常に主語が「私」であるべきだと、
宮沢賢治先⽣から僕は教わりました。
責任は他の誰でもない、いつも「私」なのです。
追伸.
作家はどんな仕事をしていても、作家なのですね。
追伸の追伸.
死ぬ間際にやっていたことこそ、その⼈の⼈⽣そのものなんですね。
...千田琢哉(2010年8月2日発行の次代創造館ブログより)
↓千田琢哉のコンテンツ↓
🔷千田琢哉レポート
文筆家・千田琢哉が書き下ろしたコトバを毎月PDFファイルでお届けします。
🔷真夜中の雑談~千田琢哉に訊いてきました~
文筆家・千田琢哉があなたから頂いたお悩みに直接答える
音声ダウンロードサービスです。毎月1日と15日発売!
“毎月1回の飲み代を、毎月2回の勉強代に”
🔷千田琢哉公式チャンネル
「3分の囁き」千田琢哉の独り語りをYouTubeでお楽しみ下さい。