一流の三流を目指すという考え方

世の中には一流と呼ばれる仕事のプロフェッショナル達が存在する。

実際に仕事上でそういう人を見たり、接したりする事もしてきたし、また有名人でも誰もが一流と認める人がたくさんいる。

そういう人達の姿を見たり、実際に話しを聞いたりする中で、ほとんど共通している事が1つある。それは

自分のやりたい事ではなく、人に求められる事をする

という事だ。

特に若くて情熱ややる気のある時は、つい自分の夢や未来、やりたい事ばかりを考えてしまって、”求められる事を行う事で対価を得る”、という仕事の本質とは違った方向に進んでしまう事が往々にしてあると思う。

そして、自分なりの情熱ややる気があるが故に、実際に本質的な部分に身を置いた際に、

”自分のやりたい事”=理想とは違う

と違和感を感じ、例え努力した結果ついた職だとしても、すぐに離れてしまうという話をよく聞く。

そしてこれはホワイトカラーのような職業にとどまらず、意外なようにも思えるがいわゆるクリエイティブ系の職業でもまさにこの理念がほとんどの場合、通念となっている。

クリエイティブ職の実情

一般的にデザイナーやサウンドクリエイターなどのような芸術分野的な名前を聞くと、まるでいつもその人達が自由な表現でオリジナリティのあるコンテンツを制作しているようにイメージを持つ人も多いかもしれないが、ほとんどの場合は、企業などから発注された内容のものを、全くそれに則して制作している事がほとんどだろう。(よりアート寄りな仕事になればもちろん例外はあると思う)

例えば、まだ特に知名度もないような状況の人が、たまたま自分の得意分野の発注が来た場合でも、発注内容よりこっちの方が良いだろう、と勝手にオリジナリティを組み込んで提案したりすれば(例え本当にそちらの方が優れていたとしても)、発注側からすれば、いいから発注通りにしてくれ、と一蹴されるのがほとんどの場合で、下手をすれば信用を落とし、次から依頼が来なくなるという可能性も低くはない。

もちろん全てがそうではなく、関係性により、その提案をする事が相手の利益となりえるような信用があるような状態では、もちろんプラスに働く場合もある。

ただし、あくまで受注する側においては、発注側に必要以上の提案を行う事はリスキーな行為なので、何か自発的に提案をするという行為は、選択肢としてあまり上位には入らないのが実情だろう。

つまり、発注側が黒といえばそれは黒であり、そこで白を提案するのは、確かにクリエイティヴ感がありかっこよく見えるかもしれないが、ドラマのようにうまく行くパターンは多くはないのが事実だろう。

一流と呼ばれる人達が一流と呼ばれる由縁

一流と呼ばれる人達が一流と呼ばれる由縁は、常に結果を出し続けている事に他ならない。

つまり一流の人達の思考はそこに至る経緯ではなく、結果を出す事にのみ焦点が絞られている。

自分が知る一流の姿は、自分がどれだけ時間をかけ、努力をし、何を犠牲にし、などという事を表に出す事は一切なく、その上で作られたものに修正依頼が入れば、それがどのような状況でも、小言の一つも言わずにそれに取り組む姿勢をほとんどの人が持っている。

特に誰もが知るような会社間などでの重要な仕事でのやりとりというのは、常に大きな責任が伴い、とても緊張感のあるもので、技術があるのは当然で、その上でその過酷な状況に耐えうるメンタルを持つ事が、仕事を任される上での見えない条件にもなっている。

そしてそのような状況で結果を出し続ける人を見て、誰もが一流であると認識するのではないだろうか。

誰しもが一流を目指すべきか?

しかしながら、

誰しもがそこを目指す必要があるのか?

というのがこの記事の主旨である。

一流の素晴らしさを語っておいてなんだと思うかもしれないが、

もちろん、そうした一流の人達が素晴らしく、尊敬できる存在である事は、誰が見ても明らかな事実である事に変わりはない。

ただし、自分はそうなれるかなれないか以前に、そうなりたいと思わなかったという話だ。(なれるかなれないかで言えば、おそらくなれる見込みは少ないだろう。)

こう考えるのは今の自分の環境的な部分も大きいのだが、現在は芸術分野でのフリーランスであり、フリーランスになる前はその分野での大手企業に勤めていた。

大手企業からフリーランスへ

大手企業に勤める前は、いわゆる個人的な活動での経験もあり、その経験を活かしつつ、専門学校を経て入社した。

しかし第一線の現場での作業は、前述したように、自分の想像していたものとは大きく異なっており、特に商業主義の上での芸術分野の制作というものをそのまま受け入れるのが難しく、結果、あまり自分自身がそれに打ち込む事ができなかったように今となれば思う。

その作業をする事に何の意味があるのかと思うような事も多くあった。そして、そんな邪念を抱きながら過ごしているので、ただでさえ難しい仕事もなかなか覚えられず、ミスばかりする毎日だった。

しかし環境としては、普通ではなかなか経験のできない最高峰のような場所だったので、その中で少しでも自分の技術を磨く事ができればと思い、しばらくは続ける事にした。

会社ではよく一流を目指せ、といったような事を先輩に言われたりした。また、前述したピリピリした重圧感や緊張感の中、大きな仕事をしているという事を誇りにして仕事をしている先輩が多かった。

しかし、こと芸術分野において100人が100人正解とするようなのものはないし、まして商業的な成功をおさめたものだけを正解とする考えがあるとするならば、できるだけ距離を置きたいという考えは持っていた。

4年ほど経った時に、色々ときっかけはあったが、特に愛社精神を持つ事もできず、今後自分が何か貢献していく事もあまりできないだろうと感じ、

同じ分野でも、もっと自分に合った違ったポジションがあるのではないか、

という事を思い、会社を辞め、フリーランスへと転向した。

独立して得たもの、失ったもの

現在、独立してフリーランスとなってからもすうぐ5年目を迎えようとしているが、結論からいうと、確かに考えていたポジションは存在した。

もちろん誰かが用意してくれる訳ではなく、自分でそのポジションを概念化し、アプローチしていく事でその居場所を作り、開拓している途中だとも言えるかもしれない。

ただし、はっきり言ってしまうと大手企業に勤めていた時に比べれば、今の仕事は比較的ぬるく感じる事も多い。

しかしこれには注釈が必要で、それは

あくまで商業主義の中で一流を目指していく事を基本理念とした場合の所感だ。

この理念を元にされると、現在の自分の仕事のスタイルに対し、第一線で誇りを持ち戦っている人達からの批判の声が聞こえてきそうで不安になりそうな事もある。

ただし、得たものと失ったものとで比較すれば、圧倒的に得たものの方が大きい。

まずは失ったものだが、フリーランスとなり、収入は半分くらいに落ちた。

大手企業にいたからとはいえ、そこで成功してから独立した訳ではないので、何かコネクションや安定した取引先がある訳では全くなかったので、半分でも収入がある事自体が、そもそもありがたい話であるのだが。

失ったものといえば、恐らくそれくらいだと思う。

もちろん給料が支給されるというような事も当たり前だがなくなった。が、フリーランスになるとはそういう事である。

では得たものは何かと言えば、

時間、自由な思考、やりたい事ができる環境

である。

会社にいた頃は、特にクリエイティブ系では悪しき慣習によって当然の事のようになってしまっているが、時間拘束がすごい。朝9時に来て朝5時に帰るみたいな事もそんなに珍しい話ではない。

ただし趣味性の強い専門職であるため、そこに異を唱える人はほとんどいない。むしろ業界に生き残っている人達はそれが当たり前のようになってしまっているので、異を唱えたりすれば、逆に白い目で見られるのが普通である。

普通に考えればこれも業界の闇の一つだとは思うが、当時の自分はそちら側の人間だった為、時間拘束がきつくてやめていった後輩を、内心では白い目で見ていたりした。考え方が変わってきたのは最近になってからようやくだと思う。

その状態がおかしいと思うどころか、どちらかといえばそこに誇りを感じてさえいるところに集団心理的な恐ろしさを感じるが、これはまた別の記事で書きたいと思う。

ともかく、そういった時間拘束とはある程度距離を置くことができた。

また、自由な思考についてだが、

自分のいる分野はいくつかの業態が掛け合わさって一つの作品を作るような形態なのだが、基本的にはそれぞれが完全に分業化している。特に一流という事に立ち帰れば、例えばマルチプレイヤーのような存在がいたとすれば、それはそれぞれの技術が中途半端、と考えられてしまうのが普通である。(草野球で投げる、打つが出来る人はたくさんいると思うが、メジャーリーグで大谷翔平のようなポジションにつける事はほぼ奇跡というのに近い)

しかし自分の場合は、関連する他の業態についても、個人的には手を出したりしていたので、特に完全分業されている職場では、それはそのどちらの仕事に対しても敬意がない、というような見方をされ、その事にひどく批判を受ける事もあった。

もちろん、客観的に見ればその論理は理解できる。

しかし昨今ではあまり予算などを構築しにくいご時世ということもあり、分業化されたそれぞれの業態に費用を割いていくことがなかなか難しく、マルチプレイヤーが求められているのも現実である。

特にフリーランスとなれば収入源は一つでも多いに越した事はないので、独立してからは、誰の目も気にせずに、思い切りやりたい事を全て勉強し、自分の糧としていく事ができるようになった。

また収入においても、とりあえずは半分程度になってしまったが、会社の場合は基本的に副業は禁止だが、フリーランスとなれば、例えば専門とする分野以外にも、突拍子もない発想から収入に繋げられる可能性があったり、専門分野にしても、続けていれば新しい収入ポイントの発見なども考えられるし、とにかく大きな借金を抱えるなど切迫した大きな問題が出ない限りは、それがうまくいくにせよしないにせよ、収入源のアイデア自体は無限に考えていく事ができるという楽しさがある。

まとめれば、

安定した収入とは引き換えに、やりたい事を全て試せる環境を手に入れたと言っても過言ではない。

もちろんこれは全ての人に当てはまる事ではなく、会社の中で自己実現をできる人もいれば、副業で自由に活動している人もいる。

自分の場合は一つの事(特にやりたい事)への集中力はある方だと思うが、それ以外をこなしながらできるような器用さはないので、この形が現状では一番自分には向いていると感じている。

三流

そしていよいよ本題となるが、今の自分の働き方は、最初に書いた一流とは無縁のものだと思っている。何故ならば、

自分のやりたい事をやるのは一流ではないからだ。

一流は自分から発信する訳でもなく、世の中を変えようとする訳でもなく、ただそこにある依頼に対して結果を出す事のみを信条としているからだ。

一流の完璧な仕事に対する姿勢には尊敬の念しかない。そして、簡単になれるものではない事も理解だけはしているつもりだ。

ただし、自分はそうはなりたくないというのが本音だ。

できるのであれば、自分のやりたい事をやりたい。

また、芸術分野において、多くの場合が商業主義の観点から評価を受ける事に疑問を感じている。つまり、

売れれば良いもの、売れないないものは、ダメなもの。

これははっきり言って間違っている。売れているものに関してはここで特に何か言うつもりはないが、売れてないものが間違いだとするのはあまりにも早計すぎる。もちろん売れない理由というものは存在すると思うが、その事自体は、芸術の本質的な価値と単純にイコールではないからだ。これも長くなるのでこれ以上はここでは書かない事にする。

ただもちろん、仕事として、依頼された案件においてはできる限り、仕事の本質を理解した上で、より良い結果を出すように作業する。

これは現状、莫大な資産を持っている訳でもないので、生活のため、資本主義に則って、依頼された仕事をしっかりこなす事が重要である事も、一応理解している。

しかし、どれだけ努力したかのような事は基本、表には出さないが、必要性を感じれば出す。そして、必要な対価を提示する。

そして必要性を感じればこちらから様々な提案もするし、やる事にどうしても納得できない場合はやらない事もある。

つまり、全くもって最初に書いた一流への道は歩んでいない。

端的に言えば、三流だと自分で思っている。

言葉があるかわからないが、四流、五流以下の可能性もある。

仕事を趣味と呼べるようになる世界線

また誤解を恐れずに、更に極論で理想を言うと、自分の行なっている事を”仕事”ではなく”趣味”と呼べる日を迎えたいとも思っている。

これは、世の中に少なくない”金を払ってる方が上”と経済に無知な自分よりも無知な人達へのアンチテーゼでもあるのだが、世の中は本質的に等価交換が基本である。

”仕事”という概念が、何故か発注側が上、受注側が下、のような構図でまかり通っている状況をよく目にしたり、または体感している人も多いと思う。

何か問題を抱えている人に対して、解決を与えた場合、そこに等価の対価(お金とは限らない)が発生するのが、基本原則、というよりも子供でもわかる単純なロジックである。

つまり、いわゆる”仕事”ではなかったとしても、何か問題解決が行われた場合には相応の対価(お金とは限らない)が発生する事が基本なので、例えば

頼んで料理を作ってもらったらその対価が作った人に与えられるべきであり、

頼んで絵を描いてもらったらその対価が描いた人に与えられるべきなのである。

今現在”趣味”と呼ばれるものでも、それによって多くの人が生活できるような時代はすぐそこまで来ていると思う。

一流の三流を目指す

一流はどんな無茶ぶりにも応え、完璧な仕事をする。

三流は、趣味で誰かの問題解決を手伝い、それの対価を得る。

ほとんどの場合、一流は高給取りであるが故、血の滲むような努力が料金に含まれている。結果を出す事が報酬条件であり、できて当たり前。完璧な状態で完遂できなければ、それまでの関係性が嘘だったかのように信用が落ち、批判され罵倒される。結果に対して対価は支払われるが対価以上に体の心配などをされる事はほとんどない。また、そうされる事も望んでいない。だからこそ一流と呼ばれる。

三流は問題解決のお礼としてその対価を得る。決して上下関係ではないので、お互いに思いやりの心を持って作業できる事が少なくない。対価は信用度によって大きく変化する。また結果までの経緯を評価される事もあり、大変な作業であれば労いの言葉をもらえる事もある。また、何か致命的な問題が起こらない限りは小さなミスで大きな批判を受けたり、それによって関係が悪化する事もほとんどない。また、そんな状況に常に感謝している。だからこそ三流と呼ばれる。

なるべく客観的に印象を比較して書いてみたが、実は後半は想像ではなく、ほとんど今の自分の状況を書いたものだ。

また、書いていて気付いたが、一流と呼ばれる人達が主にB to Bの仕事を主戦場としているのに対して、自分はB to Cが主である。2つの差は、それが一つの大きな要因かもしれない。

そんな状況の中、収入においては、とても毎日贅沢をできるようなレベルではないが、普通に暮らすにはそこまで問題ないし、たまに美味しいものを食べに行く事もできる。(もちろん常に同じ状況が続くという保証はどこにもない。)

また何よりも、毎日満員電車に乗り、気の合わない同僚と接したり、口うるさい上司に何か言われて精神をすり減らしたり、思考を制限されるような事もなく、毎日自分で自由に考え、やりたい事を試し、実行していく事ができている。

何をおいても金であるという考えの人は、当然目指すのであれば一流だろう。しかしながら、全ての人が一流を目指す必要はないのではないかと思っている。

三流にももちろん、その状況を維持する為の努力は必要不可欠であるし、決して楽しい事が楽である事と同義ではないと思っている。

だからこそ、自分はより完璧な三流、つまり、

一流の三流を目指していきたいと思っている。


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