(中編小説)ちび神様と夜空の花 後編


三.カヤリ

 予報にもなかった突然の夕立が降り始めたのは、絵里が家に帰り着くなり突然のことだった。
「雨止まないわねえ」
「うーん」
 台所の母の千里の声に、絵里は縁側で膝を抱えたまま生返事をかえす。
「灯籠とか、花火とか大丈夫かしらねえ」
「うーん……」
 「聞いてるの?」と呆れた声が飛んできたが、絵里は無言で膝を抱え直した。
 目前の庭の風景は、無数の雨の線に遮られて霞がかったように映る。雑多に手入れされた雑草混じりの芝生に、水滴が打ち付けては土の臭いを散らして弾け飛ぶ。
「絵里、もう提灯に火をつけたの? 馬鹿に準備が早いのね、家燃やすんじゃないわよ」
「燃やさないってば」
 いつの間にか千里が縁側に立っていて、先ほど慌てて取り込んだままの洗濯物の山を回収していく。母の足から避けるように、絵里は側にあった提灯を引き寄せた。
 数多の赤に移り変る鮮やかな炎は、少しの風くらいでは少しも衰えずに燃え続けていた。――本当に、カヤリの言った通り。
(カヤリ、どこに行ったんだろう)
 最後の寂しそうな顔を思い出して胸のざわつきを覚えた時、二階からドタドタと騒がしい物音がした。
「おいっ! 絵里! これ見ろ!」
「父ちゃん!?」
 振り返れば、琢馬が階段を転がり落ちるように降りてくる。思いもかけない姿に、絵里は思わず立ち上がっていた。
「なんでいるの!? 花火玉とか大丈夫なの?」
「今帰ってきたんだ、心配しなくても現地の雨よけ作業はばっちりだぞ! そんなことより、この写真を見ろ!」
 ぐいっと強引に差し出されたのは、古ぼけた白黒写真だった。映っているのは三人、まだ還暦手前と思われる祖父の源蔵と、二人の小さな子どもたち。
 一人はおかっぱ頭の見知らぬ女の子。そしてもう一人は、
「カヤリ……?」
「そうだ、さっきの男の子にそっくりだ。どっかで見たことある気がしたんだ!」
 呆然とつぶやいた絵里に、琢馬の興奮した声が降ってくる。
 白黒だから色まではわからない。でもこの大きな瞳、どこか偉そうな表情、かすり十字の着物、世の中にこんなに似た他人がいるなんて思えない。
 それがたとえ、時の止まった何十年前ともしれない写真の中だとしても。
「親父がな、一度だけ酔っ払って俺にこの写真を見せたことがある。俺は神様と友達なんだ、赤い髪と目の可愛らしい火の神様なんだって……!」
「かみ、さま」
 言葉を噛みしめて、視線を提灯の炎に落とし、再び写真に戻す。
 このご時世に、いったい何を言っているんだろうと思った。琢馬の顔を見れば彼だって心から信じてやしないのはよくわかる。
 でもそれ以上に、神様という言葉は絵里の中にごく自然に着地していた。不思議な赤色、おかしな口調、なぜか祖父に対しては呼び捨て――そして決して消えない残り火。
 そして、彼は最後に何と言った――?
「カヤリ、二度と会わないって言ってた……」
「なんだって?」
 琢馬の声も、もはや絵里には聞こえていない。
「カヤリ言ってた。夕立が過ぎれば二度と会わないって! これが最後だって! 火は雨で消えちゃうのに……!」
「ちょ、おい絵里っ!」
 居間を飛び出し廊下を駆け抜け、夢中で走り出した背後から、琢馬の制止の声が追いかけてくる。
 それを振り切り、絵里は雨の降りしきる外へ飛び出していた。

***

 男の子の、雨ざらしの萌葱の着物に冷たい雨が打ち付ける。濡れ鼠の髪は本来とはほど遠いくすんだ茶色、一人立ち尽くした姿は薄暗い境内の景色にとけ消えてしまいそう。
 鼓膜を覆うのは、さざめきのような雨音。
 どこまでが自分の輪郭で、どこからが水滴なのか、目をつむっているとそんなこともわからなくなってくる。
 そんな世界で、カヤリはそっと薄目を開けた。
(視界が霞む……)
 滝のような雨の中、みすぼらしい神社の本殿の姿が揺らぐ。
 雨の打ち付けるところから自分の感覚がおぼろになっていくのは、決して比喩ではないのだと理解していた。
(でも、これでいい)
 雨に打たれれば火は消える。そんなことは必然。おそらく、もっと早くこうするべきだったのだ。
(ヒヨ、待ってくれておるか)
 ほっとした思いを抱いて、カヤリが再び目を閉じたその時、
「――カヤリ! 何やってるの!」
 見知った少女の強い声とともに、頭上で花が開く音がした。

***
 
「カヤリ!」
 父の大きな雨傘を広げて、絵里は強い口調で名前を呼んだ。けれど目の前の男の子は、木造の小さな本殿の方を向いたまま、振り返る気配すら見せなかった。
 小さな肩は寒々しくて、くすんだ髪からはぽたぽたと水滴が滴り落ちている。
「カヤリ」
 ぎゅっと胸をつかまれた思いがして、絵里の声まで沈んでいく。
 小さな姿を抱きしめたいような気もする。でも彼自身が全力でそれを拒否している。
「……余計な、ことを」
 ぽつりと落ちた言葉に絵里の心はざわつく。
「余計?」
「ああ、余計じゃ。いらぬ世話じゃ」
「こんなびしょ濡れで何言って……」
「このまま雨の下におれば、跡形もなく消えてしまえたものをっ!」
 カヤリの強い口調に、絵里は思わず両目を見開いた。
 雨に濡れれば消えてしまうと、そんなありえないことを言うこの少年はやはり、
「本当に、火の神様……?」
 火織の火の神様。この神社の主。呆然と口にした絵里に、カヤリのため息が聞こえる。
「すでに知れておったのか。そうじゃ、ヌシの思っておる通りじゃよ」
「じゃあなんでなおさら……! ともかく神社の中入ろうよ!」
 カヤリの小さな手を引っ張ったが、小さな体はてこでも動かなかった。
「嫌じゃ」
「でもこんなとこじゃあ……」
「嫌じゃ、ワシはここから動かぬ」
「カヤリ」
「嫌じゃったら嫌なのじゃ!」
 乱暴にはねのけられる手。頑ななカヤリの態度に、絵里はしばらく考えあぐねていたが、やがてその場でそっと膝を折った。
 傘を肩で支えて、両手をカヤリへと伸ばす。
「仕方ないなあ、もう」
 持ってきたタオルを、ふわりと彼のしぼんだ髪にかぶせた。
 そのままゴシゴシと拭き始めた絵里に、カヤリは最初こそジタバタと抵抗していたが、そのうち諦めたように大人しくなる。
 背中の刺々しさが、少し和らいだようにも感じられた。
「ヌシは強引じゃのう……。まるでヒヨのようじゃ」
「ヒヨ?」
「二十年前まで一緒におった、ワシと同じ火の神じゃ。人の言葉で言うなら連れ合いのようなものじゃった」
 その言葉に、絵里の頭の中にぱっと思いつくものがある。
「ひょっとして、じっちゃんの写真に一緒に写ってたおかっぱ頭の女の子? 今その子は?」
 少し間があった。
「もう、おらん」
 その声は、ため息に紛れそうな微かなものだった。
「……ごめん」
「よい。口にしようがしまいが、事実は変わらぬ」
 それきり黙ってしまったカヤリの頭や背中を、絵里は無言でゴシゴシこする。
 続く言葉は思いつかない。雨音の分厚い壁を、突き抜ける術もわからない。
「――昔は、火の神もたくさんおってのう」
 ふいに、雨音に溶け消えそうな静かさで、カヤリがぽつりぽつりと話し始める。
「八百万津の神と言うであろう。自然一つ一つに神が宿るように、一つ一つの火にも神がおったのじゃ。ワシみたいな下っ端の神が数え切れぬほどおって、その上に大神様がいらっしゃった」
「……うん」
「けどのう、ワシら神は所詮人の信仰の下に存在するものじゃ。信心深い人間が減れば減るほど仲間は力を失って消えていき、ここを訪れる者もめっきりおらんなった頃、とうとう大神様の姿が見えんなってしもうた」
「……」
「それからはあっという間での、気付けばヒヨと二人きりになっとった。じゃけど、二人一緒ならそれもいいかと思っての、しばらくは二人穏やかに暮らしとった。でも、ある朝目覚めると、ワシは一人きりじゃった」
 続ける声は、少し震えていたように思う。
「皆、おらんなってしもうた。ワシだけが取り残されたところで、力は失われていくばかりでどうすることもできん。だから、決めたのじゃ。寂しいのも歯がゆいのも、たった一人でじわじわと消えゆく己の炎を見つめるのも、もう嫌なのじゃ。こんな、いつか消える役立たずの火なら、さっさと消してしまえばいいと思うたのじゃ」
 目に入るのはカヤリの小さな背中ばかり。後ろを向いた彼の顔も瞳も、何一つ絵里には推し量れない。その距離が、もどかしい。
「だめ、だよ」
 胸が痛い。泣きそうな切なさをこらえて、絵里は声を絞り出した。
「だめだよ、消えちゃうなんてだめだよ」
「ヌシ何を……」
「役立たずなんて嘘だ。そんなに綺麗な炎を、消しちゃだめだよ……っ!」
 はっとしたようにカヤリが口をつぐむ。絵里は「それに」と言葉を紡ぐ。
「カヤリがいなくなったら寂しいよ……」
 沈黙が淀む。その末にぎゅっと握りしめられたカヤリの手は、微かに震えていた。
「何がわかるというのじゃ」
「カヤ……」
「ヌシなどに何がわかる。大神様もヒヨも、ヌシら人のせいでいなくなったのではないか。ヌシらが、もうワシらはいらぬと言うたのじゃろう!!」
 ――かける言葉などあるはずがなかった。
 怒りと悲しみとない交ぜになったカヤリの感情の渦が、絵里の喉を詰まらせる。
 こんなに近くで触れているのに届かない。届きたいのに、その方法さえわからない。

 タオルがぱさりと地面に落ちる。
 背を向けた少年の髪はよりいっそう沈んだ茶褐色。
 沈黙の落ちる境内で、雨の打ち付ける音だけが、静かに空気を染めていた。
 

***

 四.神様の花火

 最初はほんの少しの違和感だった。けれど、小ぶりになった雨音に混ざる異音は徐々に大きくなっていき、やがてはっきりと絵里の耳に届く。
「絵里! 絵里ー!」
 自分の名を呼ぶ誰かの声。はっとして振り返った絵里は思わず目を丸くする。入り口の小ぶりな鳥居の下に、たった今階段を駆け上がってきたらしい大樹がいた。
「お兄!?」
「ひいーお前こんなとこにいたのかよ、この階段なげえっ」
 カッパ姿の彼は、肩の上下をくり返している。
「お兄どうしたの?」
「どうしたじゃねーよ。お前がいきなり飛び出すから、探して来いって親父に言われたんじゃねぇか。くそっ散々無駄足しちまった」
 お前のせいだと言いたげな不機嫌顔に、絵里はふと気付いてズボンのポケットに手をやる。空っぽだ、携帯を家に置き忘れてきたんだ。
 近づいてくる大樹が、「その子なんだ?」とカヤリの存在に目を止める。けれど絵里はしどろもどろに言い繕うこともできず、カヤリもまた背を向けたまま。
 誰も答えずにいるうちに大樹は興味を失ったようで、絵里の方にくるりと向き直る。
「それより、聞いたかよ花火の話」
「え……?」
 顔をしかめた大樹の様子に、どこか嫌な予感がして胸がざわついた。
「今日打ち上げるはずだった花火玉が、さっきの雨でダメになっちまったらしい! 花火玉を収めてた箱に雨漏りがあったって!」
「そんな……!」
 突然の言葉に鼓動がどきんと跳ね上がる。
 信じられない、だって琢馬は雨よけはバッチリだって笑っていたじゃないか。
「どういうこと? 本当なの!?」
「俺もさっきお袋から電話で言われただけで詳細は知らねえ。今から親父に電話するから直接聞けよ」
 そう言った時には大樹はもう携帯を打ち始めていて、あっという間に絵里の耳に機械が押しつけられた。数回呼び出し音がした後に、『おう』という琢馬の無骨な声が聞こえる。
「父ちゃん! 私!」
『おう、絵里見つかったか、良かった』
 ちょっと不自然な、何でもない口調が電話口ごしに届く。重ねるように絵里は声を上ずらせた。
「花火だめになったってほんとなの!?」
『あ、ああ……。収納箱がダメになってた。何度も確認した時にはなかったから、運搬中に壊れたのかもしれない……俺の管理ミスだな』
 さすがに意気消沈した風な、けれど妙に冷静な言い方の中に、諦めの感情があるのを絵里は見逃さない。
「待ってよ! 諦める気じゃないよね!? 探せば何個かくらい」
『いや、ほぼ全部だめになってな。どのみち花火大会は成立しないし、今年は諦めるさ……。今度こそ棟梁もクビかなあ……』
「でもでも」
『会わせる顔ないし、今年の夏祭りは家で大人しくしてるよ。絵里は楽しんでこいよな、じゃあな!』
「ちょっと待って父ちゃ」

 ブツッ

 唐突に通話は途切れる。絵里はそろそろと携帯から耳を離して大樹を見る。への字に引き結ばれた口は、俺にもお手上げだと言っている。
(嫌だ、このまま花火がなくなるなんて)
 体の中が熱くて、焦る気持ちに収まりがつかない。当の琢馬でさえ諦めモードなのに、素直に従えないのはどうしてだろう。この捨てがたさは、なぜ。

 ――絵里、この町の花火はすごいんだぞ。世界一なんだぞ。

 ふいに記憶の中で祖父の声が響いた。自慢げに、嬉しそうに、祖父はいつも絵里にその言葉を口にした。意味は教えてくれないくせに、本当に誇らしげに。

 ――なんたって、火織町の花火は神様の花火だから。

「……!」
 絵里ははっと息を呑みこむ。
 吸い込んだ空気は夕闇の涼やかさを含んで、火照った思考がするすると冷えていく。
 どうして気付かなかったんだろう。祖父の言う神様は、いったい誰のことだったのか。
「カヤリ」
 男の子の髪は、夜闇の中にもくっきりと浮かび上がる緋色。
 その小さな姿に向き直る。
「じっちゃんがいつも言ってた。〝火織町の花火は神様の花火〟って。これ、どういう意味なの?」
 頼りない肩が、わずかにぴくりと動いたように見えた。しんと静寂の落ちた境内に、絵里以外の声は聞こえない。
「神様の花火、だから世界一。じっちゃんはずっと言っていた。カヤリはこの意味知ってるんだよね。カヤリなら――私たちを助けられるんじゃないの」
 すがるように訴えかけた声に返答はない。けれど絵里は続く言葉を止めない。
「お願い。私たちは、カヤリの綺麗な炎が必要だよ」
 風が吹いて、カヤリの癖っ毛の毛先をさらう。その音に紛れそうなほど、微かな声が続いた。
「……無理じゃ」
「でも……!」
「無理に決まっておろう。力を失ったワシの火なぞ、ヌシにやった提灯の火くらいが関の山じゃ」
「でも、カヤ……」
「無理といっておるのがわからぬか!!」
 押し殺した怒声が絵里の胸をつらぬく。でも、震える肩はやっぱり小さい。
「わからないよ」
 絵里の声も震えていた。怒鳴られたことへの怒りよりも、やるせなさともどかしさが体の中で徐々に膨れ上がっていく。抑えきれない。
「わからない、だってカヤリの火はあんなに綺麗だった。カヤリの火より綺麗な火を、私は世界で他に知らない」
 なんで届かないんだろう。なんでこんなに二人の間の壁は厚くて、この手も一瞬ではねのけられるんだろう。届きたいのに、なんで、なんで。
「カヤリのばか! 私はカヤリの炎、世界一綺麗だと思ったのに!」
 叫んで、逃げるようにカヤリに背を向ける。傘だけを置き捨てて、止める大樹の存在も無視して、絵里はその場から走り出していた。
 最後にカヤリが何か言っていたような気もするけれど、駆け抜けていく風鳴りにかき消されて何もわからなかった。
 溢れ出してくる悔しさを止められず、こぼれそうな涙を振り切るように走り続ける。
 琢馬もカヤリも、みんなみんな分からず屋だ。
 二人とも――そして逃げ出している自分も、みんなただの弱虫だ。

***

「琢馬さん、本当に諦めるんすか?」
 祭り会場から少し離れた、林に囲まれた薄暗い空き地。琢馬が立つその場所にうっすらと届く喧噪の中に、ふいに年若い声が混ざった。
 花火の打ち上げ場だったはずの場所で撤収作業をしている途中、声の主は火織の花火職人の中で一番若い、つい最近入ったばかりの青年だった。
 他の職人たちはもう工房に戻っている。機材の回収はほぼ終わっており、最後の残りをトラックに積めば完了してしまう。
「本当も何も……打ち上げる物がないんじゃどうしようもないだろ」
「それは、そうっすけど……」
 打ち上げる物がなくなったのは、結局は琢馬の管理責任。あえてそこに触れてこなくてもいいのにと、答える言葉には棘が混ざる。
 青年はまだ何か言いたそうだったが、琢馬は彼から視線を外して目の前の打ち上げ筒に手を伸ばした。
(絵里、がっかりしてっかな。……いや、そうでもないか)
 幼い頃は大喜びで花火を見ていた下の娘は、最近は何も言ってくれなくなった。かわりに口を開けばうるさい小言ばかり。正論には違いないので従えばいいのかもしれないが、つい最近まであんなにチビだったやつの言いなりになるのもシャクで、気付けば逆の行動をしている。
 今回のことでまた軽蔑されただろうか。今度こそ嫌われたかもしれない。
 そう考えると、いちいちため息も重くなる。
(どっかでこっそり一杯引っかけて帰るかなあ)
 より呆れられるとわかっていながら、そんなしょうもない考えしか浮かんでこない。どうせ棟梁も首かと思うと投げやりな態度にしかならないのだ。
 そして琢馬が二度目の大きなため息をつき、打ち上げ筒をぐいっと持ち上げた時だった。

「父ちゃん、待って!!」

 飛び込んできた甲高い声。予想だにしなかった聞き覚えのある声に、琢馬は思わず固まる。そして持ち上げた格好のまま首だけを回した方向に、頬を上気させたショートカットの少女が立っていた。
 状況がつかめないまま、娘の背はこんなに高かっただろうかと、場にそぐわない考えがふと浮かんでくる。その間に娘はすぐに前にいて、琢馬は重たい何かをぐいっと押し渡されていたのだった。

 絵里が叫んで打ち上げ場に飛び込んだ時、最初に目に入ったのは呆けている琢馬の姿だった。それに構わず、絵里は大股で彼の方へ走っていく。
「父ちゃん、これっ!」
 有無を言わせず、手に持っていた玉を――抱えるほどのずっしりとした花火玉を琢馬の両手に押しつける。ダメ押しでぐいっと前に向かって押し込んだ。
「こ、これは……?」
「工房に戻っていたみんなと、使える花火玉を探したんだよ。これだけ、水が染みこんでいなかったの!」
 先に工房に撤収されていた、駄目になったはずの花火玉たち。何十個もの中から、絵里は戻っていた職人たちと無事な花火玉を探したのだ。ほとんど駄目になったと言われても、今年は諦めると言われても、どうしても引き下がることができなかった。
 ――だから絵里は、自分にできることを一生懸命に探した。工房に押しかけた絵里の言葉を職人たちはちゃんと聞いてくれて、そして一緒に探してくれた。
「何個かは無事なはずって思ったんだ。でもこれしか見つけられなかった。でも、一個でも残ってるなら打ち上げようよ! 父ちゃんたちが一生懸命作ったのに、簡単に諦めたりしないでよ!」
 琢馬は何も言わずにうつむいている。その面影はやはり頼りない。けれど、
「ほんと父ちゃんって、いっつも頼りないんだ、いやんなっちゃう。でも、花火作って打ち上げてる時の父ちゃんだけはかっこいいの! その父ちゃんだけは大好きだったの! お願いだから、かっこいい父ちゃんを消さないで。それに……」
 息をすうっと吸い込んで、絵里は声を張り上げる。ここにいない誰かにも届けと願って。
「火織町の花火は神様の花火! だから世界一なんでしょ!?」
 夜闇に響いた言葉は、微かに反響して消えていく。
 伝統なんて言う割に、細々と続くだけの普通の花火。ずっとそう思っていたけれど、それでもやっぱり絵里はこの町の花火が好きだった。誇らしげに語る祖父と、花火玉を触っている時だけ真面目な顔をする父のそばで育った絵里にとって、年に一度の花火はいつまでも故郷の証なのだった。
 贔屓目かもしれない。それでも世界一だと思うのだ。この町の花火も――そして不思議に揺らめく小さな火の神様の炎も。
 どちらも、この町の大切な宝物。絵里が大好きだと思うもの。
「……やるか」
 ずっと押し黙っていた琢馬が、いつまでも続きそうな沈黙に終止符を打った。
「そこまで言われちゃ仕方がない、一発どーんと打ち上げてやるか」
「父ちゃん!」
「琢馬さん! やった!」
 絵里と青年から次々に歓声が上がる。青年が「準備します!」と最後に残った打ち上げ筒の元へ駆け出して、その後に琢馬が続く。
「地面への固定は大丈夫っすよ、投げ入れ用の火薬もあります!」
「よし、いっちょやってやろう!」
 準備を始める二人の姿を、絵里は離れて場所から祈るように見つめていた。
 固唾を呑んで見守る中、準備のできた琢馬が絵里の方を向く。「行くぞー!」と強い声がした。
「父ちゃんしっかりー!」
 手を振った時にはもう、琢馬は背の高い打ち上げ筒に向き直っている。
 琢馬が花火玉を打ち上げ筒に投げ入れて、続けて青年が火のついた棒状の火薬を投げ込む。直後、待避してくる琢馬たちの背後で、筒から舞い散る火の粉とともに火柱があがった。
 そして、
「え……?」
 火柱は空に吸い込まれて消える。けれど、夜空は暗いまま。
 一つの灯りも点らない、先も見えない夜闇が天まで伸びるだけ。
「くそっ、不発だ!」
「そんな……!」
 どうしよう、このままじゃ何もかもが失敗に終わってしまう。琢馬たちの一生懸命作った花火が、絵里の大好きな花火が、誰の目に止まることもなくすべてが終わってしまう。
(カヤリ)
 無意識に、心の中で赤い癖っ毛の男の子の名を呼んでいた。
(カヤリ、お願い助けて)
 ぎゅっと目をつむった絵里の横で、一陣の風が吹いたのはその時だった。

 ――まったく、頼りないにも程があるわい。

 時間が止まったかと思った。聞き覚えのある、尊大で舌足らずなちぐはぐな口調。その幼い声はすぐ耳元で。

 ――ヌシら人間は、まだまだワシの力が必要なようじゃのう。

 絵里が振り返るのと、真横を一筋の炎が駆け抜けていくのはほぼ同時だった。じんわりとした熱さを残し、色鮮やかな赤が軌跡を引く。猛然と駆け抜ける軌跡の残像を追った先で炎は空へと立ち上り、深い夜闇をつらぬいた。
 ――その後の光景を、絵里は一生忘れることはないだろう。
 闇を切り裂いた炎の先で、空を覆うほどの巨大な大輪の花が開いた。色とりどりの火が自在に舞い遊ぶ大きな花火。蝶の舞のようにも見えるそれは、琢馬の作った花火だった。本当なら、それで終わりのはずだった。
 けれど今は、その外縁に幾重にも折り重なった巨大な花弁が続いていた。つぼみが開くように夜空に広がっていく花びらの色は赤。動きに合わせてゆらゆらと移り変わる、この世のどんな赤にも見える、不思議な赤。
 それは水彩画の赤であり、夕日の茜色であり、猛り狂う火柱であり、蝋燭のやわらかな灯火だった。
 絵里にはわかった。これは琢馬の花火であり、そしてカヤリの花火でもあるのだ。人の作ったものに、小さな神様がこの世のすべての赤色を詰め込んだ花弁を付けていったのだ。
 それはまさしく、神様の花火。あまりに美しい、ただ一つの夜空の花。

 火織町の花火は世界一。
 だって、小さな神様に守られた、唯一無二の神様の花火だから――。

***

 神様の花火。知らないうちに源蔵はそんなことを触れ回っていたらしい。それはカヤリ自身も、そして当時一緒にいたヒヨすらも知らないことだった。。
 自分たちの花火と言えるほど、大それたものではなかったと思う。
 ただ、源蔵たちの打ち上げる花火に少しばかりの飾りを足していただけだ。それは、夜空の花の数をほんの少し増やし、外輪の花びらを気持ち足してみるといった程度のことで、心ばかりの華やかさを付け加えていたに過ぎない。たった二人きりになった、それも子どもの姿しか保てない弱い神に敬意を払ってくれる彼への、精一杯のお礼だったのだ。
 けれど、最初にそれを言い始めたヒヨもいなくなり、カヤリが引きこもっている間に源蔵すらこの世の住人ではなくなっていた。もうカヤリが無様にこの世界にしがみつく理由なんて一つもなかった。
 それは町を見渡せばより決定的だった、ここはもうカヤリの知っている懐かしい火織ではない。時の流れは思い出さえも押し流そうとしていた。
 人間のことなんて、どうでもいいと思っていた。カヤリ自身にだって、誰かを助けられる力なんて少しも残っていない。花火のこともどうだっていいと思っていた。
 ――でも、気が付けば足は雨が止んだ後の夜道を花火会場へと向かっていた。
 そんな自分に呆れて何度も何度も神社に帰ろうと思ったのに、離れがたい何かがカヤリを帰路につかせないのだった。
 けれど、たどり着いたところで一体どうしろというのだろう。力なんてない、もう何もないのに。

 ――火織町の花火は神様の花火! だから世界一なんでしょ!?

 そんな少女の声が飛び込んできたのは、なす術もないカヤリが、物陰から絵里たちの様子を伺っていた時だった。
 今日たまたま出会った、源蔵の孫だという少女。彼女はおかしな人間だった。
 だって本当におかしいのだ。こんな自分の火を綺麗だといって、まだ自分に助けられる力があると信じて少しも疑わない。
 そして今度は、世界一だと言い始める。
 あまりにおかしくて、物陰から一人でくすりと笑ってしまったその瞬間、ふいにカヤリの体の中にあたたかな感覚が宿った。自分の中にわずかに残った小さな炎が、脈打つように火の粉をあげる気配がする。絵里の声に合わせて、その火は嬉しげに舞い踊る。
 呆然と、自分の中で再び息吹を取り戻した火の力を抱きしめて、そしてカヤリは理解した。
 神は人の信仰の元にしか存在できない。――それは裏を返せば信じるものがいれば存在できるということだと、人との触れ合いを断ち切ってあまりに久しくて、そんなことさえ忘れていた。
(ヒヨ、まだそっちには行けぬようじゃ。……もう少しばかり、待っていてくれるかの)
 そして小さな火の神は、残った力を振り絞る。
 おかしな優しい少女のために、夜空に大輪の花を咲かせるために。

***

「カヤリー! ありがとう! ほんっとにありがとう!」
「これ、抱きつくでない! 暑苦しい!」
 小さな姿を目にするなり飛びついてしまった絵里の腕の中で、ぞんざいな文句がぎゃんぎゃん飛んでくる。とってもうるさいけど、祭りの夜に寂れた神社に来る人間なんていないから、誰の迷惑にだってなりやしない。だから絵里も負けじと声を張る
「カヤリ、ありがとうありがとう!」
「ヌシしつこいぞ! 礼とてそれだけ言われれば有り難みも薄れるわい」
「だってこんなに嬉しいの生まれて初めてなんだもん」
 泣き声も混ざりながら、絵里は今度こそ男の子のあたたかさをぎゅっと抱きしめた。
 そんな絵里に、カヤリの呆れたようなため息が聞こえる。
「はあ、ほんにうるさいのう。ワシは単に、二度も助けられた借りを返しただけじゃぞ」
「え、二度って?」
「二度ったら二度じゃ。それ以上も以下もない」
「なにそれ! カヤリの意地悪!」
 一度目は夕立の時の話だろうか。二度目は何のことなのかいくら考えてもわからない。わからないけど、二度ということはひょっとして――
「二度って……もしかして、あと借りは一つ残ってる?」
「ヌシ、馬鹿なくせに妙なところに聡いのう。誰に似たんじゃ」
 盛大に顔をしかめたカヤリの、小憎らしい台詞。普段なら文句の一つや二つ言うところだけど、今は他のことで頭がいっぱいでそれどころではなかった。
「じゃあ、じゃあ手伝ってよ! 私やりたいことができたんだ」
 見上げるカヤリのうろんげな視線。その前で自分の決意を言葉にするのは、ひどく勇気がいった。
 絵里はすうっと息を吸い込んで、彼のゆらゆらと揺れる赤い瞳を見据える。吸い込まれそうな深淵、けれどもうそれは遠くない。
「私、花火職人になりたいんだ。それで、火織の花火を昔みたいに有名にしたい」
「……それはなかなか難題じゃな」
「うん、でもきっと大丈夫だよ。火織には、こんな素敵なちび神様がいるからね」
 きっぱりと言い切った絵里に、カヤリの眉毛がくいっと上がる。
「なんじゃ、そのちび神様というのは」
「だってカヤリちっちゃいから」
「……馬鹿にしとるのかヌシ!?」
 かわいいと思ったんだけどなあ。そう首をひねる絵里の前で、カヤリは「けしからん!」と湯気を立てている。
 でも、神罰なんて言うけれど、彼が怒ったって少しも怖くなんてない。目の前のちっちゃな神様は、とても偉そうで尊大で、でも少しだけさみしがり屋で臆病で、そして優しくて愛おしい。
 だから、彼がいればなんだってできそうな気がしてしまうんだ。
「大丈夫だよ、カヤリがいれば」
 真っ直ぐに瞳を見つめて言った言葉と、カヤリの目線とが一瞬ぶつかる。そして彼は微かにため息を漏らした。呆れたような――そしてどこか、ほっとしたような響きがあった。
「女だてらに職人か。源蔵が聞いたら呆れるじゃろうな」
「でも、じっちゃんならきっと止めないよ」
 そんな確信があった。祖父は最初は怒っても、最後の最後には仕方ないなと苦笑する。その優しさは、カヤリのぶっきらぼうなぬくもりによく似ている。
「やれやれ、嫁のもらい手がなくて行き遅れそうじゃな。仕方あるまい、当分ワシも消えられぬようじゃし、嫁に行くまでは一緒にいてやろうぞ」
「え? それって……」
「勘違いするな、深い意味などないぞ。そんなことより、ヌシ!」
 会ったばかりの時のように、鋭く呼ぶ声に思わず気をつけの姿勢になってしまう。そんなことはお構いなく、ちび神様はとっても尊大な素振りで絵里を指さす。
「何をこんなところで油を売っておるのじゃ。今夜は久方ぶりの祭り見物じゃぞ。ヌシ、案内せい!」
「……うんっ!」
 もうすっかり聞き慣れた台詞が無性に嬉しくて、絵里は顔中で笑った。
 余裕たっぷりに絵里の前をスタスタ歩き始めたカヤリを追い抜き、彼の手を引っ張って走り出す。猛然と飛んできた文句は、風にのって空へとさらわれていった。

 そして神社の境内を駆け抜けていく二つの影法師。
 そのちはぐな背丈を見下ろすは、夜風に揺れる木々と蜂蜜色の三日月ばかり。
 夏祭りの夜は、まだまだ終わらない。  

(終)

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