超特急で人生を取り戻せ

 ソシャゲって無料でできるじゃないですか。その中でも売れてるゲームって無課金でもそこそこ楽しめてそれでハマった人が課金要素でより楽しめる、みたいなまあそんな生やさしいもので終わらないことが多くて私もアイドルマスターシンデレラガールズのみなさんと身を滅ぼしかけたことがありますけどそれは置いておいて、よくやるのが「楽しませて貰ってるからゲームソフト一本買ったと思って5000円だけ課金しよ♪」ってやつ。
 まさにそれと同じ感覚だったんですよ。最初に超特急 BULLET TRAIN ARENA TOUR 2019-2020 Revolución vivaのライブブルーレイを購入したのは。

 2020年5月、もう説明もしたくもないですけど世界がアレになってチケットを取っていたライブは軒並み中止、返金された金額をそっくりそのまま開催されなかったツアーのグッズの購入費用として再返金し、目的を失ったまま在宅勤務にも飽きて“ない”仕事に明け暮れていた時でした。TLで友人が呟きました。
「卓球のドラマでも見るか…」

 20XX年、東京―
 トレンドの中心は、卓球!(中略)高校生同士の優劣を決めるのも、勉強や喧嘩の強さではなく、卓球の勝敗!
(次々と映し出される容姿のいい人間の立ち絵、集合絵、そして…ラケットおひな様)

 はーいおしまい、おしまいでーす。
 察しの良い私はすぐにこれが私向け、そして人類向けの“最高”であると理解し、気がつくとこう呟いていました。
「無音の 絶対時間……」

 そのドラマがご存じHiGH&LOWやPRINCE OF LEGENDなど、限りなく二次元に近いテイストの三次元を高クオリティで実現しそれらを音楽、漫画、ライブ等で幅広くメディアミックス展開することで各界に新風を吹き込んだ作品群と同じスタッフ、制作会社によるものだと分かると、私のFAKE MOTION―卓球の王将―への信頼は更に高まりました。これについてはオフィシャルファンブックでプロデューサーや脚本の方が触れているのでそちらを読んでください。もっと言うとこんな怪文書すぐに閉じろ。なに読んでんだ。見せモンじゃねえぞ。

 …それはそうと、世の中がアレにならなかったらもっとたくさん楽しい展開があったんだろうな~と悔やまれるところですが、それを抜きにしてもこのドラマ、作品としては所謂「エモ」を分かりやすく描くことに於いてかなりよく出来ていたと思います。とっかかりとしての突っ込みどころを全面に出しながらも台詞の余白や回想の挿入、カット割りが巧妙で、登場人物の表情の裏にある感情を容易に想像させました。
 こんなの、すぐにオタクの長文プレゼンが量産されてバズりまくってしまう……きっかけがあれば放送から一年以上経った今でも可能性があると思っていますがアレですね。バズって難しいですよね。ほんとそう思う。頼むからみんなFAKE MOTION―卓球の王将―を観て。フールーチケット奢るから。

 そんなこんなで入れ替わり立ち替わり登場する容姿の良い人間たちの感情の虜になった私が、同じ顔をした人たちのやっている音楽を聞き始めるのは時間の問題でした。
 FAKE MOTION―卓球の王将―の分かりやすさは出演者の演技のうまさに依るところも大きく、さすが俳優事務所、というのは当然の感想でしたがなぜかみんな歌もうまい。あれなんなんですかね?容姿のいい男を片っ端から集めたにしては歌える割合が高すぎる。めちゃくちゃ腕利きのボイストレーナーが裏で暗躍しているとかなんでしょうか。私ずっと気になってます。
 ここでやっと冒頭のくだりに戻るんですけど、「FAKE MOTION―卓球の王将―で楽しませて貰ってるから、お布施にライブブルーレイでも買お♪」これです。
 それでとりあえず、新しい方からDISH//の前年のコニファー公演と、超特急の前年からその年にかけてののアリーナツアーのブルーレイを購入したわけです。
 お皿については先日の中野サンプラザ公演にも運良く脚を運ぶことが出来て、無事橘柊生さんにめろめろになって帰ってきたのと、最近マブがフェクライきっかけでヤベ・マサキさんにすっころんだのでピンクと黄色の連番をする未来ばかり思い描いて泣いています。早く心置きなくライブで連番の手を強く掴みたい。

 で、BULLET TRAIN ARENA TOUR 2019-2020 Revolución viva の話なんですけど。

 2019年、年末の大阪城ホール公演。先にサブスクで配信されているライブ音源を聞き込んでセットリストは把握していましたのでくるくる踊る超特急さんを観てかわいい~島津くんが笑顔で踊ってる~などと呑気に鑑賞していたはずでした。ライブ序盤、6曲目にしてそれはやってきました。

 ステージが、せり上がり始めた…だと………。

 その瞬間、私は誇張なくぼろぼろと泣いていました。それが何度も見た光景だったからです。 

 ムービングステージについては、多くの人にとっては説明は不要だと思います。ありとあらゆるコンサートで導入され、たくさんのアーティストが観客に足の裏を見せつけてきた最高の舞台装置ですから既にどこかでご覧になったことのある方も多いのではないでしょうか。
 今でこそドームなどの広い会場での移動手段として使用されるイメージのあるムービングステージですが、初出は2005年の夏、そして大阪城ホールでした。会場によっては入口が小さく搬入に適わなかったため、私が入った地方公演では使用すらされなかったことを覚えています。
 初めて東京ドームで、真上をあれが通り過ぎていった時の興奮も、これが最後かもしれないと覚悟して臨んだ京セラドームで、近づいてくるあれのふちに自担が腰掛けてこちらを見下ろしていたことも、昨日のことのように思い出すのです。あの日は自担の誕生日でした。おめでとうと言われて、照れくさそうに笑っていました。
 あれは、ムービングステージは彼が考案し、安全上の懸念点をクリアして消防の許可を取り、実現したものでした。けれど特許を取らなかったのはたくさんのアーティストに使って欲しいという想いからだったというエピソードは、ムービングステージと考案者の松本潤さんを語る上で必ず添えられるものです。高校生の頃からコンサートの演出を手がけ、ツアーの度に打ち合わせのために自分(とスタッフ)の睡眠時間と命を削り散らかし、新しい演出のためにムービングステージのみならず様々な舞台装置や音響技術の開発にまで手を出してきた松本潤さんは、プレイヤーでありながらプロデューサーの立場から間違いなく日本のコンサート事業全体の発展に寄与してきました。

 こんな遠くに来て、全く関係のないこの場所で、大好きな人に会うなんて思わなかった。
 画面の中のことでしたが、よりによって最初の地、大阪城ホールで、「たくさんのアーティストに使って欲しい」という彼の願いが叶っているのを思いがけず目の当たりにしてしまった。
 そんな幸せなことがあるでしょうか。

 そして、ムービングステージというものが、なんと超特急にぴったりなことか。
 パフォーマンスを何よりの武器にする超特急にとって、既存の他アーティストのコンサート構成ノウハウってほとんど役に立たないんじゃないかと思うことがあります。会場が広くなればなるほど遠くなる距離を埋めるためには会場内での移動が必須になり、たいていはトロッコでの移動や花道練り歩きお手振りコーナーが設けられるものですが、過去の超特急のライブ映像を観るにつけもう全然しっくりこない。え、だって超特急にはずっと踊ってて欲しくない? 
 先日満を持して「初乗車」したぴあアリーナMMでは、観客との距離を取る意味もあったのだと思いますが花道もなし、客席降りもなし。ただメインステージで超特急が延々と踊り狂うセットリストにはすがすがしさすらありました。超特急の良さを伝えるには、超特急は踊り続けるしかない。
 だからムービングステージの導入は超特急にとって必然だったと思います。松本潤さんが消防の立ち会いの下テストしてクリアした安全基準、その使い方は想定してなかったんじゃないかなって心配になるくらいグラングラン揺らして迫り来る超特急。まあその後みなさん揺れて踊りづらかった、コツがいる、等々おっしゃっていたのでまた使って貰えるかは分かりませんが私は観たいので是非ご検討いただけますと幸いです。

 で真面目な話、多分業を抱えたオタクはみなどこかで一度思い知った経験があることだと思うんですけど、永遠なんてないんですよね。
 好きな漫画の連載が終わる。ドラマが最終回を迎える。メンバーが卒業する。脱退する。共演者が犯罪に走ったせいで映像がお蔵入りになる。グループが休止する。休止どころか消滅する。一緒にオタクしてた友達が降りる。もしくは自分が降りる。メンバーが死ぬ。とか、とか、いろいろ。
 いろいろあるけど、納得の仕方は結局一つだけなんだと思うんです。「これは、人生の話だから」と。
 終わることは次へ進むことで、そこにはそれぞれの人生が気の遠くなるくらいの長さで横たわっている。どこかで交わってまた離れていくことをその時々で嘆きながら、でもしょうがないんですよ。人生の話なんで。

 だから赤い髪の男の子が作り物みたいな顔面をびっしゃびしゃにしながらBillion Beatsという曲を踊っているのを見たとき、それは私にとって強烈な「答え合わせ」でした。
 一生に打つ鼓動のうち、何回を君と共有できるのかという問いは、いくら残りの全部を捧げると誓ったとて、永遠が欲しいと願うことを「欲張り」だと知っている人間にとっては苦しいほど切ない。
 人は変わっていくし、何事もあっけないほど簡単に終わるし、永遠なんてないから。
 赤い髪の男の子、超特急ユーキさんの涙はそれを確かに知っていました。知っていて、惜しんで、その瞬間を閉じ込めるみたいに発光していました。
 そうだよな、超特急ユーキ、永遠なんてないよな。ずっとついてきてくださいとか言っておきながらやめる奴は全然やめるし、一生推すとか言っておきながら降りる奴は降りるよな……分かるよ…………え、そういう話はしてない?
 でも全部それぞれの人生の話だからそれでいいし、一瞬の輝きに、価値は確かにあるんですよ。
 いつかの未来の思い出を、現在進行形で上映しているのが今なんですよ。自覚的であるか否かにかかわらず。

 超特急ユーキさん、インタビューやYouTubeでもめちゃくちゃ頻繁に人生の話を始めます。
 おそらく「本気」の表現の代わりに人生という言葉を使っているんだと思うんですが、ビリオンビーツ・泣き男(なきお)としての第一印象を未だに引きずっている私からしますともう「ちょっとみんな静かにして!?超特急ユーキさんが人生の話をしています!」なわけです。

 他人の人生を消費してるんだよなあ、と思うようになって、少し経ちました。
 数えきれないくらいたくさんのファンに囲まれて愛されている人が「やすみたい」と言うのを見てから、私のたのしみは他人の人生の犠牲の上に成り立っていたのかと思うこともありました。
「まあでも、エンタメだから!趣味でダメージ受けるってばからしいし!ガハハ!」などと笑って見せても私ったら根が真面目なんですよ。これは人身売買。他人の人生を買ってファンなんて聞こえが良いだけのひとでなしなのではないか?さすがに気に病みすぎでウケちゃうけどほんとにそんなことばかり考えていたんです。

 これは2019年の春から夏にかけて行われたホールツアーEUPHORIAのライブブルーレイに収録されているMCでの出来事ですが、ボーカルである超特急タカシさんが「髪を伸ばそうと思っている」という旨の発言をしたときのことです。客席からは少し残念そうな声が上がりました。いつの時代も好きなタレントが髪を伸ばすのを嫌がるファンはいるもので、今まで100回は見てきた光景です。うそ、盛りすぎました。20回くらいです。
 それに対して、タカシさんから一番遠くに位置する超特急カイさんが笑顔かつそこそこのデカ・ボイスで客席にこう応戦しました。
「いいじゃないタカシの好きにさせたってや!!!!!人権もあるんですこちらにも!!!!!」
 私は超特急カイさんのこういうところがほんとうに好きで、最初にそれを聞いたときのえもいわれぬ喜びは筆舌に尽くしがたいものがあります。
 超特急には人権がある。
 そのことが一人のオタクを救いました。

 カイさんだけではありません。ボーカルのタカシさんは一に努力二に努力、三に顔が良く、四に足が長く、五から十はすべて努力、といった具合のたからものみたいな人ですが、そのやさしさで日々ひとびとをめろめろにしまくっています。めろめろになっているのは私です。
 つい先日も、私はいつものように超特急タカシさんのインスタライブを見ながら滝のように涙を流していました。
「SSA(さいたまスーパーアリーナで11月に予定されている超特急の10周年ライブ)に向けて筋トレしてる」
 ファンからこんなコメントが入りました。素敵ですね。それを読み上げたタカシさんはその力強い歌声からは想像もできないようなふわふわやわやわなたからものボイスでこう言いました。
「ええな。そういうの聞きたい。みんながなに頑張ってるとか」
 昨今、「生きているだけでえらい」「出勤しただけでえらい」といった褒めを疲れ切った大人に提供するタイプのコンテンツが幅を利かせはじめて久しいですが、超特急タカシさんもそのうちのひとつと言っていいでしょう。ただし、タカシさんに限ってはなんの打算もてらいもなく、陽が昇ると朝が来るのと同じ調子でわれわれを肯定してくれるのです。それは彼自身が不断の努力を積み重ねているからであるには違いないのですが、一方で努力をしている人が他人に同様の努力を強いてしまうことはよくあります。ところが超特急タカシさんにその傾向が一切ないのは、彼の自他境界がはっきりしているためだと私は考えています。
 私たちは社会の中で生きているので、共感というつながりに否応なく重きを置きがちです。それ自体はポジティブな心の動きですが、ときに他人と自分を重ね合わせることはとても危険なことです。あなたは私じゃないし、私はあなたじゃない。そんな当然のことを人は簡単に忘れます。結果人になにかを強いたり、逆に他人の不幸をまるで自分自身のことのように感じ、切り離せなくなります。好きなアイドルグループが休止を発表した後の私のことです。
 超特急タカシさんは、一人のオタクにそのことを思い出させました。

 超特急は人生を犠牲にしないし、超特急には人権があります。
 だから私も他人の人生を犠牲にせず、自分のことを大切にしながら、生きていけるかもしれない。そう思ったんです。

 生きるのむずかしいな~って思ってここまでやってきました。
 酒に強かったら毎晩焼酎かなんかを抱えてやり過ごしてきたと思うんですけど悲しいかな体質がそれを許しませんでした。
 酒飲みになりたかった。人生がままならないなら、いっそ落伍者になってしまえれば良いのにその勇気すらない真面目な私は、代わりに大きな音で鳴る音楽や強い感情の出てくる映画なんかをガブガブ飲んで食べて、それでなんか意味がある気になって擬似的な酩酊状態を得てきました。
 それでも私は私が好きでした。外見にしろ内面にしろ欠点なんて数えればいくらでもあって、でも鏡を見ればかわいいな~って思うし言う。察しが良いし理性的だしけっこういいやつだし。
 そんな「それでも」を、超特急を見ていると何度も思い出させられます。これはきっと、ポジティブな方の共感です。
 他人に強いることも自分に強いてしまうこともなく、人間のままもうすこし、やっていけそうです。じゃあな。