そして、日本映画界の未来は何を語るのか!?

現在公開中の松竹映画100周年記念作品『キネマの神様』(山田洋次監督)。

同作をご覧になる方、なられた方は是非、この機会に一読してほしい。

これから、主人公の円山郷直(ゴウ)が生きた日本映画の歴史を紐解いていく。

そして、日本映画の明日を繋ぐ若いクリエイターたちに受け継がれる事を願う。






日本映画のテレビドラマ化の何故!?




日本映画の拠点がかつて関西(京都)にあったことをご存じだろうか?
それは、1923年9月1日の関東大震災の出来事だ。
それまでにも関西には多くの映画スタジオがあったが、この大震災により、関東のスタジオは壊滅され、映画の拠点は関西(京都)へと移される。

今も健存する東映京都撮影所は、名は違えど、その2年後に設立されたものだ。
映画撮影所だけでなく、東映太秦映画村という名でテーマパークとしての活用もあって、一般からも知られて人気だが、日本映画の歴史には様々な困難があった。

「昨今の日本(邦画)映画はテレビドラマ化している」
よく耳にしたことはないだろうか?

まず、アメリカドラマの違いをお伝えする。
アメリカのテレビ放送局は映画会社が作ってきた経緯がある。
だから、制作費の掛け方も映画並みだ。

一方で、日本のテレビ放送局は、活字であり、言葉を大事にしてきたラジオ局から始まった。

映画は映像で物語るもの。テレビドラマはセリフで綴るもの。

これは、かつて活動写真という言葉から生まれ、サイレント映画(無声映画)、そして、トーキー映画(発声映画)として、今の映画という言葉がある。

日本のテレビ局は、ラジオ局から生まれたものだから、言葉。つまり、セリフから物語るものだという。

だから、初めから日本映画と日本のテレビ放送局の成り立ちが違っていたのだ。

勿論、日本の放送局にも映画会社が建てた放送局がある。衛星放送のWOWWOWなど。

「ん? 答えになってない?」

そう。何故、日本の映画はテレビドラマ化したのか。

この話は、まだまだ遠い話のようで、少々お待ちを。


日本映画の懐事情とは!?


まず、現在の日本映画の現状として、多くの映画で製作員会方式で製作されている。
エンドロールの最後にタイトル製作員会と記されている。あれだ。
日本映画の製作費事情について、黄金最盛期では、製作・製作総指揮などと記した人物や企業・会社が映画製作費を単独出資していた。
つまり、製作プロデューサーだ。この製作プロデューサーが一番、映画製作全体の力を持っていた。
しかし、現在では多くのスポンサー、企業などが集まって製作員会という方式が設置され、映画は作られていく。その為、監督やプロデューサーの意向が全てでは無くなってしまった。むしろ、テレビ局やスポンサーが主流となっている映画も多々ある。
とは言え、連続ドラマから映画化となってヒットした作品も多数あり、映画界はテレビ放送局に助けられているのも事実だ。
興行的にも大成功を収めて、大ヒット作を連発し続けているスタジオジブリでさえ、赤字と言われている。
今では、グッズやDVDなど二次著作での収益で、利益を上げるのが精いっぱいで、それでも赤字なのが現実だ。
現在の日本映画の興行の仕組みとして、興行収入の1割~2割ほどが現場の制作スタッフに支払われるほどシビアな世界でもある。
ほとんどが収入は、興行・配給会社、スポンサーに流れていくのだ。
この仕組みが、現在の大手映画会社と言われる東宝、東映、松竹、大映(現:角川)が興行と配給に徹した大きな理由の一つでもある。
そう、上記の大手映画会社もかつては、映画を制作していたのだ。日活を含め、今でも、制作しているイメージは強いが、実際に映画を制作しているのは、一般で言う中小企業の映画会社たちやテレビ局の子会社にあたる制作会社たちだ。

しかしながら、映画業界は衰退していく一方で、興行的にも、一つの施設に複数のスクリーンがある映画館・シネマコンプレックス(以下:シネコン)が主流となり、この影響により、映画は当然フィルムからデジタルへと時代は変わっていく。
これまで映写機によるフィルムで上映してきた単館映画館は、半ば強制でデジタルへと変更せざるを得ず、だが、そんな資金もあるはずなく、映写技師の失業や単館映画館(ミニシアター)が次々と閉館へ追い込まれていく。


現在の日本映画の現状として、多くの映画は製作員会で製作されている。
エンドロールの最後にタイトル製作員会と記されている。あれだ。
映画最盛期では、製作と記した人物が映画製作費の出資をしていた。
しかし、現在では多くのスポンサーや企業などが集まって製作員会を設置して、映画は作られていく。その為、監督やプロデューサーの意向が全てでは無くなってしまった。
そんな映画製作に危機感を覚えて、動き出したのがシネカノンだ。
つまり、映画専門の信託を開始したのだ。
当時は画期的で、『フラガール』などヒットした作品もあることは事実だが、
しかしながら、絶対にヒットする保証のない映画産業にはこのようなシステムは大きな流行、一般化には至らなかった。
現在は、クラウドファンディングの登場により、一部の映画制作費、配給費を一般の支援者から募る方法が生まれている。


時代は遡る。日本映画の父の登場!!

そもそも映画は、フランスのリュミエール兄弟が発明したシネマトグラフが明治の日本に渡来し、映画興行、映画製作は始まった。

現在のTOHOシネマズなんばの位置こそが、興行としての初の日本映画の地とされている説がある。

始まりは、日本映画の生みの親である日本映画の父・牧野省三。
3年ほど前に亡くなった俳優の津川雅彦さんの祖父だ。

彼こそが、1908年発表の『本能寺合戦』で日本で初めて劇映画を撮った人物だ。

日活の前身『横田商会』が牧野氏に声をかけたことが始まりだとしている。
勿論、この時代に今も目にする大手映画会社の松竹や東宝、東映など生まれてもなかった。

それから日本は、当時から盛んだった古典芸能・歌舞伎や人形浄瑠璃(文楽)といった舞台芸術を駆使して、活動弁士(下記:活弁)という日本独特の上映形態が始まった。
日本人が、洋画の鑑賞で吹き替えが苦手なのも活弁の影響とも言われ、日本人の多くは字幕の方が好まれている。
しかし、他国では字幕より吹き替えを好むのが当たり前で、日本は珍しいと言われているとか。





そして、第一次映画黄金時代が到来する。




歌舞伎などの演劇的手法から生まれたチャンバラ映画は、日本独自の映画文化を築き、当時の観客を熱狂させた。
この頃に、舞台中心だった松竹が映画に着手し始めるのだ。
ちなみに、この時代に活躍していた俳優が、今年亡くなられた田村正和さんの父・阪東妻三郎さんことバンツマだ。

上記にも説明したが、この時代(昭和初頭)から映画はサイレントからトーキーへと変わっていく。

つもり、現在の映画の形へと変わったのだ。


そして、映画界からも絶対に忘れてはならない時代がやってくる。

戦争だ。

日本映画は、1939年。戦争下で映画法が施行されて、軍事時代の渦中に巻き込まれていく。

余談だが、北朝鮮のニュースで時々見かけるプロパガンダ映像を見たことはないだろうか。
それは、かつての、戦争下の日本国も一緒だった。
それは、アメリカの大人気キャラクターミッキーマウスも戦争下の当時のアメリカではプロパガンダ映像として起用されていた。


当時の日本映画を制作するスタッフ・俳優たちは映画法によって苦しめられることになる。

映画は芸術だ。芸術は自由である。これは平和ボケの象徴の言葉かもしれない。

この時代の映画は決して娯楽としてのものだけではなかった。

娯楽色は排除され、国策や軍事主義をうたう映画(いわゆる上記に記したプロパガンダ映像だ)へと半ば強制的に変貌し、脚本の事前検問や映画会社の許認可制、文化映画やニュース映画の強制義務上映、アメリカからの輸入フィルムは経済制裁によって途絶え、国産フィルムは軍需品とされて、使用制限がかけられるなど映画界の死活問題となり、各パートの映画スタッフや俳優は技能審査を受けて政府からの登録がないと従事できないなどがあったという。
その試験管には、内田吐夢監督らもいたという。
況してや敵国の海外映画などを上映されるはずもなく。

昭和20年(1945年)、12月26日。終戦とともに、映画法は廃止された。
映画法に苦しめられた6年間は、映画の歴史でも大事なひとページでもある。

そして、日本国は敗戦に終わったが、
しばらくの間、アメリカ占領下でチャンバラや復讐劇などを内容とした映画が禁止され、戦争への反省が内容とした映画が制作されるようになる。

日本映画はさらなる黄金時代へ、そして、ゴウが生きた時代へ


対日講和条約(フランシスコ条約)によって、日本国は独立する中、映画界では、日本の独立を象徴するかのように『羅生門』(黒澤明監督)が、海外の映画祭の一つであるヴェネチア映画祭で受賞することになる。
この出来事が後押ししたかのように、日本映画は次々と娯楽作品を制作して、海外からも評価を受けるようになっていく。
国内では、年間観客数が11億2700万人を超えるほどで、戦後の復興と共に日本映画界に活気を取り戻す。

その頃の映画界を描いたのが、現在、公開中の山田洋次監督『キネマの神様』だ。

そう。ゴウが輝いていたあの時代だ。

今の10代20代30代の若者たちは、同映画を惜しくも新型コロナウィルスでこの世を去った志村けんさんが出演する予定であった話題作品としてご覧いただいている方も多いでしょう。
況してやモデルとなった清水宏監督や小津安二郎監督、同作の監督を務めた巨匠・山田洋次監督さえも知らない人はいるだろうし、若年層にとっては、女優の永野芽郁さん、若者に圧倒的な人気を誇るRADWIMPSのボーカリスト・野田洋次郎さんの出演やダブル主演の菅田将暉さんが主な客引きとなっているだろう。

ラブシーンなど随所に見られる山田洋次監督らしい演出の数々は、今の若者層にとっては物足りなさを感じる人もいそうだが、89歳の巨匠が撮った映画だ。
貴重な作品の一つとして、観客層に若年層が多かったのも個人的には喜ばしい事だし、日本映画はまだまだこれからだ!という映画魂を感じだ一作品である。

同映画は松竹映画の100周年を記念した作品として公開された。
それだけあって、原作の『キネマの神様』(原田マハ氏)とは違って、どちらかというと監督の山田洋次氏が、当時の松竹映画会社の一社員だったころの彼が反映されているに違いない。また、若い世代の私たちに、「昔の映画はこうだったんだ」と。教えられたような、まるで映画の教科書のような作品でもある。

補足として、これは決して老人が若人に押し売りした映画ではない。それは、今も昔も変わらず、何かを作る、何かを行うという、その情熱たるものは今も昔も、若者だろうが年を取っていようが変わらないという事をテーマの一つとして描かれているからだろう。

同映画でも描かれているが、日本映画の黄金最盛期ではスタジオシステムであった。
スタジオシステムは、今でいう会社組織のようなもので簡単に説明すると平社員はスタッフで、部長が助監督、課長が監督など一昔前の会社のようにピラミッド型となっていた。現在のように、いきなり映画監督デビューなんてあり得なかった。
上田慎一郎監督『カメラと止めるな!』みたいに口コミで大ヒットなんて超最近のお話だ。
そもそも個人で映画は制作できるものでもなかったからだ。
映画会社は松竹映画をはじめ、東宝映画、新東宝(後に倒産)、日活映画、大映映画(角川)、東映映画の6本柱で成り立っていた。これは、未だにほぼ変わらない。
(上記は、新東宝を含めた五社協定ないしは日活を含めた六社協定の意味として記しないことにする)
そこからは映画監督の巨匠・黒澤明監督をはじめ、小津安二郎監督、成瀬己喜男監督、溝口健二監督、今井正監督、三島雄三監督、新藤兼人監督、木下恵介監督(後にテレビドラマの父ともなる)らが頭角を現す事になる。





やがて、日本は高度経済成長期を迎える


しかし、映画界は違った。

戦後から高度経済成長化へと明るい日本の未来が見えてくる社会状況の中、映画界は迷宮へと突入していく。

まず、映画界の最大の敵になったのは、言うまでもない。

テレビの普及だ。

チャンバラ映画は、時代劇ドラマへと変わり、

スタジオシステムにより、日本映画を大量生産してしまったことで、映画としての価値が薄れてしまい、日本人が大好きな勧善懲悪のテレビドラマへと観客は流れて行ってしまった。

新藤兼人をはじめ、スタジオシステムを担ってきた監督や助監督、俳優らが大手映画会社から次々と独立して行き、監督主流の独立プロダクションなどが相次いで登場する。
その中には、東宝から三船プロ(三船敏郎)、日活から石原プロ(石原裕次郎)、大映から勝プロ(勝新太郎)といった大手映画会社から独立した人気スター俳優たちによるスタープロの登場も生まれた。

石原プロモーションの映画製作第一回目には、市川崑監督による『太平洋ひとりぼっち』(石原裕次郎主演)が発表。
この作品には、東宝の傘下にあった円谷特技プロダクションが独立。当時、設立間もなくして、本格的に特撮に参加する。
言うまでもないが、円谷特技プロダクションは、その3年後には『ウルトラQ』を制作し、その後のウルトラシリーズ、日本の特撮界を牽引することになる。

上記のような独立プロを支援するために、アートシアター運動を行ってきたATG(日本アートシアターギルド)は、低予算映画製作に着手し、一千万円映画を独立プロと製作費を折半して、アート系映画を次々と生み出す。

映画界は、広告料の高さなどからテレビをライバル視していたが、このテレビを最大限生かして成功したのが、当時、角川書店の社長であった角川春樹氏だ。後の角川映画の主だ。

大映株式会社の一室だった大映テレビ室は、大映株式会社の倒産直前に子会社化し、大映テレビ株式会社として、『おくさまは18歳』や山口百恵さん主演の『赤い シリーズ』など、テレビドラマ界に進出していく。

さらに、石原プロからは『黒部の太陽』を筆頭に、『西部警察 シリーズ』など、一足先にテレビ界へ進出していた木下恵介は『木下恵介アワー』などを生むなど、テレビ界をライバル視していた映画界から生まれた制作会社や監督、スター俳優たちが皮肉にもテレビドラマ界に旋風を巻き起こすことになる。

そして、映画界はというと・・・・・・。

日本映画界に衝撃を与えたのが、大映の倒産だ。

スタジオシステムは崩壊へと辿り、日活では、日活ロマンポルノ、東映では任侠映画から実録ものへ、『男はつらいよ』シリーズで松竹を背負う山田洋次監督や日本版ヌーベルバーグの登場など、それぞれの大手映画会社が新しいものを独自に開発していき、ミニシアターやオールナイト興行など新たな興行形態を追求していくが、映画への観客離れは増える一方で、崩壊への道を辿っていく。

若手の育成に力を入れ、独立プロが制作するピンク映画と一線の違いをハッキリと示し、一つの映画作品として評価される一方で、アダルトビデオの普及によって、経営難から振り絞って開発された日活ロマンポルノ製作の終了が発表された。
ついに日本最古の会社でもあった日活が、間もなく倒産となる。
幸い、ゲーム会社のナムコ(現:バンダイナムコエンターテイメント)の当時の会長兼社長の中村雅哉氏が経営支援に乗り出してくれた。
現在は、日テレが筆頭株主となり、存続している。

そして、大映も経営破綻から数年後、徳間書店により経営再建で合意し、徳間書店の子会社として、しばらくは大映映画株式会社として、再開するが、徳間書店の創業者・徳間康快氏の死去を経て、2年後の2002年11月に角川書店に売却し、株式会社角川大映映画として、再々開する。
現在は、大映の名は消えて、株式会社KADOKAWAとして映像事業他を行っている。

この頃より、映画会社の母体にある書店の中から原作した作品が生まれるなどの小説ありきの映画が確立した時代でもある、

1980年代へ突入し、のちに日本のブランドとなるスタジオが生まれる。


そんな中、自己資金で自主映画を発表する大林宣彦監督、大森一樹監督、石井岳龍監督、森田芳光監督、などが頭角を現して、自主映画からのデビューを果たし、一時は自主映画ブームとまでなった。
しかしながら当時は、当然、現在のように一人一台以上が所有する便利なスマホなどなかったし、ビデオカメラも誰しもが手軽に持っているものではなかった。
8ミリや16ミリのフィルムで制作されていた。

そんな中、大手映画会社(松竹、東宝、東映 日活 他)は映画制作から撤退して、興行及び配給へシフトするようになる。
大手映画会社が所有するスタジオは、彼らに貸すことで、新たな日本映画の日差しを見せる。

ビデオレンタルの普及により、低予算で制作を強いられてきたピンク映画(日活ロマンポルノなど)出身の映画監督がこれまた低予算作品のVシネや第3期に突入したATG(日本アート・シアター・ギルド)などの作品から若手監督として頭角を現し、のちに映画監督として、現在も大活躍している三池崇史監督(Vシネ出身)をはじめ、ベテランの大島渚監督、新藤兼人監督、今村昌平監督、市川崑監督、中島貞夫監督、東陽一監督、唐十郎氏、寺山修司氏、金子修介監督、相米慎二監督、森田芳光監督、大森一樹監督、若松孝二監督、大林宣彦監督、映画界だけでなく、演劇やドキュメンタリー出身者など多方面から登場してきた。
低予算で限られているが、監督の個性を発揮するための発表の場として用意されたATGに頼る若者は増え、今でのATG出身の監督は存在している。

そして、今や当たり前となった原作本を映画化するというスタイルを確立したのが、角川映画の登場だ。
会社の性質状、母体が出版社とあって、当然に原作ものありきの映画が生まれた。
角川映画の出版物を原作として、『セーラー服と機関銃』をはじめ、『時をかける少女』や『Wの悲劇』などをヒットさせ、女優の登竜門としても話題となった。

そして何より、日本国として、ここで外せないのが『ルパン三世 カリオストロの城』で、興行的に不成績に終わったはずの宮崎駿監督作品『風の谷のナウシカ』の公開だ。
同作をきっかけに、映画アニメーション制作を主としたスタジオジブリを設立するのだが、これが日本映画の映画アニメーションの始まりと言って過言ではない。今や日本のみならず世界のジブリブランド、日本アニメブランドでもある。
事実、日本の映画興行収入ランキングにはベスト5位(2021年夏)までアニメーション映画なのだから、その後の日本映画界は映画アニメーションに支えられていくのだ。

1990年代は、バブル期であり、バブル崩壊期でもある。

しかし、何故か映画界はバブルへと突入する。

それは、上記にも説明したがシネコンの登場、フジテレビ系列 連続ドラマ『踊る大捜査線』の映画化の成功、さらには海外の映画祭から『キッズ・リターン』の北野武監督をはじめ、『Shall we ダンス!?』の周防正行監督、『CURE』の黒沢清監督、『EUREKA』の青山真治監督ら、海外から日本映画の評価を高く受けるようになったのだ。

そして、映画はフィルム時代からデジタルカメラへと変わり、第二の自主映画ブームが到来する。
その先頭に立ったと言われるのが岩井俊二監督だ。
当時は、岩井ワールド作品が溢れかえったほどだと聞いている。
当時のネット普及により、『リリー・シュシュのすべて』(岩井俊二監督)は、ネットサイトの書き込みを原案として制作された。
今も尚、多くの映画ファンに愛され続けている作品の一つだ。

そして、上記にも登場した森田芳光監督などを輩出した『ぴあフィルムフェスティバル』をはじめ、インディーズ映画祭で、多くの映画人を輩出することになっていく。
今や日本の映画界を支える園子温監督、成島出監督、矢口史靖監督、李相日監督、内田けんじ監督、石井裕也監督、山戸結希監督などが輩出されている。

2000年代に突入すると、映画化から連ドラへ、連ドラから映画化へ!?

そう。2000年代へ突入すると、上記にも紹介した『踊る大捜査線』の第二弾が第一弾を上回る大ヒットを飛ばし、『ナースのお仕事』、『トリック』、『花より男子』、『コード・ブルー‐ドクターヘリ緊急救命‐』、『おっさんずラブ』など、GP帯放送ドラマに留まらず、深夜ドラマからも映画化はされ、これ以降も連続ドラマの映画化は止むことなく現在も、続いている。
だが、その逆もあるのだ。
当時のネット普及を駆使した『電車男』、主題歌も大ヒットした『世界の中心で愛を叫ぶ』、男子高校生によるシンクロナイズドスイミングを題材にした『ウォーターボーイズ』シリーズ、『海猿』(後に再度映画化)、『タイヨウのうた』、『一リットルの涙』、『チア☆ダンス』など映画から連続ドラマへと生まれたものもある。

また、フジテレビの映画事業は、日本最大級の映画製作集団と呼ばれているほどで、連続ドラマの映画化にあたり、メインスタッフを映画畑のスタッフに一新して試みた『ガリレオ』などがある。
その成果もあってか、現在の映画のヒット作の多くにフジテレビ関連のスタッフまたは在籍していたスタッフが多く活躍している。

これは、フジテレビ系列だけに留まらない。

今や、大手民放テレビ局が映画を制作している時代でもある。
NHKの社員であった大友啓史監督、大河ドラマ『龍馬伝』のメイン監督を務めて、退社後は『るろうに剣心』の監督で一躍、映画監督の仲間入りを果たす。

フジテレビの映画事業をはじめ、TBS、日テレなど各民放局でも映画事業に力を注いで、テレビ局出身の映画監督・西浦正記監督(フジ)、やプロデューサー濱名一哉氏(TBS)をはじめ、山口雅俊氏(フジ)、藤野良太氏(フジ)、増本淳氏(フジ) など。

さらに、テレビ局の社員でありながら映画監督となっている武内英樹監督、土井裕泰監督、福澤克雄監督 水田伸生監督 なども存在する。
これは、日本映画の黄金最盛期にあったスタジオシステムを思い起こしてしまう。

テレビ局の子会社として設立された共同テレビジョン、上記に紹介した映画監督・木下恵介氏らが設立した(当時:木下恵介プロダクション)ドリマックス・テレビジョン(現在:TBSスパークル)など大手民放テレビ局の子会社が現在のテレビドラマ、映画の制作を担っている。

そう。これこそが「日本の映画はテレビドラマ化している」の答えになるのだろう。

日本映画は、いつにテレビ放送局のものへと移り変わる。

新たな才能の始まりが待っていた!!

そして、映画は芸術(アート)の分野に留まらず、立派な事業として再認識され、映画監督のほか、役者、技術スタッフなどを育てる大学や専門学校、養成所などから次々と輩出され、一時は出身校で作品の評価が割れるほど。

女優の芦田愛菜さんをはじめ、数年前に子役ブームが到来したのも、このような養成所の子役たちの活躍でもあった。

そして、演劇界からも人気の三谷幸喜氏をはじめ、宮藤官九郎氏、三浦大輔氏、松居大悟氏、などが映画監督として、日本映画界やテレビドラマ界で活躍を見せる。

また、学ぶ場の集大成とも言える卒業制作でデビューを飾った映画監督も少なくない。
大阪芸術大学の卒業生でもある熊切和嘉監督をはじめ、山下敦弘監督、石井裕也監督、二宮健監督ら。

今や学校での卒業制作や学生の自主映画が劇場公開される世の中となっているのだ。
さらに言えば、学生が作った映画作品がDVDや有料動画配信サイトなどで販売するなど、実は映画への価値が再評価されてきているのかもしれない。




そして今、第3の自主映画ブームが到来している。




それは、以前までの自主映画とは一味、二味も違う。なんと言っても技術の向上、カメラの種類、沢山の映画作品の教材がある時代。誰しもが苦難した映画『市民ケーン』のオープニングのような撮影をいとも簡単にアプリで撮影出来てしまう時代なのだから。一人一台以上持っているスマホでさえも、大きなスクリーンに耐えるほどの技術へと進化され、免許は必要だが手軽に購入できるようになったドローンは、大きな劇場で上映する映画に必要なスケール感を演出できる機械が、貧乏学生でも手に入り、制作できるようになった時代。

そして、何よりもこれまでは、映画を作ったものの見てもらう場所が映画館という劇場でしかなかったが、今やYouTubeをはじめ動画配信サイトのほか、インディーズ映画を専門とする配信サイトなど、これまで映画会社等の制作会社に入社して、助監督から映画監督になる道、映画製作をしてコンクールに応募して受賞したり、学校の卒業制作が評価されるという道が主流だったのが、SNSでの宣伝・広報にて、さらに制作した作品を自ら配信サイトなどに公開するという、今やセルフプロデュース力が必要となってきた昨今のインディーズ映画業界。

それは、学生による自主映画に留まらず、社会人による自主映画や藤井道人監督をはじめ既に名の知れた映画監督たちが次々とインディーズ映画界で発表するようになる。

上記にも紹介した、これまで難しかった資金集めもクラウドファンディングの登場によって、日本のインディーズ映画が、成長し始めて、国内外からも注目を浴びる存在となってきている。

その象徴でもあり、インディーズ界に火をつけたのが上田慎一郎監督『カメラを止めるな!』だ。

これまで、学生の遊びや趣味として見られがちだった自主映画は、インディーズ映画としての価値を生み出し、それもSNSの普及が生んだ口コミという話題によって、彼に留まらず、多くの若いクリエイターにも夢と勇気を与えた。

今話題のTikTokアプリでの映画も制作されるなど、大きなスクリーンで上映するだけが映画という概念が薄れてきた今、この先の映画の行方、未来は決して暗いものではなさそうだ。

コロナ渦で、これまでにないほどのエンターテイメントの在り方が問われている今だからこそ、それぞれの方法で奮闘する今を生きる若いクリエイターたちが、これからの日本映画界を未来に受け継ぐために、コロナには負けてられない。

そして、日本映画界の未来を背負う若いクリエイターたちにスポットを当てて、勝手ながらにご紹介していきたいと思います。


それでは!!

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