料理と研究は似ている

2020年1月21日㈫

 火曜日の朝は研究室のミーティングは、前半に抄読会と後半に研究報告がある。抄読会とは、論文の読み合い会のこと。当番が持ち回りで英語論文を2,3枚の紙に要約してみんなに紹介してディスカッションをする。自分のことに精いっぱいで予習をしてこれなかったが、内容はなんとなく分かった。一通り図の説明がおわるとディスカッションが始まって、『これはそもそも何を目指している実験系なのか?』とひとりの先生が言った。たしかに、その論文では二種類の細胞を一緒に育ててみたらある種類の細胞が別の種類の細胞を取りかこむ構造ができる、といった内容だったが、特に生体メカニズムを解析したものでも、何かの治療法の開発ともいえなかった。研究室のボスの先生は『ただこういう現象が起きました、という内容ではあまり読む価値がない』とまで言っていた。個人的には、学位審査の質疑応答の内容と関連がある内容だったので、もう少し踏み込めば価値はありそうだと思った。

 つぎは研究の進歩状況報告で、大学院1年目の子の発表をきいた。彼は口腔領域の疾患モデルをつくっているが、さすが臨床の経験も長いおかげなのか手技や病状を誘発させる薬剤のアイディア、できあがった疾患モデルの所見などは個人的には納得できる内容だった。質疑応答がはじまり、まず小児外科の口腔領域にはぜんぜん詳しくない先生がした質問の「そもそも、この疾患はどういう機序で発生して、何をもって疾患モデルができた基準になるのか?」と鋭いツッコミをいれた。うちの研究室は歯科医師が多いにもかかわらず、クリアカットに説明できる人がいなかった。そもそもこの疾患の定義が実は臨床と基礎研究ではどうもかなり解離があるのでは、とスタート地点の危うさが浮き彫りになっていた。もうひとつ、発表者を見ていて『この現象にはどういう意味があるのか?』という考察がかなり薄いように見えた。実験で得られた所見が、ほかの先行研究と比べて近いのか遠いのか、既存のものと比べて新しいといえるのか、より抽象化すると何を実現できたのかを考察で示す必要があった。

 研究発表は料理と似ているなと思う。実験をする前に、どういう背景があってどんな仮説をたてて何を目的にするかという『仕込み』をする。実験で得られた所見はいわば『材料』で、そこに文献をひいて妥当性や意義を見出すことで厚みをだしてく感じは、味をたして『調理』する過程に値する。良い研究発表は面白い!と感じるし、良い料理は美味しい!と直感できるところもだいたい同じだ。

 もっと広げると、人生も研究も料理もエッセンスは同じのような気がする。自分は今までどういう人生を歩んだ背景があって、何を目的にしてて、自分がやったことに対してどういう意味付けをして、『楽しい!』と思えるか。なんか良いことを思いついてちょっぴり清々しい気分になった。

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