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広告行為と生活者−−−−−−−いかに広告概念を拡張するか


(人を動かすものは、威嚇から説得まで、色々とあります。そうしたスペクトルの中で、広告などのコミュニケーションは言葉で戦い、人を動かすのです。初出は、『青山経営論集』46巻3号・2011年)


目次
1. 人を動かすもの
2. 広告から広告行為へ
3. 消費者から生活者へ
4. 伝達から共振へ
5. 広告は言葉で闘う

1. 人を動かすもの


 人は2つの理由で行動を起こす。ひとつは、内発的な理由である。のどの乾きを潤す、気晴らしをする、杖をついた乗客に席を譲る、トイレットペーパーの予備を確保する、仕事仲間に連絡を取るなど、自身の欲求、他者への配慮、未来の予測、社会的な動機などから、自発的に行動する。いまひとつは、外発的な理由である。何らかの強制、示唆、説得、誘惑、あるいは何かを知ったことによって行動する。
 広告は、外からの動因として機能する。のどの乾きを潤したいという欲求は内発的であっても、どの飲料を飲むかについては、広告の影響であるかも知れない。もっともここらの事情は単純ではない。外部から人を動かすとき、最も成功している場合は、本人は自分の内発的な理由から行動していると思い込むからである。
 さて、外から人を動かすという状況には、いくつかの可能性が考えられる。ここでは、ひとまず、5つの類型にまとめておこう(図表1参照)。

 Aは暴力行為をする、または、そうした可能性を示唆することで目的を達する場合である。非合法的な脅迫または威嚇によって、他者の行動を引き出すことになる。 刑法第177条には、「暴行又は脅迫を用いて13歳以上の女子を姦淫した者は、強姦の罪とし、3年以上の有期懲役に処する。13歳未満の女子を姦淫した者も、同様とする」とある。同じく第223条においては、「生命、身体、自由、名誉若しくは財産に対し害を加える旨を告知して脅迫し、又は暴行を用いて、人に義務のないことを行わせ、又は権利の行使を妨害した者は、3年以下の懲役に処する」とあり、いわゆる「押し売り」は、購入を強要するということで、同条によって違法行為とみなされる。 
 ちなみに現実の暴力行使ではなく、畏怖を与えることで目的を達するということは、一種のコミュニケーション行為といえる。後述するように、5つの類型は、物理的強制力の強弱によって位置づけられるが、コミュニケーションの類型でもある。
 Bは国家権力のもとでの法律や命令によって、人が動く場合を指している。「正当な物理的な暴力の行使を独占する」のは国家のみであり、「国家以外のすべての団体や個人には物理的な暴力が否定されていて、こうした暴力を行使できるのは、国家が承認した場合に限られる・・」(Weber,1921=2009:11 強調を示すルビは省略)というのが、近代以降の姿である。
 権力も、暴力と同じように常時行使される必要はない。従わないときは、物理的強制力が行使されることを、受け手が予期し、認識・感知していることで十分である(宮台,1989)。
 日常生活において、権力は明確に意識されることが少ない。「自我の側に行為もしくは無行為の魅力的なさまざまな選択肢があるのに、なおかつ自己を貫徹することのできる権力こそ、強力な権力である」 (Luhman, 1975 =1986:13)といわれる通り、現代において権力は見えにくいものである。
 Cは宗教的な権威、専門家の権威などが、顕示または暗示される状況を示している。科学的な実験であるという権威を信じて、生徒役の人に電気ショックを与えていく一般人を分析したミルグラム実験は、極端な例であるが、権威の持つ力の大きさを教えてくれる(Milgram,1974=2008)。
 権威は、伝統、実践、信条、規範などを共有するところで成立する(Philp, 2009:52)。ミルグラム実験では、実験室における教師と生徒という役割構造への了解があった。父母の権威(権力という側面もあるが)は家庭という生活の場に根ざしている。ブランド品の権威の場合は、メディアを通してその商品の伝統と高品質についての共通認識が背景にある。権威は、それに従う人が価値を認めることで可能になる。ということは、権威にとっての「敵」は、軽蔑されることと笑い飛ばされることである(Arendt,1969=2002:138)。
 Dは理性的な説得、あるいは感性的・官能的な魅惑・誘惑で、人が動かされることを示す。アメリカ・マーケティング協会(AMA)による広告(advertising)の定義は、「特定の狙いを定めた市場・視聴者に対して、情報提供や説得、あるいはそのどちらかをしたいと考える企業・非営利法人・政府機関・個人が、自分たちの商品・サービス・組織・考え方についての告知や説得のメッセージを、自らが購入したマスメディアの時間またはスペースに流すこと」 (AMA,2011)となっている。
 説得は、ソクラテス以来の西欧文化において、重要な位置を占めてきた。アメリカで生まれた近代的な広告概念においても、理性的な説得が基本にあった。論理的な説明によって、消費者に商品の価値を納得してもらうことが「正しい広告」であるという考えは、私たちのなかに基調低音のように存在している。
 だが、説得の研究者は、説得は間接的な強制にすぎないともいう。説得されるためには、メッセージの背後にある脅しや約束を信じられるかどうかにかかっているからだ(Miller, 1980=2002:4)。
 鳥の求愛ダンスであれば、プロポーズを受け入れたときに、相手が約束通りに素敵な配偶者になりうるかを信じられるかどうかにかかっているので、これも説得ということになる。もっとも感性的・感覚的な状況を示す言葉としては、魅惑又は誘惑と呼んでおく方がふさわしいだろう。日本の広告作法としては、歴史的に説得よりも魅惑の技法が磨かれてきたという事情もある。
 Eは情報の報知・告知である。単に知らせるということも、人を動かす力を持っている。画期的な機能をもった新製品は、情報を流すだけでも店頭に人々が殺到する。一方、「風評」という真偽があやしい情報でも、人は動く。
 以上、5つの類型をみてきたが、それらは、便宜的なものである。その境界線はあいまいで、現実には浸透し合っている。
 例えば、現代の政治では、あからさまな権力行使よりも、何をアジェンダ(検討課題)として浮かび上がらせるか、何をアジェンダとさせないかという「アジェンダの管理」によって目的を達する場合が多い(Lukes,2005:25)。
 また、「権力の行使は、社会的な行為者がどのように行為をすべきかを導く言説による意味の構築によってもなされる」(Castells,2009:10)ようになってきた。加えて、そうした「意味の構築」は、シンボルの操作だけでなく、「『客観的』に表現した数量的データ」(正村,2008:50)を活用することでも行われている。
 と、ここまで見てくると、「アジェンダの管理」「意味の構築」「数量データの活用」など、すべてコミュニケーションの専門家が得意とするところであることに気づく。すでにジャーナリズムは、ひとつの権力として機能しているのである。
 広告は、ジャーナリズムよりも戦略的に商品や企業を巡って、世間に注目させる側面と、関心を呼ばないようにする側面を管理している。メタファーを使いこなしながら、物語を語り、意味を紡ぎ出していくことにも長けている。時には、アンケート調査を上手に活用して、自分の主張を語ることもある。広告は、ジャーナリズムと同様に現代における権力としても機能しているといえよう。
 一般的に広告は人を動かす5つの類型のC・D・Eに該当する。説得・魅惑、報知・告知の積み重ねの中で、時には、権威の形成をめざすこともある。高級ブランドの広告は、Cの類型にあてはまる。コピーで諄々と説得する広告や魅力的な写真で気を引く広告は、Dであり、商品の製造中止を伝える広告は、Eに含まれる。C・Dは、明確に戦略的な意図がコミュニケーションの背景に存在する。Eについても、報知・告知をするかしないかという選択肢があるなかで、その情報を報知・告知をすることにした点では、戦略的な意思決定がなされている。
 以上、人を動かすものの類型の中で、広告は、基本的にC・D・Eとして機能する。同時に法律や命令という形は取らなくても、現実的にBの権力的組織と同様の働きをしている点も銘記すべきであろう。

2. 広告から広告行為へ


 
 広告は、通常、経済システムのひとつの機能である販売促進機能を担うものとして理解されてきた。前章では、そうした従来の枠組みを超えて、「人を動かすもの」という形で、政治システム、社会システムの機能という視点から了解する試みもした。こうした広告の概念拡張の可能性について、いましばらく考えてみよう。
 その考察は、「広告は売る行為とコミュニケーション行為の混合物である」(小林,2000:6)という前提を置くことから始まる。そして、広告が、「売る」と「伝える」のはざまに成り立つならば、「広告研究とは、人間行動をマーケティング(市場におけるモノ、サービスと環境の関係を解釈する学)とコミュニケーション(人間と対象との感情交流を解釈する学)を用いて総合的に理解することである」(小林,2010:179)ということになる。
 いいかえれば、マーケティングとコミュニケーションのどちらの視点に依拠するかによって、広告のありようは異なって見えてくる。広告関連の書籍を求めて書店に赴くときを考えてみよう。私たちは、経済に関係したマーケティングの棚をのぞく。加えて、社会・文化系の書棚を見て歩く。本来的に、広告という現象は、経済・社会・文化の境界領域に存在するといえる。
 実務に携わる広告会社のスタッフを見ていると、興味深いことに気がつく。マーケティング部門においては、「売る」という視点から書かれた専門書・雑誌を読んでいる人が大半である。一方、コピーライター、CMディレクター、アートディレーターの集まる制作部門では、「伝える」という視点で分析された文化関連の本、小説、DVDなどの表現物からヒントを得ようとしていることが多い。
 だが、最近では事情が変わってきた。例えば、マーケティングに携わるスタッフが、各種のソーシャルメディアにおける人々のつぶやきに関心を抱いている。「売る」を前提とした市場調査の手法開発に専念するのではなく、「伝える」の実態であるコミュニケーション回路の読解に時間を割くようになったのである。
 先述のアメリカ・マーケティング協会の定義においては、広告は、「自らが購入したマスメディアの時間またはスペースに流すこと」となっている。現実には、企業の自社ウェブサイト、そして各種のソーシャルメディアの果たす役割も高まってきた。マスメディアについても、広告だけでなく、報道・PRの影響度を勘案するようになった。
 いまや、広告的な情報は、有料で購入したメディア、報道・PRの動き、ウェブサイトや自主イベントなど広告主が所有するメディア、人々が勝手に語り伝えてくれるメディアという多層的な流れの中で受け手側に到達する。いや、受け手も参加した循環運動というべきだろう。
広告という概念をもう少し大きくとらえるべき時代なのだろう。それは、マスメディアを活用した20世紀マーケティングにおいて、定位置に行儀良く収まっていた広告を、再び、かつてのような荒々しいコミュニケーションの大平原に解き放つという「復古」の動きなのかもしれない。
 「広告の根源機能は、自己の考えをいかに伝えるか、人と人がいかに訴え合うか、自分をどういうふうに見せていくかというコミュニケーション行為につきる」(小林,2010:195)とするならば、広告は、広告行為という動的な様態で再定義される方が分析の視野を拡大するためにも、実務の有用性を高める上でも望ましい。
 小林(2004:12;2010:195)によれば、広告行為は、「経済的訴求(IMC=統合マーケティング・コミュニケーション)」と「非経済的訴求(宣伝=プロパガンダ)」に大別される。「経済的訴求」は、「販売訴求(マーケティング・コミュニケーション)」と「全経営的訴求(PR)」に分かれる。「販売訴求」は、「集団的販売訴求(マス広告・アメリカでいわれる広告)」と「個別的販売訴求(人・メディアを通した個人への訴求)」から構成されている。一方、「全経営的訴求」は、「外部意向形成(世論形成・パブリシティ)」と「内部意向形成(士気形成・社内報などのインナーコミュニケーション)」で構成される。
 このように広告行為は、マス広告、個別的販売訴求、パブリシティ、インナーコミュニケーションなどを含む「経済的訴求」と、「非経済的訴求」である宣伝(プロパガンダ)から成り立つことになる。
 佐藤(2003:13)は、広告を「市場原理(利害=損得)に基づく経済的活動」であるとし、宣伝(=プロパガンダ)を「共同体原理(善悪=友敵)に基づく政治的活動」と位置づけた。それぞれ社会と国家の領域であり、「その重複領域として公共圏が想定できる」として、「広報(PR)とは公共圏で生み出される公論[輿論→世論]の制御を目的としている」と述べている。
 政治的色彩の濃いプロパガンダの世界を忌避し、広告を市場まわりの活動として限定し続けるか。あるいは、ダイナミックなコミュニケーション活動として、一時期タブーともみなされたプロパガンダ概念も見直しながら、広告を再定義するか。この2つの選択肢において、広告行為という考え方は、後者に立っている。
 広告行為という幅広い視点からすれば、企業の社会的責任(CSR)やフィランソロピーも価値自由なものではない。企業による「共同体原理(善悪=友敵)に基づく政治的活動」の側面を持ち、また、市場と共同体の重複領域における公共圏への影響を期待した行動といえる。それは決して、企業の社会的活動を貶めるものではなく、現実を冷静に理解する上で役立つはずである。
 「世の中の一般大衆(マス)が、どのような習慣を持ち、どのような意見を持つべきかといった事柄を、相手にそれと意識されずに知性的にコントロールすること−−­­は、民主主義を前提にする社会において非常に重要である」(Bernays,1928 = 2010:32)というPRの創始者の素直すぎる言葉の含意を、私たちはその苦さも含めて味わうべきだろう。
 「・・宣伝、PR、広告など、受け手の立場から見た時に、企業側から発信する『売り込みの行為』と取れるものはすべて『広告』なのである」(小林,2000:5)という指摘の通り、人々は、すでにこうした事情に通じているのかも知れない。受け手側は、「このキャンペーンによって、企業は、『相手にそれと意識されずに (?) 知性的にコントロール』しようとしているな」ということを見抜くだけのメディアリテラシーをすでに有していると認識すべきだろう。
 広告行為という概念が、マーケティング的に狭く定義された広告概念よりも有効であるという理由は、それが受け手側の現実の理解に近いというリアリズムにもとづくからなのである。

3.消費者から生活者へ



 広告から広告行為へと視野を広げてきた。ということは、ここで、受け手の概念も拡張するのがふさわしいだろう。
 例えば、すでに半世紀以上前、「消費者を単に生産者の対極とみるのでなく“生きている人間”としてとらえることはできないか」(大熊,1963:7)と問いかけた経済学者がいた。
 大熊は、「“消費者”といえば、もちろん商品の消費者のこと。それは人間中心でなしに、商品中心にものを考える近代の経済学の発明である」として、「商品中心にものを考え、みずから“消費者”をもって任ずるというのは、人間精神の錯倒である。“生活者”が“消費者”にとってかわった日。それこそ人間が、経済というものの主人公につく日であろう」(大熊,1963:7)と断じた。
 大熊によれば、私たちは、労働において物を生産するように、物の消費によって自己を再生産している。従って、「生活者とは、自己生産者である」(大熊,1963:8)ということになる。
ちなみに生活者という言葉そのものは、20世紀の初頭から存在するようだ。「小説家は生活者であれ」と説いた哲学者は、「随って直ちに正しい社会生活に向っての憧憬を持ち、勇敢に現代の社会生活を改造する熱望を抱いて進むものでなければならぬ」(土田,1926:37)と生活者の心得を説いている。
 さて、大熊の論文を自社のPR誌に掲載した博報堂は、1981年、生活者発想を実践するために博報堂生活総合研究所を設立するに至る。ちょうどイギリスにおいて盛んであったアカウントプランニングの考え方がアメリカに導入された時期に該当する(O’Malley,1999:44)。
 アカウントプランニングでは、大量サンプルに対する定量的な調査分析よりも、定性的な洞察という形で対象に迫っていくことを得意とするが、生活者発想も同様の立ち位置である。
 いうまでもなく、定量調査の有用性を否定するものではない。ただ、独立変数と従属変数を設定してその関係性を見ていくという「変数志向の分析は、そこから出てくる発見されたものが、どの程度の範囲と文脈においてのみ当てはまるのかということをきちっと明らかにすることが少ない」(Smith,2010:281)というのも事実である。
 狭い分野に限定された概念設定のもとに数量的な解析がなされた場合、その結果は他の分野を捨象した上で成り立っているのだという認識をしっかりと持っていればいいのだが、往々にして、その結果を安易に全体に拡大してしまう。
 定量調査を行うにしても、全体社会のサブシステムである経済システムの行為者としての生産者vs.消費者という軸だけではなく、社会システムにおける市民・家族・個人、あるいは政治システムにおける有権者・国民・自治体住民など、調査対象者のありかたをホーリスティックにとらえた上で実施する方が、結果から読み取れるものは豊かになる。とくに時代のパラダイム自体が激変しているときには、概念の投網を大きく打つ方が予測力は高まる。
 広告会社は、広告主別に、例えば、自動車メーカー相手であれば、車種別のユーザー・購入者の分析を行っている。競合車種のユーザー・購入者、あるいは潜在顧客についても比較検討をする。しかし、自動車・ファッション・飲料の購入パターンについて横断的な解析を行うといったことは少ない。ましてや、自動車文明それ自体が嫌いだといった少数派を省みることはほとんどない。
 経済システム内の他ジャンル比較、社会システムなど他のシステムにおける人間存在も含めて、全体的に見ていこうというのが生活者発想である。定量調査においても、対象を切り取る側面を狭いものにしないためにも、定性調査によって対象と直接に向き合って、対話することが有益である。
 調査対象者、つまり、現実の人々は、学問別に縦割りとなって存在するわけではない。全体的な人間存在としてそこにいる。それを洞察する中でこそ、定量調査における概念も狭隘さを免れることができる。
 こうして現実世界の横の境界を越えた分析をするということは、意識と無意識という内面世界の「縦の境界」も越えて洞察を行うことにつながる(詳細については関沢,2010を参照)。
 生活者発想を導入した背景には、高度に専門特化が進む広告会社スタッフに対して、彼らが生産者サイドの知的専門職であると同時に、消費者であり、週末の趣味人であり、地域住民であり、あるいは、父であり、母であり、息子であり、娘であるといった全体的な人間存在であることを忘れさせないためでもあった。
 荘子内篇・応帝王篇には、混沌の話が出てくる。南海の帝と北海の帝が、中央の帝である混沌を訪ねる。手厚くもてなされたので、南海の帝と北海の帝は、お礼をしようと思った。人は誰でも目、耳、口、鼻の7つの穴があって、見る、聴く、食べる、息をするのに、混沌には穴が一つもない。そこで、二人の帝は、混沌に毎日、ひとつずつ穴を開けていく。すると、混沌は7日目に死んでしまったという寓話である(荘子, 1971:235 )。すべてを部分に分解した上で分析をする要素還元主義が、生き生きとした対象を殺してしまうことがあることを示唆している。
 生活者発想とは、ホーリスティックな存在として「整理しきれない混沌」と真摯につきあわない限り、創造的な企画は出ない、という危機感でもあった。近代的マーケティングの枠組みを超えて、広い視野を持とうとする点では、アカウントプラニングと生活者発想は共通している。同時期に登場した東西の新しい潮流は、ポストモダニズムの興隆と軌を一にしていたのである。
 生活者発想は、誕生当時の1980年代には、多様化が進む人々を理解するには、生活者という形でもっと全体的に「こだわり」「価値観」「ライフスタイル」を理解し、その差異を見ていかないといけないという目的意識に支えられていた。
 1990年代に入り、バブル経済が崩壊すると、小さな差異を吹き飛ばすような経済的な大波によって、人々は翻弄されるようになる。消費者意識を越えた、市民・住民・有権者・国民としての生活者意識を把握することが、販売現場の動向を見ていくのにも必要になったのである。
 2000年代には、インターネット、ソーシャルメディアの発達など、情報の受け手が主導権を握る中で、人々の相互作用がどのようにネットワークとして影響を与えていくかといった視点が求められ、生活者発想は新たな展開を見せる。また、市場のグローバル化によって、各国の人々の日常を比較検討しながら、生活の変貌を予測する必要も出てきた。消費者行動の前提となる文化の解析が求められるからである。
 ところで、今般の東日本大震災は、人々を消費者として理解するだけでなく、生活者としてホーリスティックに把握する必要性を再認識させた。
 例えば、震災後の意識変化は、マーケティング調査よりも、生活者の個人的な思い、社会意識などについても質問した時系列調査の方が明確にとらえられる。「生活定点調査」によって、その変化の方向性を確認しておこう (博報堂生活総合研究所「生活定点調査」首都圏・阪神圏・名古屋圏。20歳から69歳。2006年3974人、2008年4072人、2010年4094人、2011年2355人 調査時期は5月。2011年のみ5月から6月)。
 震災は、首都圏のみならず、阪神圏・名古屋圏の人にも多様な影響を与えたが、「幸せな方である」「生活は楽しい」など、生活を肯定する基盤となる意識は、前年と変わらなかった。生活者の平衡感覚はしたたかであることがわかる。
 もちろん、「世の中において、悲しいことが多い」と思う人の率は、急上昇した。一方、「世の中において、いやなこと・腹の立つことが多い」は低下した。ちなみに別の調査でも、人々が感じるものとして「じーん」「しみじみ」といった言葉で表現できる感情が前年に比べて、2011年に大幅に増えている(博報堂生活総合研究所調べ。全国6000人。20歳から59歳。調査期間は5月)。大災害にも、怒らずに悲しむ。これは国民性というべきなのか。短期的なマーケティング調査を超えるテーマがここにある。
 震災が、人々を強靱にした側面も見て取れる。様々な被害と混乱を乗り越えたことで、人々の自分への自信度が高まった。自分の判断が他者と意見が異なった場合も、安易に同調する傾向が下がっている。自立性を示す「シングル度」も高まった。現実に向かい合おうとする前向きの姿勢が、「健康に不安がある」「ストレスを感じる」という人の率を低下させた。
 興味深いことは、「夫婦でも、お金の貸し借りはきちんとする方がよいと思う」「夫婦は別の姓を名のってもかまわないと思う」と回答した人の率は、前年まで減少傾向だったが、二〇一一年に反転した点である。ちなみに、「夫婦はどんなことがあっても離婚しない方がいいと思う」の率も減り続けている。
 震災という危機的な出来事をへて、妻が自立度を高めたようである。それは、「昔に比べて妻に対する夫の力は弱まったと思う」と考える率が男女ともに一層高まり、とくに女性において上昇の度合いが高いことに表れている。
 調査では、「日本人は、国や社会のことにもっと目を向けるべきだと思う」「社会全体のためには不便なこともガマンできると思う」と回答した人の率が高まり、人々が社会的な視野を持つようになったことも示されている。これは、震災後に各方面で報告された事実と合致する。ただし、こうした流れは、先に見たように単純に人々が寄りかかり合うという図式とは異なる。個として自立しながら、家族や他者と連携していこうという志向である。 
 これからのエネルギー政策をどうするのか、政治と国民、中央と地方の関係など旧来のこの国のありようをどのように変えていくのか、新しい夢・希望をどこに見いだすかなど、経済システムにおける消費者という枠を越えた生活者全体の価値観の変容を見すえていかない限り、直近の企画も、将来の予測もできなくなったといえよう。

4.伝達から共振へ



 マスメディアを活用した有料広告という概念から、PRや宣伝(プロパガンダ)も包含した広告行為へと視野を広げることは、情報が到達する相手側についても、消費者から生活者へと多面的に見ていくことを要請する。いうまでもなく、そこではすでに触れたようにメディアの変貌も大きな役割を果たしている。
 1950年代の半ばから現在に至るまで、メディア別広告費について前年を100としたときに、翌年、どの程度伸びてきたかを図表化すると、テレビとインターネットの出現期に巨大な山が2つできる(図表2 電通調べ)。

 1956年から1973年までの経済成長率(実質GDP・暦年)平均は約9%であったが、その勢いを支えたのは、テレビである。そして、1974年から1990年までの経済成長率は平均約4%となるが、この期間は各メディアの伸び率が低かった。だが、雑誌を代表としてメディアの細分化・成熟化が進行した時期でもある。
そして、1991年から2010年までは、経済成長率は、平均約1%の伸びに止まっているが、広告メディアとしてインターネットが著しい急成長を遂げた時期でもあった。
 インターネット広告費は、ラジオ、雑誌、新聞を抜いて、テレビに次ぐ地位を占めるに至った。これは、一方向的な伝達のメディアから、双方向性をもったメディアへの移行を意味している。とくに2000年代半ばになると、SNSなどのソーシャルメディアが力を持つに至る。
 インターネットは、ポータルサイトのバナー広告の場合は、「自らが購入したマスメディアの時間またはスペースに流すこと」 (AMA,2011)という従来の広告概念に収まる。だが、企業が持つウェブサイトは、自社媒体であり、媒体料は発生しない。しかも、いまやマスメディアといえるほどのアクセス数を誇る企業ウェブサイトが珍しくなくなった。加えて、社内情報がすべて収蔵されるアーカイブとしてのウェブサイトは、その情報整理の仕方自体が、企業の見え方を左右する。有料媒体を購入した場合を広告と理解するよりも、コーポレートコミュニケーションとしての広告行為という概念の方が有効であるといえよう。
 昔から、人々が興味を抱いたことは、クチコミで広がっていった。いま、彼らは、多様なソーシャルメディアを持っている。特定少数の知人・友人とのおしゃべりではなく、不特定多数の人々の間で、情報の渦が広がっていく時代となった。
 生活者・企業・メディアの関係において、もっとも大切なことは、商品・サービス、または企業のあり方、生活者の関心事などを巡って、独創性に富んだコンテンツ(物語・文脈)をつくり出すことであろう。
 そうしたコンテンツを、自社媒体、広告媒体で展開する。そうすれば、ソーシャルメディアで、増殖をしていく。あるいは、興味深いコンテンツを動画サイトなどに載せれば、話題となって、世界中に広まるだろう。その事実自体をマス広告として展開することも可能だ。人々が関心を持ち、ネット上のおしゃべりをしていくことで、情報の渦は螺旋状に高まっていく。その結果、報道機関も動くことで、ニュースにもなる。こうしてフローの情報が蓄積していくことで、商品や企業ブランドというストックの情報も更新されていく。
 インターネットの発達と浸透によって、伝達をする広告から、文脈が共有され、共振していく広告行為といったものへと変化はより促されることになる。

6.広告は言葉で戦う

 

 広告とその受け手について視野角を拡大する方向で見てきたが、最後に商品購入の現場に接写することで見えてくるものをまとめておきたい。
 例えば、いま、コンビニエンスストアに出かけると、そこには3000品目の商品がある。デパートに足を伸ばせば、100万品目に出会える。私たちは、店舗に赴いたときは、商品そのものの絵柄、手触り、重さ、パッケージの印象、内容物の表示などを手かがりにして、商品を選ぶ。
 「事物との関係において直接知覚される自己」(本多,2005:23)としてエコロジカルセルフの概念がある。ということは、店舗の商品棚を前にして、さまざまな自己の可能性に出会っていることになる。私たちの日常は、商品というアフォーダンス(Gibson,1979=1985)から逆照射されることで瞬間ごとに、そのアイデンティティが彫り込まれていく。まさに「エコロジカルセルフは、環境の中のそこかしこに存在する」(Neisser,1993:18)のである。
 商品をめぐる広告は、第一義的に、その商品が与えてくれるアフォーダンスを示唆することで、商品の購入者が獲得しうるエコロジカルセルフの可能性を教える。と同時に、その商品を購入し、使用することによって、周辺の他者との関係性がどのように変わるのか、あるいは変わらないのかというインターパーソナルセルフのありうる像を提示する。 
 消費者が広告に触れることは、商品という事物によるアフォーダンスと、他者という社会的なアフォーダンスの双方を探り当てるきっかけとなる。ある商品を買い求める行為は、欲求を満たし、日常生活の利便性を向上させる。加えて、自分を取り囲むモノとヒトのアフォーダンスを感知しながら、自己のありようを確かめ、構築し続けることである
 広告は、商品の物性的な特性を伝えて、その商品がアフォードするエコロジカルセルフのありようを伝えると同時に、商品の象徴的な意味を描くことで、社会的な存在としてのインターパーソナルセルフに及ぼす影響についても語る。
 このようにして、広告は、それに接触する者に対して可能でありうる「自己像」を示す場として機能している。いうまでもなく、広告のきわだった特性は、つねに他の商品と競合しつつ、差異を主張しながら、エコロジカルセルフとインターパーソナルセルフの想定される像を提示し続けるところにある。
 こうした熾烈なせめぎあいを勝ち抜くための力となるものは、言葉である。1100年以上前、詞華集の編纂者は言葉の力を次のように説いた。

 「やまと歌は人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。世の中にある人、こと わざ繁きものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひいだせるなり・・生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女のなかをもやはらげ、猛きもののふの心をもなぐさむるは歌なり」(紀貫之『古今和歌集 仮名序』)。

 国家的なアンソロジーの序文を、隣国から拝借した文字ではなく、「国産の文字」でも書き記そうとしたことは、まさに戦略的な広告行為といえる。コミュニケーション戦略の先駆者ともいえる紀貫之の言葉は、現代の広告(あるいは広告行為)にもそのまま該当する。試みにここで、歌を広告と読み替えてみるのも無謀ではあるまい。
 広告は、生活者の心を発想の源にして、いろいろな言葉として表現されたものである。世の中の人々は、日常生活において何かと大変なので、心に思ったことを、見るものや聞くことにつけて発言し、つぶやいている・・生きているものは、誰もが広告行為をしているのだ。広告というものは、物理的な強制力を使わずに世界を動かし、目にも見えない精神世界を感動させ、男女の仲をより親しくし、猛々しい戦いのの中にある人々の心をも和ませるのである。
 広告を理解するときには、二つの道がありうる。ひとつは、現代の市場経済のなかで、精緻なモデル化を積み重ね、検証していくこと。いまひとつは、数千年にわたって、人々が繰り返してきた、暴力行為、権力行為、権威行為と並ぶコミュニケーション行為として歴史的な視野の中でとらえ直すことである。こうした激動の時期、人は暴力行使の代わりに何とか言葉で戦う存在でありたいと願ってきたのだという長い歴史を思い起こし、新しいパラダイムの構築に努めることにも意味があるだろう。

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関沢英彦(2010)「生活者の読み方 広告の受け手を理解する」日経広告研究所編『2011 基礎から学べる広告の総合講座』日経広告研究所
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土田杏村(1926)『文学論』第一書房
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