見出し画像

花のかげ~第3章 彷徨(1)

一.デイサービスの開始

 五月も下旬になると、コロナウィルスの感染者数が減ってきたこともあり、緊急事態宣言が解除されることが発表されると同時に、私にも喧騒が戻ってきた。今年から学校では第一学年の副主任となっており、遅ればせながら新入生を迎え入れる準備をしなければならなかった。本来なら四月に入学するはずの生徒が二か月遅れで入学してくることになる。オンライン授業も二か月で千本を超える動画がアップロードされ、オンライン授業をやっているのかと問われても決して恥ずかしくないくらいのことは言える程度のことがなんとかできていた。これが今度は通常に戻るとはいえ、感染防止策を徹底しなければならず、かつ分散登校での対応も迫られ、学校は上へ下への大騒ぎとなった。今まで経験したことのない状況に誰もが戸惑い、誰もがイライラを募らせていた。管理職の指示の遅さに不満をもらし、自分の考えが正しいと信じて疑わないものは、出される指示に異を唱え、異を唱えることが判断を遅らせることがあることを認識せずにさらに不満をもらし、本来ならポジティブに物事を進めようとするエネルギーが一瞬でネガティブな感情を掻き立てるものに転換されてしまう危うさの中で新入生を迎えなければならない状態になっていた。「分散登校」と簡単に報じられるが、対応する方は大変である。教室をも分散させ、午前と午後に分けて登校させるわけだから、午前と午後の二回消毒作業を余儀なくされた。
 そんな中で新入生に対応しつつ、帰宅しては母の様子に気をつけなければならない、そういう生活になっていったため、それがいつまで続くのか先が見えない中で私も妻もあえてその時その時に集中することだけを考えるようにした。
 放射線治療は最初の二クールまではよかった。だが三クール目になって母の認知状態は一気に悪化したと言ってもいい。放射線治療によって認知面の問題が出ることは言われていた。確かに放射線によって正常な細胞までも潰してしまうことは素人の私にでもよくわかるし、それによって認知面の問題が出るのはやむを得ないとわかってはいた。だが最初の二クールでそれほど大きな問題が出ていなかったこともあり、少し安心しかけたところに三クール目での変化が襲ってきた。虚を突かれた感じになったことは確かである。
 三クール目の退院時は私が仕事だったこともあって、妻と息子の二人で病院に迎えに行った。私が帰宅すると母はいつもの表情を見せてソファーに座っていた。様子はあまり変わっていなかったし、言動もおかしなところはあまり見られなかったことに少し安心はしたのだが、安心しきってしまうとまた次の変化がやってきた時の動揺が激しくなる。あまり安心はできない、と思いながらも少し安堵した。
 次の展開としては、日中の母の居場所である。妻もリモート・ワークになっているとはいえ、家で仕事をするわけだし、その内容はむしろリモート・ワークではない時と比べて格段に複雑さを増し、かけなければならない労力も増えていた。殊に労力に関しては倍増といってもいいだろう。いくらリモート・ワークになっているとはいえ、家に母を置いておくと仕事に支障をきたすことは目に見えていた。そのため、私と妻はケアマネージャーの嶋田さんを通してデイサービスを探していた。
 デイサービスに行くことについては、母の同意は得ていた。このような件に関して私は母に対して回りくどくものを言わないようにしていた。と言うのも、少しでも理解ができるうちにはっきり言っておかないといけないと後々問題が生じると考えていたからだ。そのため、介護に関しても当面はデイサービスを利用し、自分たちの手に負えないと判断したら老人健康保健施設に行ってもらうことことになるということは事前に言ってあった。母は「それは当然だ」と理解を示していたし、かねてから「認知症はいやだ」「あんたたちに迷惑はかけなくない」というのが口癖のようになっていたため、そこでごねるようなことはなかった。
 そのため、デイサービスに行ってもらうということに関しても、母は嫌がることはまったくなかった。もっとも心の内はわからない。いよいよ自分もそういう段階にきたのかと思っていたのかもしれない。そのせいか、「迷惑かけるねぇ」ということはことあるごとに口にしていた。ただ、「迷惑をかけないようにどうすればいいか」ということに関してはあまり頭が働かないようだった。
 放射線治療が終わってから少しして、いよいよデイサービスに行くことになった。迎えに来た「所長」と言われる男性は、にこやかに私たちに接してくる人だった。老人介護施設の人たちというのはこうもにこやかな顔をするものかと思ったのだが、母もそれには少し安心したようだ。とはいえ、この所長とはその後いろいろ起こることになる。
 迎えに来た車には、母以外にもう一人乗車していた。この人が東金さんといって、その後母のお友達の一人になる人だった。東金さんも認知症であり、いろいろと喧嘩もするようになるのだが、まずは滑り出しとしては順調のように見えた。
 帰宅すると、「みんな優しかったよ」と言って笑顔を見せたため、私も妻も少し安心した。ただ、施設でかかっている映画は『トラック野郎』という、母の好みとはまったく違うものだった。母は古い洋画を好んでいたため、どうもそれが受け入れがたいものがあった。
 加えてその後私たちを悩ますものの一つに「塗り絵」があった。
「塗り絵が嫌いなんだよね」
と母は言う。確かに塗り絵といっても子どもがやるような塗り絵をいきなりやれと言われてもなかなか難しいことはわかる。ただ、みんな一所懸命にやっているところで母だけやらないというのもどうかというところがあった。塗り絵にも意味がないわけではない。色使いはもちろんのこと、線からはみ出さないように塗れるかどうかはリハビリにとって重要な要素の一つだったのだ。だがいやなものはいやなようで、塗り絵は結局ほとんどしなかったのではないか。
 デイサービスでは塗り絵しかなかったわけではない。母のかつての趣味の一つに編み物があったのだが、「指編み」という簡単な編み物をデイサービスで取り組んだことがあった時、それは母にとっては真価を発揮することの一つであったはずなのだが、
「簡単すぎてねぇ。褒められたけどさ。」
とは言っていたのだが、実際に編まれたものはそれはひどいものだった。私と妻は顔を見合わせて目だけで会話せざるをえなかった。そして毛糸を使って何かしようとするたびに、毛糸が絡まってそれをほどくのに私と妻と息子が三人がかりになるということが何度か繰り返された。母も手を出そうとするのだが、かえって事態は悪くなる一方だった。私たちの口数が減ってきていると何かを察したのか手出しをしないようになったが、それでも母が「毛糸はどこだっけ」と口にするたびに私と妻には緊張が走るようになった。その後も、
「毛糸を送ってもらおうかと思ってね」
と言った時も、その後の展開を考えると憂鬱でしかなかった。左手は動くことは動くのだが、とにかく動きが鈍い。左の指、特に親指と人差し指は意識すれば動くのだが、動きは非常に緩慢であった。加えて左手全体がどんどん下に下がる。結果として右手だけで毛糸を扱うのだが、自分では両手をつかってやっているつもりなのだろう。だから毛糸が絡まる。その繰り返しなのだ。だがあまり言うとへそを曲げることもあるので、極力言わないようにしながら、毛糸から意識をそらせるようにするしかなかった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?