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花のかげ~終章(1)

一.ふくやま病院への道のり

 母が大学病院に緊急入院してから十日ほど経った。その間、母はHCUからいつもの一般病棟に移されていて、妻が一度母の着替えをもって病棟を訪れた際は前回と同様にナースステーションの隣の部屋に入っているのが遠くに見えたということである。その時に看護師に聞いたところでは、食事はとれているもののもはや固形食ではないこと、水分補給も誤嚥を防ぐために水にとろみをつけさせていることなどが説明された。遠くに見える母の様子に変化は認められなかったというが、もはや母はベッドから一人で起き上がれる状態にはなく、表情の変化もほとんどなくなっていたという。
 そして十九日。その日は快晴で、雨でなくてよかったと安堵した。九時には病院を出るということで、私も妻も八時半には病院に着いていた。
 病棟に行くと、すぐに母のいる病室へと通された。寝た状態の母はすでに着替えが済んでおり、あとは介護タクシーに乗せるためのリクライニングチェアーに移動させるだけになっていた。
「お母さん」
と私が呼び掛けると、母は少し戸惑った様子を見せた後、ようやく私のことがわかったようだった。
「なんだい、私、我が息子の顔が一瞬誰だかわからなかったよ」
と言った。十日ほどで息子の顔も怪しくなっていたのだろうか。十日も離れていればそれも致し方ないくらいになっていたのだろうか。
「どこかに行くのかい? 施設かい?」
というので、
「転院するよ」
というと、
「ちょっとやめてよ」
と母は眉間にしわを寄せて言った。私が困ったような表情を見せると、
「施設なんか行きたくない」
と言ったので、母はデイサービスかなにかと勘違いしていることが分かった。
「病院を移るんだよ」
というと、「あぁ、よかった」と言って安堵の表情を見せた。
 転院の手続きや片付けなどをしているときに、今川医師がやってきた。いずれ挨拶に行かなければならないと思ってはいたのだが、まさか自らが来てくれるとは予想していなかった。
 今川医師の表情はいつもと違っていた。
「アバスチンや癲癇の薬を入れてみたんですが、どうにも(状態が)上がってこないんですよ」
と、いつもの豪放磊落な表情とは打って変わって自信のなさそうな表情で言った。こんな表情を今川医師が見せたことはこれまで一度もなかった。これで大学病院としてはもう打つ手がないということは明らかだった。
「あとどのくらい生きられるでしょうか」
と私は聞いてみた。秋本さんが以前主治医に余命を聞いてみた方がいいと言っていたわけだが、一度聞いた時には今川医師は「わかりません」とはっきりと言い切っていたので、それ以上は聞いてこなかったのである。
 だがこの時は違った。
「私たち(脳外科医)からすると、だいたい二カ月以内にドンと再発するとみています。だいたいがそうですね。再発したと聞くと、『あぁ、やっぱり』となることが多いんです」
とはっきり「二カ月」という期間を言ってきた。だがこの「二カ月」というのも、再発までの期間なのか、それとも母の命が尽きるまでの期間なのか、この時ははっきりしなかったし、聞いてもそれは詮無いことだろうという思いがあった。
「癲癇の薬を入れることで状態が良くなることもあるんですけど、正直言ってほとんど変化はなかったです。そうなると、がん細胞がマグマのように下で徐々に力を溜めているような感じであるとしか予想できないんですよね」
そういって今川医師は「力及ばず、申しわけない」と頭を下げた。
 今川医師のような医師をどう思うかは人それぞれだろう。だが私は根拠はないものの今川医師の腕は確かだと思っている。外科医特有の気質というものもあり、優しく患者と対話しながら治療を進めていくような感じではないが、入院中の母の様子を毎日見に行っては豪快に笑いながら励ますことも多く、母は「今川先生は怖い」とは言っていたが、信頼はしていたようだった。やれるだけのことはやってくれたと感謝している。しかも転院の時にきちんと自分から足を運んでくれたことに、申しわけない思いすらあった。
「ここまでやっていただいて、感謝の気持ちしかございません」
と、私は深々と頭を下げた。
 いつもなら今川医師は母に何かしら声をかけるのだが、この日は母の様子をちらりと見ただけで声をかけることはしなかった。母の目にも今川医師の姿はまったく映っていないようだった。
 その後、介護タクシーの女性運転手が来て、数人がかりでリクライニングシートに母を移した。そしてデイルームという面会室まで移動させたが、その途中でナースステーションの前を通った際、付き添う看護師が
「ご退院です」
とナースステーションの人たちに向かって言った。だが状態を知る看護師たちは、退院おめでとうということはなく、表情を変えずにただ黙って頭を下げるだけであった。私もあまり表情を変えずに「お世話になりました」と頭を下げてデイルームへと向かった。
 デイルームにいる際、介護タクシーに同乗できるのは一人であると言われたため、私は妻に車でふくやま病院まで先に行っていてほしいと言うと、妻もそれを承諾して母に「またあとでね」と言って病棟を後にした。
 私が母の隣にしゃがんで母の手を握ると、
「あんたも大変だねぇ、仕事あるのにねぇ」
と私の方を見ずに言った。私がいるのはわかっているものの、視界に私の姿が入っていないのだろう。母は右の方に向かって真横を向いたままだった。時折右手で太もものあたりを軽くリズムをとるようにタップしていた。母の頭の中には何かクラシックの旋律でも流れていたのだろうか。
 母は次に行く病院のことをまったく聞いてこなかったので、私もどういう病院に行くのかについてはあえて話さないでいた。時折、「今日は寒いの?」とか「あんた仕事は?」とか聞いてくるので、それに答えるにとどめていた。
 だがいつまで待ってもなかなか移動の許可が出ない。そこに看護師がやってきて、
「現在看護学校の実習生にコロナの陽性が出まして、現在接触状況を確認中なのと、先方の病院に受け入れ可能か確認中です。もうしばらくお待ちください」
と言うので、にわかに緊張が走った。私はあわてて妻に状況をメールし、どこまで行っているかわからないがまずはどこかで待機するよう指示した。
 幸いコロナの陽性が出た実習生は母とは接触しておらず、導線を確認してもそこから外れていたこともあって大学病院からは大丈夫だということになり、さらに少ししてふくやま病院からも受け入れ可能の連絡が入った。予定時間を一時間過ぎていた。
 妻はほとんど大学病院に戻りつつあったのだが、再度連絡をしてふくやま病院に向かうことを告げ、介護タクシーの運転手がリクライニングチェアーを押しながら私と母は病院の外に出た。
 晴れてはいたものの、やや寒かった。抜けるような青空が頭上に広がっていて、冬特有の青さが少し嫌味なくらいに感じられた。介護タクシーの運転手は無駄なことはいっさい口にせず、淡々と自分の仕事をこなした。介護タクシーを使うのは私は初めての経験だったのだが、予想していたよりもずっと大きい車両であることに驚いた。
 私が座る座席は母の左側だったため、左側が見えない母はやはり反対方向を向いていた。外の景色を一つ一つ目で追っていたのだろうか、それとも何か特別な感情があったのだろうか。眩いばかりの日の光に対し、母はまったく目を細めるでもなく、外の方を向いたまま顔を動かすことはなかった。母に何度か話しかけたが、いずれも聞こえていないようで何の返事もなかった。
 特に渋滞もなく、私たちを乗せた介護タクシーは順調にふくやま病院へと到着した。

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