見出し画像

花のかげ~第3章 彷徨(2)

二.衝突と和解

 認知症の介護というのは初めての経験であるわけで、私と妻の介護も手探りの状態が続いた。また私の仕事も変則的なものが常態化していたため、どうしても心身にストレスがかかっていた。妻もストレスが溜まっていることは一目でわかるようになってきていた。それでも妻は母に対して献身的だった。とにかく優しく接する。これは私にも到底できないレベルで、介護施設の職員よりも優しいと母が妻を評したことがある。本当に優しく接するので、母も妻に対して絶大な信頼を寄せていた。介護の基本中の基本なのかもしれないが、本職の人であってもなかなかできるものではないだろう。
「あなたはスーパーな人」
と言うのは、母が妻を評して言った言葉である。妻は決して器用なわけではないのだが、その穏やかさ、やさしさは母に確かに伝わっていたし、私が見落としがちなことにすぐに気づいて手を回してくれることや、母が見つけられずにあれこれ探しているものを即座に見つけては手渡してくれることに、母は毎回感心していた。
 だがそんな妻に対して母が牙をむいたことがある。夜中にたびたび起こされて睡眠不足であることと、通勤の再開と初年度の喧騒の中で私の疲労も最初のピークを迎え、妻はデイサービスに母をショートステイさせることを選択した。もちろん私も同意してのことだったのだが、これがよくなかった。
 ショートステイの初日の朝、家からデイサービスに向かうまでの間に、
「お母さん、今日からショートステイをお願いしますね」
と妻が言っていて、それに対して母も、
「わかりました」
といって笑顔で家を出たのである。だが夕方になって、
「お母さんがデイサービスで揉めてる」
と妻が私の携帯に連絡してきた。私は急いで帰宅することにしたのだが、駅の駐車場で私を迎えてくれた妻は私の顔を見るなり泣き出した。
「ショートステイは私の陰謀なんだってお母さんが言っているの」
という。どうやら家に帰る時間になっても帰らせてもらえず、その日は泊まりだと言われたときに母がパニックになったらしい。あまりに聞き分けのない母に対して施設の人もどうにもできず、家に電話してきたらしい。
 電話で母と妻が初めて口論になったようだ。「彼を休ませてやってほしい」という言葉に母は過敏に反応したらしい。
「全部嫁が仕組んだ陰謀だ」
と施設の人に言って、帰ると言ってきかなくなったらしい。そこで私に連絡が来たわけだ。
 私は毎晩夜中に母をトイレに連れていくのだが、どうやら母からすると夜中に一人でトイレに行かなければならないのが不安だったようだ。このころ、母はまだ紙パンツを使用していなかったのだ。だがショートステイ先では紙パンツをはいて、そこに用を足すことを求められ、普段きれい好きな母からすればそれが耐えられなかったのだ。だから、
「私は息子がいなければトイレにも行けない」
とかたくなに言いはって所長を困らせた。加えて、やはりまだふらつくことがある母だったのだが、一人で立ち上がって行動しようとするところを所長が大きな声を出してとがめるのも我慢がならなかったようだ。
 この所長、元は料理人だったらしいが、自分の母親を介護するために介護施設を立ち上げたという人だった。そのため少し一本気なところがあり、老人に対して少し強い口調が過ぎるところもあったようだ。認知症の老人にはご法度のような語調もあったらしい。母からすればそれが怖いやら腹立たしいやらで、おまけにショートステイの初日がちょうど所長が当直だったために衝突してしまったのだ。加えて妻とも衝突してしまった母は逃げ場が無くなった。
 私が妻と一緒に車で施設に向かったが、妻は車に残ってもらうことにした。そして私が施設の扉を開けると、テーブルに荷物をすべて広げた母がいた。表情は険しい。だが私の顔をみるや、
「トイレに連れて行って」
とにこやかに言うので、少しその後の話がしやすくなるような気がした。
 トイレを済ませてから、その日からショートステイであることは何度も話していてそのたびに母が同意していたこと、そしてショートステイを決めたのは妻ではなく私だということを母に何度も話した。
 もともとショートステイについてはいずれやらなければならないだろうと思っていたわけで、それならば早めに経験してもらった方がいいだろうということで私も同意していたことだったのだ。ショートステイする日にいきなりそれを母に伝えるのではなく、何日も前から何度も話していたわけだが、それを母がすっかり忘れていたことになる。
 母は自分の荷物を何度も私と確認しながら、同じ話を何度もした。加えて所長に対しての不満も口にした。妻に対しての不満も口にした。母が一人で立ち上がって行動しようとするときに、妻が、
「お母さん、それはダメです」
といって、妻が胸の前でバツを作るのが不愉快だったのだ。
「嫁の分際で、あぁいう言い方はない」
と険しい表情で憎々しげに言うのを見て、母も不満をため込んでいたのかと思わざるをえなかった。それならそれで私にそういえばいいものを、母はどうしても言うべき時に言わないところがある。それが後で恨み言のようになって出てくるのだ。ただ、「嫁の分際で」という表現には私もいささか違和感を覚えた。そういう言い方をする人だっただろうか、と。
 ただ話は一方からだけの内容をうのみにするわけにはいかない。加えて、今後もショートステイしてもらわなければならないケースは十分に考えられる。そのためにもショートステイに早く慣れてもらわなければならない。それには紙パンツにも慣れてもらう必要がある。そういうことを一つ一つ噛んで含むように母に話し、そして私はようやく施設を後にした。施設には二時間近くいた。家では息子が腹を空かせて待っていた。
 車に戻ると、妻はまだ泣いていた。自分の献身が伝わらなかったことに対してのショックもあるだろうし、初めて姑に強い口調で責め立てられたこともショックだったのだ。言い返したいことはあっても、相手が相手だけに全部言うことはとてもできない。半分も言えない中で防戦一方にならざるを得ないのが悔しいやら悲しいやらなんともやるせないわけだ。その気持ちは手に取るようにわかる。なんでも口にすればいいものではない。「喧嘩と議論は違う」というのが私の信条だが、この議論ですら感情論を振り回して言いたい放題の人がいる。そういう人は得だ。私はどうしてもそれができない方だ。徹底的に相手を打ちのめすように追い詰めるのは好まない。私に議論で負けた人は私を追い詰めすぎだと言うこともあるのだが、それは議論に負けた人の負け惜しみだろう。とにかく私は感情的に議論するのは嫌いなのだ。逆に相手の感情を逆なでするようなことはなるべくなら言いたくない。議論、もしくは喧嘩がヒートアップすると、言ってはいけないことも平気で言い放つ人が多いが、私はどうしてもそこでブレーキがかかってしまう。しかも変に過去にさかのぼってまで恨み言を蒸し返すかのような言い方をするのは本当に嫌いなのだ。それは妻も同じで、母と電話で言い合いになった時も、どうしても言ってはいけないことは言えないわけである。それをいいことに母がどんどん詰るようなことを言うわけだから、心はどんどん傷つけられるのだ。ボクサーがノーガードでパンチを次々ともらうようなものである。おまけにこの時は母の昔からの気性も手伝ったわけであるから、妻としてはたまったものではない。ただ母は相手を選んで挑むところがあり、それは私が母に対して一番嫌うところでもあった。どうせやるなら相手を選ばずにやってほしいのだが、母は言いやすい相手にしか言わないところがある。それが今回は妻だったのだろう。
 とにかく家に帰り、息子に食事をとらせ、私たちも母がどうなっているかを考えながら床に就いた。結局眠りは浅いままだった。
 ショートステイ初日の母の様子はケアマネージャーにも伝わっていた。ケアマネージャーの嶋田さんはすぐに施設に様子を見に行ってくれたのだが、こちらの予想に反して母は妻に対しての罪悪感に苛まれていたようだった。
「私は言ってはいけないことを言ってしまった。会わす顔がない」
といっては沈みこんでいたようだった。
 その様子を聞いて、私は希望がまだあると感じた。これは修復可能であるという希望である。母がそう思っているのであれば、話は思ったよりこじれずに済みそうなのだ。あとは母が帰宅した時にどういう態度をとるかにかかっている。嶋田さんは母と時間をかけて話してくれたようで、母も徐々に落ち着きを取り戻しつつあるようだった。
 和解に向けての好材料がもう一つあった。よく「胃袋をつかまれる」という表現を最近よく耳にするが、妻の料理を母はいつも楽しみにしていた。確かに妻の料理は美味しい。その一方、施設の食事はどうも母の口に合わなかったようだ。不味いわけではない。だが妻の料理にはとうてい比肩しえないものだったのだ。母からすれば、自分の嫁が作る食事が恋しくなったのだろう。食事の時は自分の孫が隣にいて、私がこぼさないように介助してくれて、目の前には美味しい食事が並んでいるわけだ。そういう環境を、ショートステイを理由に壊してしまうわけにはいかないと思ったのかもしれない。
 毎日毎日母は妻に対して「申し訳ない」「もう帰れない」と言った言葉を口にしていたようで、その報告を聞くたびに少しずつ安心していった。
 そしてショートステイから帰ってきた日。その瞬間に私は立ち会えなかったのだが、母は涙を流して妻に謝罪をしたらしい。何とか大きなハードルをクリアできたようだった。
 母と妻が大きくぶつかったのは、結局これが最初で最後となった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?