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花のかげ~第3章 彷徨(7)

七.抗がん剤の問題点

 八月は私にも余裕があったため、母の通院には私も帯同できた。八月十二日の通院の際は、今川医師も母を見てそれほど問題点は感じていないようだった。ただ抗がん剤のスケジュールについて話されると、
「二年間もやるんですか」
と母はあからさまにうんざりしたような表情を見せた。そして次の抗がん剤のスケジュールは八月二十七日からということになった。
 そして訪問介護も「お試し期間」として八月二十四日から始まった。初日は井上さんがやってきた。訪問介護のヘルパーがやってきたら、できるだけ妻は二階に行っていることになった。と言うのも、ヘルパーと母が二人きりにならなければ母が慣れていかないからである。
 火曜日に来る男性のヘルパーは「一番人気」と言われている若い男性だった。羽生ゆずるに似ているということで人気だそうなのだが、顔立ちは今風に整っているとはいえ「似てるか?」というものだった。だが母は「似てますね」と言って少し機嫌がよかった。とういわけで、ヘルパーの導入はまずまずの滑り出しを見せていた。
 ところでアバスチンの点滴は月に二回行われていたわけだが、八月は私が十二日に帯同はできたものの、二十六日は仕事が始まってしまい妻に任せざるをえなくなった。
 この時、今川医師から新しい治療方法が提案されることになった。「オプチューン」という、頭に電極をつけて電磁波を二十四時間脳にあてるというものである。新しい治療で認可を受けてそれほど年月が経っていないものである。当然頭髪はすべて剃らなくてはならない。業者までそこに来ていて、断りようがない状態での提案をされたことに私も少し気分を害した。そもそもアバスチンにしても「徹底的にやるならば」という条件付きだったはずがいつのまにかやるのが当然ということになっていたわけで、それですら少し違和感を覚えたわけだが、今度は業者まで手配してその場に来ているという。医師の手際の良さと言えばそれまでなのかもしれないが、事前に何かあってもよさそうなものだ。だが事前に言えば拒否反応しか出ないのかもしれないわけで、医師の立場からするとそうするのが当たり前なのかもしれない。だが業者と病院の関係や、大学病院というところの性質上その治療法の研究の対象として利用されているのではないかということをどうしても考えてしまった。研究の対象となるのはやむをえないとして、そのために患者が置き去りにされてしまうのはどうかとも思えてしまう。
 電極をつけることはもちろんなのだが、「頭髪をすべて剃ってしまう」ということに対して母は非常に嫌な顔をした。放射線治療の時は後頭部の毛がほとんど抜け落ちていたわけだが、それは解消の兆しがみえつつあった。わずかだが髪の毛が生え始めていたのだ。しかも母は後頭部の方まであまり意識がいっていなかったのか、髪が抜けていることをもっと気にするかと思っていた私たちの思いをよそにほとんどそのことを自分から言うことはなかった。だが今度はすべて剃ってしまうわけであるから事情が異なる。歯みがきをする際にはどうしても鏡で自分の姿を見ることになってしまうのである。治療の怖さとか電磁波と言う言葉にもっと過剰に反応してネガティブな気持ちを持つかと思いきや、そこよりもむしろ頭髪がすべて剃られてしまうことの方に母の気持ちはいっていた。
 この「オプチューン」、私も動画などで実用例を見てみた。確かに新しい治療で効果も期待できないわけではない。だがバッテリーで動かすわけであるから、移動するにはおよそ一・五キロのバッテリーを常に体につけていなければならない。そちらの方が私には難しいのではないかと思っていた。このオプチューンに関しては、新たに通う予定になっていたリハビリの施設も、前例がないことを理由に受け入れに難色を示していた。
 そして月に一回の抗がん剤の服用がまわってきた。二度目ということもあり、胃薬を飲ませ、そして抗がん剤を飲ませた。できるだけ普通の生活をさせようということからその日はデイサービスにも行ったのだが、帰宅した時は母の様子は目に見えておかしくなっていた。
 とにかく体に力が入らない。言葉も支離滅裂になることがある。ろれつが回らない感じすらした。それが抗がん剤のせいなのかどうかはその時はわからなかったのだが、母は夕食もとらず、着替えもせずにベッドに横になってしまった。意識も朦朧としている。
「副作用かもしれない」
と私も妻も思った。とにかく変に起こすよりも寝かせておいた方がいいだろうと思い、私たちも夕食を済ませて早々に床に就いたのだが、夜中は私も気が気ではなかった。少しまどろんでは様子を見て息をしていることに安堵するわけだが、このまま死んでしまうのではないかという感じすらしてしまった。
 だが夜中の三時ごろ、母が突然体を起こした。
「トイレ?」
と話しかけると母は力なくうなづくので、抱え上げてトイレに連れて行った。そのあと喉が渇いたかと聞くと、首を振るだけでまた横になってしまった。八月であるわけだから脱水症状に陥ってしまうことを恐れていたのだが、そんなことお構いなしに母は再び口をあけて寝てしまった。
 そのまま私も浅い眠りについたが、すぐに私が起床する時間がやってきた。妻も起きてきて母の様子をうかがったわけだが、その日はデイサービスに行くのは難しいだろうという結論に達した。
 私も仕事に行かなければならず、母のことが気になったまま出勤することにした。だが母の様子はそのままで、起きる時間になってもやはり意識は朦朧としたままであったようである。
 そうこうするうちにヘルパーがやってくる時間となった。その日は井上さんが来る日になっていて、井上さんは母の様子を見て何かを感じたのか、とにかく目覚めさせるということと水分を摂らせるということで
「氷を口に含ませてみてください」
と提案してくれた。
 これが功を奏した。
 母は少し意識を取り戻し、氷から水分を補給することができた。結局その日はデイサービスに行くのを見送らざるをえなかった。
 そんな状態であるから、妻が病院に連絡してくれたところ、今川医師は「意識朦朧」となったことを少し重く見たのか、抗がん剤の服用はいったん中止するようにとの指示を出した。
 その数日後にアバスチンの点滴があったので、そこで今川医師の診断を仰ぐことになった。錠剤での服用ができないということになると、あとは点滴しかない。点滴ということは入院してやることになるわけで、母は通いでやることを望んだが、さすがにそれは無理な話だった。もっとも錠剤の方が点滴よりも副作用は大きいようで、点滴ともなれば副作用が強く出ることはあまりないと言う。それならば通いでもいいではないかというのが母の考えだったが、毎日母を病院に連れていくことは仕事をもっている以上なかなか難しかった。そのため、母の入院の手配がなされることになった。

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