見出し画像

西新宿のからあげ弁当

4月に上京して入社した会社は、全員が営業マンの会社だった。何を売っている会社かは分かっていたが、営業マンになる心づもりなどなく入社した毎日の仕事は大変だった。朝は11時頃の出社と遅めだけど、月曜から土曜までの勤務でみんな夜10時頃まで会社にいた。その頃、朝ごはんをどうしていたのか記憶がぼんやりしているのだけど、昼過ぎあたりにとてもお腹がすいたので朝は食べていなかったのかもしれない。

1997年当時は、まだ社員1人1人のデスクにパソコンが1台という時代ではなく、一太郎といったワープロはあったように思うのだけど、みんな手書きのノートで顧客管理をしていた。私についてくれていた2つ年上の女性の先輩は、顔立ちも着ている洋服もしゃべり方も全部きれいで、おまけに営業成績も抜群だった。そんな先輩の後輩でいることを誇らしく思っていたのだけど、時々ものすごく叱られたので毎日ヒヤヒヤもしていた。そんなきれいな先輩にノートの選び方から蛍光ペンの使い方まで色んなことを教わった。

社内には50人くらいの営業マンがいたが、外に出かけていなければ昼の1時頃にめいめい昼ごはんとなっていた。弁当を持参する人はほとんどおらず、みんな外で食べたり買ってきた弁当を食べたりしていた。そんな中、きれいな先輩が時々「一平ちゃんのカップ焼きそば」を美味しそうに食べているのを見て、先輩にもこういう一面があるんだなと、何だか嬉しくなった。

その頃も私はお金がなかったわけだけど、会社が入っているビルの目の前のお弁当屋さんでよく昼ごはんを買っていた。大体が500円で食べられたが、中でも「からあげ弁当」が、ボリュームといい醤油がじゅわっとする味といい大の気に入りで、1週間のうち3回くらい食べていた。「またからあげなのぉ?」と先輩が笑ってくれて「てはは、です」などと言いながらからあげにかぶりついていた。

そんなある日。外に営業に出かけたものの成果もなく、昼の時間はとっくに回っていたので、早くごはんを食べて次の仕事の下準備をしなければと、少々焦りながらせかせか歩いていた西新宿の郵便局の目の前で、自分と同じ年くらいの男性ふたりと女性ひとりの3人組が、私の前に満面の笑みで立ちふさがった。「すみませーん。今、新人研修で知らない人10人とお茶をしていて、あと1人で終わりなんです。最後の1人になってもらえませんか?」と、背の高い方の男性が言った。あんまり外の時間が長くなると先輩に叱られるので本当は断りたかったのだけど、同じ新入社員でこういう研修もあるんだな、大変だな。と心が動いた。しかも、コーヒー代は研修生たちが支払ってくれるという。「ほんの5分なら」と、了解した。

近くにあったドトールコーヒー店に入り、4人の席が固まったところで、おもむろに背の低い方の男性がこう言った。「あなた、今のままの人生でよいと思ってますか?」唐突になんだと思ったけれど、ぐさっときた。

アナウンサーの試験に全部落ちて、なんとか東京で喋り手になる足がかりを探ろうと、何のツテも考えもなく東京に来てはみたものの、毎日毎日成果の乏しい仕事に追われる日々で、これでいいのかと密かに心の中で思っていたからだった。「そう言われると思うことはありますが」そう答えた私に「私たちと一緒に人生を変えましょう!」そう力強く女性がしゃべった。

今思えば、当時流行っていた「自己啓発セミナー」の類だったのだろうが、そんなことも知らなかった私は、それが勧誘と気づくのに40分近くかかってしまった。どうして勧誘と気づいたかというと、彼らの説得力のある言葉の数々に実は何度か心の中で頷いてしまっていたのだが、後半に差し掛かった頃「3日間で5万円の研修を一緒に受けましょう!」と言われたからだ。
「お金、かかるの?」やっと気づけたという有様だった。

「でも、私の会社は週休1日勤務だし、今自由に使えるお金も、今月まさに5万円位しかなくて、ちょっと無理だと思います」そう恐る恐る答えても彼らはなかなか引き下がってくれなかった。

やっと解放してくれたのは、私が本当にお金がないことを分かったからだろうか。「また気が変わると思うし、こちらから時々連絡するね。電話番号を教えてくれる?」と、途中からタメ口になっていた女性にメモ紙を渡されて、これで帰れるのならばと素直に応じた。
実際その後何回か本当に電話がちょくちょくかかってきて、断るのに苦労した。出なきゃいいのだけど、かかってきた電話に出ないって何だか申し訳ない気がするという小心の田舎者だったのだ。

ほんの5分のつもりが1時間以上かかってドトールを出してもらえた時は、もう陽が傾きかけていた。猛烈にお腹がすいていた。「こんなにダラダラ外にいて」と、先輩に叱られるかもしれない。それに、もうなくなってるだろう。色んなことを心配しながら覗いたお弁当屋さんに。

「からあげ弁当」はあった。

自席に座って、こそこそとからあげ弁当を開いた私のデスクの横に先輩がやって来た。叱られる、とドギマギした。先輩は本当にきれいな顔と声で、「遅くまでお疲れ。食べたら次の準備ね」と言って、その場を離れた。

「私の人生は、今のままでいいのでしょうか」心の中でつぶやきながら口に運んだ、油と醤油とが混じったご飯の最後のひと粒も、美味しかった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?