雑記:戦国時代の室町幕府に関する史跡

応仁の乱以降、室町幕府の政権中枢に関わった将軍や管領、有力大名などの墓所で、京都・大阪に所在するものを中心に初回していく。

まず、京都府京都市右京区の龍安寺の細川家墓所。

過去に紹介した細川勝元以外にも、細川家当主の墓所がある。

勝元の子で、明応の政変を演出して将軍の首をすげ替え、「京兆専制」と称される体制を築いて幕府の実権を握った細川政元の墓(下の写真一枚目)は、勝元の傍らにある。

政元は政略に長けた人物であったが、修験道に凝って女性を近づけず、複数の養子を取ったことから京兆家の内紛が発生し、最後は家臣に暗殺された。

京兆家はその後、阿波守護細川家から政元の養子に入った澄元、その子の晴元、そして三好長慶と結んで晴元を打倒し、最後の管領となった氏綱(細川家庶流の典厩家の出身)と続くが、龍安寺にはこのうち澄元の墓(下の写真二枚目)と、氏綱の墓(下の写真三枚目)がある(細川家の墓所の拝観に関しては、京都府内の石造物㉞を参照)。

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澄元の子で氏綱の前の京兆家当主である晴元の墓は、大阪市高槻市の普門寺にある。

晴元は一時期は有力家臣の三好元長を排除し、十二代将軍足利義晴を擁立して畿内の政権を握るが、後に元長の子・三好長慶との争いに敗れて没落し、晩年を普門寺で過ごし同寺で没した。

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晴元が元長を排除するきっかけを作った人物であり、元長死後に京兆家において権勢を振るったが、後に三好長慶・遊佐長教(畠山氏の被官)と戦って太平寺の戦いで討死した木沢長政の墓は、戦場の近い大阪府柏原市の安堂・太平寺墓地の中にある。

五輪塔は乱積みであるが、地輪は当時のもので長政の没年である天文十一年銘が刻まれている。

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当初晴元とは対立したが、後に晴元と和解して擁立された十二代将軍の足利義晴の墓(下の写真二枚目)は、大阪府交野市星田の義晴地蔵寺にある。

寺と言っても出土した二百帯を超える地蔵石仏を一箇所にまつって堂を建てただけのものであり、その中に義晴の墓も混じっている。

寺の由来によると、義晴の夫人が義晴の墓と共に敵味方の区別なく菩提を弔うために地蔵を造立したと言うが、真偽の程は定かではない。

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少し時代は遡るが、応仁の乱の東軍の有力武将で管領にもなり、後に細川政元と対立して明応の政変において自刃した畠山政長の墓は、大阪市平野区正覚寺の住宅地の一角にある。

塀で囲われた中に複数の石塔の残欠があるが、最も大きい五輪塔(下の写真三枚目)が政長の墓であろうか。

付近は、政長が自刃した正覚寺城の跡である(元来あった正覚寺を政長が城塞化したものが正覚寺城であり、明応の政変後に正覚寺も廃寺になったが現在は復興されている)。

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政長と家督を争い、応仁の乱においては西軍の有力武将であった畠山義就の子で、明応の政変に際しては政元と結んだ畠山義豊(基家)の墓は大阪府寝屋川市の明王院(成田山大坂別院)にある。

この両畠山の争いはその後も続き、義豊は政長の子の畠山尚順と戦って敗死している。

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