雑記:京都市内の応仁の乱関係の石塔

1467年に起こった応仁の乱は、室町時代中期に足利義政の後継者問題に諸大名の権力抗争、家督争いなどが複雑に重なって起こり、以降長期間に渡って続いた戦乱であるが、京都市内にはこの乱の中心人物達の墓所がある。

石庭で有名な右京区の龍安寺は、室町時代中期の管領で、応仁の乱で東軍の総大将であった細川勝元が創建した禅寺で、後に応仁の乱で消失するが勝元の子の政元によって明応八年に再興された。

境内寺務所の裏には細川家の墓所があり、勝元以降の京兆家当主の墓塔である宝篋印塔が建ち並ぶ(下の写真一枚目)。

勝元の墓は中央の宝篋印塔(下の写真二枚目)で、室町時代中期から後期の特徴をよく表す塔で、おそらく政元によって再興と同時期に造立されたものであろう。

勝元の墓の向かって右隣には政元の墓(下の写真三枚目)もあるが、ほぼ同型の宝篋印塔である。

墓所内には、他に細川澄元(政元の養子)の墓(下の写真四枚目)や細川氏綱(細川氏の支流で勝本の叔父・持賢を祖とする典厩家の出身で、三好長慶と結んで京兆家を継承し、室町幕府最後の管領となった)の墓(下の写真五枚目)もある。

なお、細川家の墓所は通常の拝観コースとは別の場所にあるため、石庭拝観とは別途に寺務所で許可を取る必要がある(私が訪れたのはもう十年数年前のことであるため、現在は拝観の方針が変わって非公開になっている可能性もある)

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室町幕府八代将軍で乱勃発時の将軍でもあり、また「銀閣寺」の通称で知られる東山の慈照寺(当初は足利義政の山荘で、義政の死後に禅寺となった)を創建した足利義政の墓は、上京区の相国寺にある。

現在は同志社大学の今出川キャンパスに隣接しているが、室町時代には寺内に歴代足利将軍家の廟所が塔頭として創設され、京都五山第二位の格式を持つ大寺院である。

義政の菩提寺は塔頭の慈照院であるが、墓塔は相国寺墓地内(塔頭養源院の西方)にある。

義政の墓は藤原定家、伊藤若冲の墓と並んでおり、中央の宝篋印塔が義政の墓である。

相輪が欠損し、一石五輪塔の一部で代用されているが、こちらも勝元の墓と同時期の室町時代中期から後期の宝篋印塔であり、当初からの義政の墓塔と見て違和感はない。

なお、義政らの墓の手前には、平安時代末期に「悪左府」の異名を取り、保元の乱で崇徳上皇を擁立して敗れた藤原頼長の墓とされる五輪塔があるが(下の写真三枚目)、これは近世の石塔である。

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義政の正室で、我が子の足利義尚を次代の将軍にしようと画策したことで応仁の乱の原因を作った「悪女」とされる日野富子の墓は、中京区の華開院にある。

華開院はJR山陰本線の円町駅から歩いて五分ほどの所にあり、室町時代には皇室との縁も深く、境内には皇后の陵墓や公家の墓などもある。

富子の墓は本堂裏の墓地内にあり、後小松天皇生母・三条厳子の墓の向かって左隣に建つ宝篋印塔がそれである。

こちらも相輪が欠損しているものの、富子の死後それほど経っていない時期の造立と思われるが、元来は富子の菩提寺である大慈院にあったもので、大慈院が廃絶した後に同寺に移されたと言う。

富子の人物像に関しては後世の脚色が多く、通説で言われているような義尚擁立の話もどこまでが史実なのか判然とせず、近年の室町政治史の研究において応仁の乱の実像も見直されつつあるため、今後の研究によっては富子の人物像も大きく変わるかも知れない。

なお、華開院は観光寺ではないため、墓所の拝観は庫裏で許可を取った方が良いだろう。

ちなみに、大慈院には富子の木像も所在していたが、こちらは現在大慈院に隣接していた宝鏡寺にある。

宝鏡寺は三代将軍足利義満の弟・足利満詮の邸宅「小川殿」があった場所で、後に同所は細川勝元の邸宅になり、応仁の乱の際には義政や富子、後土御門天皇が避難している(下の写真二枚目)。

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最後に西軍の総大将であり「赤入道」の異名を持つ山名宗全(持豊)の墓は、京都市東山区南禅寺の塔頭である真乗院にある。

境内の墓地に宗全の墓はあるが、石塔自体は完形ではなくかつ後世の造立である。

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なお、宗全の邸宅は上京区堀川通上立売下るにあったが、宗全邸が西軍の本陣となったことから後世「西陣」の地名が生じた。

現在邸宅の跡地には二ヵ所の石碑がある(邸宅跡は、前述宝鏡寺の南西にある)。

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