雑記:戦国天下人の墓所

「仁徳天皇陵」と伝承される大仙古墳など巨大な前方後円墳が多く、また戦国時代は貿易で栄え、商人たちの自治都市として知られる大阪府堺市は、戦国大名三好氏と深い関係がある街でもあった。

その堺にある南宗寺は、三好長慶が父の元長の供養のために建立した寺院で、後に長慶やその兄弟達の供養塔も建てられた。

境内には三好一族の墓と言う宝篋印塔群(下の写真一枚目)が建ち並ぶ一角があり、いづれも戦国期の作であるが、向かって右から三好元長、三好長慶(下の写真二枚目)、三好実休(之虎、長慶の次弟)、十河一存(長慶の四弟で讃岐の十河家を継いだ)の供養塔(下の写真三枚目)である。

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塔はすべて乱積みの可能性があるが(特に長慶塔はバランスが悪いので、当初の者は基礎だけで笠も塔身も別石かも知れない)、いづれも基礎に没年や法号を刻んでおり、没後まもなく造立された供養塔であろう(追刻の可能性もあるが、石塔の年代自体は戦国期のものである)。

三好長慶は近年の研究の深化に伴い、織田信長に先行する「天下人」として再評価が進んでおり、南宗寺にも肖像画をモデルにした三好長慶の銅像が建てられている。

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同じ堺の顕本寺は、三好元長が一向一揆に攻められて自刃した寺院であり、境内には元長の供養塔があるが、これはずっと後年に造られたものである。

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また、長慶の墓とされる石塔は南宗寺以外にもあり、そのうち同じ大阪府の八尾市にある真観寺は、長慶の葬儀が行われた寺で、同寺にも長慶の墓がある。

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向かって右側が長慶、左側はその養子の三好義継(十河一存の子)である。

現在の墓塔は宝篋印塔の基礎の上に一石五輪塔を載せたものであるが、宝篋印塔が元々の墓であり基礎以外は失われてしまっている。

三好長慶は死後の三年の喪が伏せられ、二年後の永禄九年に真観寺で大規模な長慶の葬儀が行われたと言うが、基礎に刻まれている没年は実際の没年である永禄七年である。

また真観寺は、元々は室町時代前期の管領・畠山満家の菩提寺であり、満家の墓と伝承される層塔もある。

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さらに三好氏の本拠地である徳島県三好市三野町の滝寺にも、三好長慶の分骨墓と伝承される五輪塔があり、こちらは乱積みであるがパーツは戦国期の小型五輪塔である。

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