10.3.2 立憲君主政の成立 世界史の教科書を最初から最後まで
18世紀を通してイギリスとの戦争を国内外でくりかえしていたフランスの国家財政は、しだいにキツキツに。
これを打開すべく、改革派にも理解を示した国王ルイ16世は、新進気鋭の経済学者のテュルゴー(1727〜1781年)や
ネッケル(1732〜1804年)を財務総監に起用した。
彼らは、かつてルイ14世の時代の財務総監コルベールがやったような、国が商工業に首を突っ込みすぎる重商主義の政策を批判。
なによりもまず農業生産(土地(テュルゴーはそこに商工業も含めた)が生み出す富 )が国の経済にとってもっとも大切だと主張し、農産物を含めた貿易の自由化によってこそ、商工業を活性化させることができるのだと理論的に説明する重農主義者だ。
彼らは、伝統的に税金を免除されていた特権身分の持つ土地からも税を取るべきだと、国王にアドバイス。
ルイ16世も了承した。
これに対し特権身分は、「俺たちから税をとりたければ、身分別の会議(三部会)をひらけ」と国王に要求した。
こうして1789年5月に、1615年以来ひらかれていなかった三部会が開かれる運びとなったのだ。
しかし早々に「どうやって議決するか」という方法をめぐる対立が勃発する。
第三身分が多数決でやるべきだと主張したのに対し、第一・第二身分は「各身分につき1票ということにしよう」と主張。
しかしこれでは「特権身分2 対 第三身分1」になってしまい、勝ち目がない。
「バカらしい! 本当に国民を代表するのはわれわれ第三身分だ! 第三身分だけで「新しい国」をつくるための準備をしよう!」と、ヴェルサイユ宮殿の屋内テニスコート場(球技場)に集まって誓った。
ここには話のわかる第一身分・第二身分の人々も合流し、「身分にこだわらない新しい国づくり」を進めていくことになった。
この出来事は後に、テニスコートの誓い(球技場の誓い)と呼ばれるようになった。
結成された「国民議会」では、国王の決定権を憲法によって縛ることが目標とされた。
国王も「弾圧すればもっとひどくなる」と考え、手を引くことに。
しかし、憲法ができてしまえば権力が削がれてしまうことを懸念した国王や保守的(改革をしたくない)貴族は、国民議会を弾圧しようとすると、議会に参加していた上層の第三身分だけでなく、その動きを見守っていたパリの民衆(下層の第三身分)たちが反応。
「国王が何もしないからパンが値上がりするのだ!」として、国王の権力の象徴であったバスティーユ牢獄を1789年7月14日に襲撃した。牢獄には政治的な考えが理由で捕まった人だけでなく、武器や弾薬があると考えられていたのだ。
パリでの暴動のニュースがフランス各地に伝わると、領主の支配に苦しんでいた農民たちもいっせいに蜂起。
各地で領主の館が襲撃され、聖職者や貴族たちの中はフランス国外に亡命する者も現れるようになる。
こうした全国的な騒ぎの中、1789年8月4日に、新しい時代に対応した実力本位・自由競争を基本とする社会づくりに賛成する貴族(第二身分)が提案する形で、国民議会において封建的特権の廃止が決定された。
これからの時代は、単に親が「えらかった」から子どもにも特権が与えられるというのではなく、権利の上では誰もが「平等」な社会づくりを進めるべきだという考えだ。
これにより領主は領内の人々の処罰をすることができなくなり、領内の収益の一部を教会におさめる「十分の一税」も無償で廃止されることとになった。
しかし、領主に対する収穫物と土地代(封建地代)を廃止するには、一時金を支払って土地を買い戻す必要があったから、まだまだ不徹底な部分は残っていた(借りているアパートの部屋を、一定のお金を払うことで自分の部屋にするようなもの)。
また、8月26日に国民議会で採択された「人と市民の権利の宣言」(いわゆる「(フランス)人権宣言」)は、「すべての人は自由であり、権利の上で平等だ」と高らかに歌いあげ、人々に希望を与えた。
ただこれにも落とし穴はある。
自由で平等なのはたしかに「人」なんだけれど、個々の条項をみていくと、「人」と「市民」の間で権利の内容が異なるのだ。
「市民」として認定されるのは、ある程度の財産を持った男性に限られたので、財産のない人や女性はそこにふくまれなかった。
それに「平等」とはいうものの、あくまで「権利において」という話なので、結果として競争に敗れた人に対する対応までは書かれていない。
つまり、「人と市民の権利の宣言」(いわゆる「人権宣言」)を推進したのは、ある程度の財産を持った有産市民や改革派貴族であったことがわかるね。
起草したのも、貴族のラ=ファイエット(1757〜1834年)。
かつてアメリカ独立戦争にも義勇軍を派遣した“活動派”の貴族だ。
しかも、「市民」に含まれるのは、結局 男性だけ。
女性には、政治に参加する権利が認められていなかったのだ。
それに対する ”カウンター“ として、「人権宣言」をパロった「女権宣言」を発表したのは、オランプ=ド=グージュ(1748〜1793年)だ。
「人」っていうのは「男」のことでしょ? っていうツッコミだ。
それでも、私有財産の不可侵(自分のかせいだ資産を勝手に取るな!)、主権在民(国の最終決定権は君主ではなく国民にある!)といった条項の数々は、これ以降の世界中の国づくりの参考になった考え方だ。
当時のフランスにおいても一定の影響力を持った宣言だったんだよ。
でも、全国的な騒ぎの影響もあって、人々の生活状況は悪化の一途をたどるばかり。
1783年の日本の浅間山の大噴火やアイスランドの火山の大噴火に端を発し、地球全体が噴煙でおおわれて寒冷化していたことが、収穫に悪影響を与えていたという見方もある。
「これじゃ暮らせないわよ!」と立ち上がったのはパリの女性たち。
1789年10月初め、女性を先頭にした武装パレードが、国王たちが贅沢なくらしをしていたヴェルサイユ宮殿に向かい、国王一家が強制的にパリに連行されるという事件が起きた。
これをヴェルサイユ行進という。
これにより国民議会も一緒にパリに移り、革命の舞台はパリへと移ることとなった。
国民議会は新たな国づくりを本格化させ、1790年には全国の行政区画を”古臭いしがらみ“を抜きにして再編し、教会・修道院の財産を没収、さらに職人たちのグループ(ギルド)を廃止して誰でも自由にどんな業種にも参入できるように制度を整備していった。度量衡が統一されたのも、このときの改革のひとつだ。
こうした、都市の市民層(資本を集めて機械を使って商品を生産し、さらに資本を増やして以降とした人々。とくに資本を多く保有している人々を有産市民層という)たちのもとめる改革がすすめられていき、結果的に彼ら主導で1791年9月に「新しいフランス」の”取扱説明書“である憲法(1791年憲法)が発布された。
これによると新しいフランスでは、財産をもった市民(有産市民)による選挙で一院制の「立法議会」の議員がえらばれ、立法議会話し合いによって法律が定められることとした。
そしてその法に従い、フランスの国王は存続することとなった。
つまり、憲法で君主をしばり、主権は国民に存することとされたのだ。このような政治体制を「立憲君主政」というんだったね。
しかし、「革命がこれ以上進行してしまったらフランスの秩序は乱れる。秩序を保つには、国王はそのまま残したほうがいい」とする立憲君主派(フイヤン派)に対し、大商人の利害を代表する共和派のジロンド派が対立(各グループ内の人々には、大きな幅があり流動的なものだったことにも注意)。
フランス国外では「フランス王が危ない。君主制を制限しようとする危険な”テロリスト“たちを止める必要があるのではないか」という革命に反対する動きが活発化。
たとえば、ルイ16世の奥さんマリ=アントワネットが、1791年6月に夫とともに実家ハプスブルク家のオーストリアに逃亡しようとして寸前で発覚するという事件(ヴァレンヌ逃亡事件)が発生。
1791年8月にオーストリア大公国がプロイセン王国と共同でルイ16世救出を呼びかけ(ピルニッツ宣言)。
それに対抗してフランス王国内では「君主なんていらない」「革命を守ために自衛を!」と、共和派の勢いがアップしていった。
1792年には共和政を主張するジロンド派が政権をにぎり、革命に首を突っ込みやめさせようとしたオーストリアに対し、戦争のスタートを宣言した(フランス王国によるオーストリア大公国への宣戦布告)。
でも軍隊の指揮をしていた士官たちには、国王につかえていた王党派が多かったので、なかなかオーストリアに対し本気で戦おうという気にならない。
オーストリア、プロイセンの連合軍はフランス国内に侵入してしまう事態となってしまう。
これに対しパリの民衆や全国からボランティアで集まった軍隊は、1792年8月に「軍隊のやる気がないのは、王様の陰謀だ! 王様がオーストリアとプロイセンに作戦の情報を漏らしているんじゃないか」として国王が軟禁されていたパリのテュイルリー宮殿を襲撃。
関係者とみなした人々を、守衛のスイス人傭兵も含め虐殺した上、王様のすべての権力を停止させた。
これを8月10日事件というよ。
これは大変なことだ!
外国の軍隊との戦いが始まると同時に、民衆によって国王関係者が襲撃を受ける状況。
共和政推しのジロンド派が多数を占めていた立法議会も手に負えない。
そんな中、1791年9月に「選挙を有産市民に限定して議員を選ぶのはおかしい」として、「成人男性なら誰でも投票できる」かたちの選挙(男性普通選挙)が実施された。
これによって成立した国民公会と名付けられたあたらしい議会には、ジロンド派よりももっともっと「社会の平等」を重視するジャコバン派の勢力が増えていた。
“自由” 重視から、“平等” 重視へのシフトだ。
時を同じくして、ヴァルミーというところでフランス共和国軍が初めて勝利。小さな戦いではあったものの、国民公会はこの一勝を熱狂を持って迎えた。
国民公会ではまず王政の廃止が決議され、フランスが共和政になることを宣言。
これを第一共和政という。
共和政になったからといって国王を処刑する必要は必ずしもないんだけれど、議決によって1793年1月にルイ16世は処刑されてしまう。
このニュースは、フランス共和国周辺の国々の支配者を強く刺激。
「ついにここまで来たか!」と、各国君主にショックを与えた。
ここに周辺諸国が結集した。
呼びかけ人はイギリスの首相ピット(1759〜1806年)。
フランス共和国軍がベルギー地方に侵入したことに対抗し、フランス共和国包囲の大同盟(第一回対仏大同盟)をつくった。
これは大変にまずい状況だ。
フランス共和国は、イギリスを中心とする周辺国家にぐるりと取り囲まれてしまう状況となる。
国内でも、王党派がサポートする形で、西フランスにおいて農民の大反乱(ヴァンデーの反乱)がエスカレート。
こうした危機を切り抜けるために戦時独裁体制を確立しようとした、もっとも過激な共和派(ジャコバン派(のうち山岳派))は、民衆や農民にウケる政策をおこない人気をアップ。
ロベスピエール(1758〜94年)が権限をにぎる公安委員会に強大なパワーが集まる独裁体制が確立された。
理念に反するとされた人々は容赦なくギロチンによって機械的に処刑されていった。
軍隊も国民から徴集して編成。
周りの国にくらべ「自分の国を守ろう」という意識が強く、軍隊のモチベーションも高かった。
キリスト教も時代遅れの考え方とみなされ、キリスト教の教会の定めたグレゴリウス暦に代わり、革命暦(共和暦)が制定された。1792年9月22日の共和制樹立の日がを1年1日とし、1805年末まで使用された。
さらにキリスト教の神に代わり、「理性」そのものを崇拝する宗教も人工的に作られた(理性崇拝)。
なんでもかんでも「合理的」な考えを力ずくで押し進める恐怖政治(テロル)には、しだいに国民の中からも不満があがるように。
周辺諸国の危険がやわらぐと、すでに自分の土地をゲットした農民にとって、これ以上改革がいきすぎると「平等」の名のもとに自分たちの土地が取られてしまうのではないかという不安を抱いた。
また、経済的な自由をもとめる市民層も、最高価格令によって貧しい人に低価格で物資を届けようとするジャコバン派の “福祉” 政策に反対するようになった。
孤立したロベスピエールはパリの民衆からも反発を受けることになり、1794年7月に革命暦テルミドール9日に狙撃された上、裁判によって処刑。このテルミドール9日のクーデタをもって、ロベスピエール主導のジャコバン派独裁は終わりを告げることとなった。
ロベスピエールの「平等」を確保しようとする主張には、現在では当たり前となった社会保障の考え方が含まれていた。
しかしその実行にあたっては、多くの反対派の血を流すことになったわけだ。
相反する考え方が、産業社会の成立という大きな社会変動の“うねり”の真っ只中で衝突したフランス革命は、まさにこれからはじまる“新しい時代”を象徴するイベントだったといえるだろう。
このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊