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15.2.4 ソ連の「雪どけ」と平和共存政策

ソ連のスターリンが亡くなった

1953年にソ連の最高指導者〈スターリン〉が死去した。

たった一人で 共産党書記長1922~53,人民委員会議議長41~53,ソ連閣僚会議議長41~53,国家防衛委員会議長41~46 といった国家の重要な役職を占めていたスターリンの死は、国内外に大きな衝撃を与えた。

スターリンの死を受け、冷戦は1950年代から60年初めにかけて「雪どけ」ムードとなる。


たとえば、1946年から続いていたインドシナ戦争(フランスがインドシナ半島の植民地の独立をおさえようとして起こした戦争)は、54年のディエン=ビエン=フーの戦いでフランス軍の大敗をきっかけに休戦となっている(ジュネーヴ国際会議で休戦協定(ジュネーヴ休戦協定)が結ばれた)。

これを受け、ヴェトナムは当面北緯17度線を南北の境界とし、南北統一選挙をおこなう運びとなった。
しかし、南部にはヴェトナム共和国が成立。アメリカ合衆国に支援された親米派の〈ゴー=ディン=ジエム〉(1901~63,在任1955~63)が大統領に即位することになった。
フランスが手を引いたら、今度はアメリカが入り込む結果となったのだ。

南部の新政権に対し、〈ホー=チ=ミン〉率いる北部(ヴェトナム民主共和国)は,ソ連と中国が支援したため、ヴェトナムは南北に引き裂かれることになる。

今後、ヴェトナムというときには、アメリカ合衆国の支援する「ヴェトナム共和国」を、ヴェトナムというときにはソ連率いる北部のホー=チ=ミン率いる「ヴェトナム人民共和国」を指すよ。
ヴェトナムも、朝鮮半島のように南北に引き裂かれることになってしまったんだ。


さて、ジュネーヴ国際会議では、すでに前年に独立していたラオス王国カンボジア王国が、独立国として承認されていることも知っておこう。


雪どけムードが続く国際社会

1954年4月~7月には、スイスのジュネーヴで、26か国の外相会議が開かれた。そして、インドシナ戦争と朝鮮戦争の休戦が決まったことをきっかけに、

1955年5月に同じジュネーヴで四巨頭会談(4か国の大物が集まった会談として、日本ではこのように呼ばれている)がひらかれ、米〈アイゼンハワー〉首相・英〈イーデン〉首相・仏〈フォール〉首相・ソ〈ブルガーニン〉首相の4首脳が、ポツダム会談以来初めて一堂に会し平和共存路線が打ち出された。

「平和共存」という言葉は、この時期のソ連で提唱された考え方で、「資本主義の国々と社会主義の国々には共存することができる」というものだ。

オーストリアの主権回復

なお、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連による分割統治を受けていたオーストリアでも変化が起きる。1955年5月に「中立国」として主権を回復させる平和条約が米英仏ソの間で調印され、10月には連合軍が撤退することとなったのだ。



こうして晴れて主権を回復したオーストリアは、資本主義国の陣営でも社会主義国の陣営にも立たなかったのだが、ソ連の影響力はおよばなかったので、戦前同様、資本主義的な復興が進んでいった。

ドイツと同じく“ファシズム”や“ナチス”に関連した思想や、今後のドイツとの合併も厳しく禁止された。
中立国であるため、現在に至るまでオーストリアはNATOに加盟していない。

「ドイツ語を話すけれど、ドイツではない」
「ドイツの領土としてナチスに加担した過去がある」
「しかしかつてはハプスブルク家の下、中央ヨーロッパの覇権をにぎっていた過去がある」

オーストリアという国は、こうした複雑な歴史をかかえながら進んでいくこととなる。


スターリン亡き後のソ連

〈スターリン〉亡き後に、後継ぎ争いに勝利したのは〈フルシチョフ〉(1894~1971,在任1953~64)だ。


就任直後の8月には、物理学者〈サハロフ〉(1921~89)の技術で,水素爆弾実験を実施。


1956年にソ連共産党大会で〈スターリン〉時代の「(スターリンに対する)個人崇拝」をひかえめに批判。大会最終日の秘密報告で,名指しでスターリン批判をし、独裁や個人崇拝の実態を暴露した。



彼自身も〈スターリン〉時代の過酷な粛清(ライバルを処刑・追放すること)に関わっていたわけなのだが、暴露することによってのライバルたちを蹴落とそうとしたのだ。


東欧諸国はスターリン批判の衝撃を受けた


この秘密報告は、アメリカ国務省の知るところとなり、翻訳されて世界中に配信されることになる。
政治的にも経済的にも文化的にも、ソ連に従属していた戦後東ヨーロッパ諸国は、「そんなひどいことしてたのかよ!」「つきあってられねえよ!」と、驚愕の事実にショックを受けた。

1953年6月には,東ドイツの東ベルリンで労働者による暴動が起きたが、ソ連軍が出動して鎮圧された(東ベルリン暴動)。



1956年6月、ポーランドではポズナン(ポズナニ)で労働者による自由を求める暴動が起きる。
ポーランド政府の〈ゴムウカ〉(1905~82)はこれを独力で鎮圧した(ポズナン(ボズナニ)暴動) 。



1956年10月23日には、ハンガリーで暴動が起き、スターリンに反対していた〈ナジ=イムレ〉(1895~1958,在任1953~55,56) 【追H17ポーランドではない】 が政権をにぎった。
おりしも10月29日から第二次中東戦争がはじまっていたところ。

エジプトの〈ナセル〉大統領は、世界中の目がハンガリーに向かっているすきを狙ったのだ。

11月に〈ナジ〉首相は、共産党以外の政党も認めること、ハンガリーを中立化させること、WTO(ソ連陣営の地域的な軍事同盟)から脱退することなどを宣言したため、ソ連は軍事介入に踏み切った。



国際連合の安全保障理事会はソ連をハンガリーから撤退するべきという決議を出したが、ソ連の拒否権により否決。
ソ連との関係をこじらせたくない〈アイゼンハワー〉大統領は、国際連合総会によるハンガリーの独立を守るための監視団の派遣にも消極的で、結果的に見放された〈ナジ〉首相は、2年後に処刑された。
ほか約2000人が処刑され、ソ連に友好的な首相に交替された。
このときに20万人のハンガリー人が亡命したといわれている(ハンガリー事件)。


ソ連の誇る科学技術 アメリカの焦り


しかし、当時の軍事技術はアメリカ合衆国よりもソ連のほうが先を行っていたのも事実。

〈フルシチョフ〉は1958年に第一書記と首相を兼任し経済開発を断行。軍事的優位を背景にアメリカとの直接対話を追求していった。



1958年にはICBMを保有し、史上初の人工衛星スプートニク1号の発射に成功。


さらに人工衛星に犬を乗せて地球の周りを回らせた。



1959年に〈フルシチョフ〉はアメリカを訪問し、人工衛星の模型を〈アイゼンハワー〉大統領にプレゼントする余裕ぶりである。

「雪どけ」は、こうしたソ連優位の力関係の変化も背景にあったのだ。

しかし、ソ連とアメリカ合衆国との関係は、1960年にアメリカの偵察機がソ連上空で撃墜された事件をきっかけに、再度緊張関係に入ることとなる。

1961年には〈ガガーリン〉(1934~68)による人類初の有人宇宙飛行にも成功(1963年には初の女性〈テレシコワ〉(1937~)による有人宇宙飛行に成功)。



こうしたことも追い風となり、〈フルシチョフ〉は、同年1961年には新たにアメリカ合衆国大統領となった〈ケネディ〉(在任1961〜1963年)とのウィーン会談で、西ベルリンからの米・英・仏の撤兵を要求。


国内の党大会でも再度スターリン批判を行った。

ただ、注意するべきは、〈フルシチョフ〉はあくまで〈スターリン〉による個人崇拝や独裁を批判しただけで、社会主義そのものや、そのさらに高いレベルの目標である共産主義の建設を批判していたわけではないということだ。
〈スターリン〉に影響される前の、純粋な“本当”のマルクス主義を取り戻そうとしていたと考えたほうがいいだろう(もちろん建前としてではあるが)。 


なお、1961年10月には史上最大の水素爆弾の核爆発実験が、北極海に浮かぶノヴァヤゼムリャ島でおこなわれた。

そんな中、1961年8月にはベルリンの壁の建設が始まる。

〈ケネディ〉大統領はイギリスの〈マクミラン〉首相とともに大気圏内での核実験停止と停止協定への同意を求めていた矢先のことだった。
この50メガトンもの水爆は、第二次大戦で使われた火薬の総量のおよそ10倍もの規模だった。

このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊