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1.1.8パルティアとササン朝の興亡 世界史の教科書を最初から最後まで

”弓使い”のパルティア人


「パルティア」と聞いても、ふつうは「なんじゃそりゃ」と思うはずだ。


だが、その爪痕は日本にある、ある有名なお寺の所蔵品の中にしっかりと遺されている。

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これ。
「獅子狩文錦」(ししかりもんきん)、奈良の法隆寺の所蔵品だ。
4人のヒゲづらの男性が馬にまたがり弓を射る姿が織り込まれている。
しかもおかしなことに、馬の進む方向と逆方向に向かって矢を放とうとしているよね。

これこそが「パルティア」という国の戦士なのだ。

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パルティア王国が建てられたのは前248年のこと(今から2300年ほど前)。

それ以前のイラン高原は激動の歴史をたどっていた。

ペルシア人によるアケメネス朝は、ギリシャはマケドニアのアレクサンドロス大王によって滅ぼされる。

その後アレクサンドロス大王の後継者であるセレウコスが王国(セレウコス朝)を建てた(前312~前64)けれど、イラン高原の人々は「ギリシャ人による支配」を望まなかった。

そんな中、イラン高原を支配したのが、北方の遊牧イラン人のグループだった。
彼らの族長アルサケスが建てたことから、アルサケス朝ともいう。



東西の陸上交易で栄えたことから、その名は中国にも伝わり、中国では「安息」(あんそく)と呼ばれるよ。

後漢の時代には、ローマとの通交をめざして西域都護が部下の甘英を派遣したけれど、次の史料によれば安息はこれをやめさせる方向に持っていったようだ。

史料 後漢から大秦国への使節の派遣
和帝の永元九年(97)年、西域都護の班超が甘英を派遣して大秦に使いさせた。条支(シリアまたはメソポタミア南部)に至り、大海に臨んで渡ろうとした。しかし、安息西界の船人が英に言った。「海は広大である。往来する者は、順風にあえば三ヶ月で渡ることができるが、もし凪にあえば、また二年かかる。…」と。英はこれを聞いて[渡航を]やめた。

166年にローマの使者を名乗る者が後漢時代の中国にやって来たのだけれど、彼らも「安息のせいで陸上交易路が通れなくなったから海で来た」と主張している。

史料 大秦国から後漢への使節の派遣
大秦王は常々漢に使者を遣わして通交したいと望んでいたが、安息が漢の彩りのある絹布を用いて大秦と交易しようとし、妨害して[使者が]通行できないようにさせた。
桓帝の延熹九年(166年)になって、大秦王の安敦が使者を遣わして、日南郡の国境の外から象牙・犀角・玳瑁(うみがめの一種)を献上してきた。ここで[大秦と漢]は初めて通交できた。ところがその朝貢品には[大秦らしい]珍品がまったく無い。どうやら[大秦について]伝えられたことは大げさであったようである。

范曄(吉川忠夫訓注)『後漢書 10』一部改変(実教出版『世界史探究』)


豊かなメソポタミア方面にも進出を繰り返し、ティグリス川東岸のクテシフォンに都を置いている。

現在のイラクに位置するクテシフォンには現在でも巨大な宮殿の跡がのこされているんだ。

そんなパルティアの文化を見てみると、初期の頃はギリシャの影響を強く受けていたことがわかる。
王は「ギリシャ人を愛するもの」という称号を持っていたくらいだ。
アレクサンドロス大王の支配以降、ギリシャの文化はイラン高原にも大きな影響を与えていたんだ。
しかし、やっぱり地元愛は根強い。
だんだんとイラン文化が復活し、ギリシャの神々だけでなくイランの神々も祀られるようになっていった。
日本でいえば、神社とお寺が混在しているような状況だね。



農耕民のペルシア人がササン朝を建国

パルティアは、224年(今から1800年ほど前)に、同じくイラン系の言葉を話すペルシア人によって滅ぼされた。



彼らは農耕民で、かつて「アケメネス朝」の復活を掲げ、ゾロアスター教を熱烈に保護する形でイラン高原をまとめようとした。
ゾロアスター教の神官たちによって、古来の教えが『アヴェスター』という教典の形に整備されたのもササン朝の時代のことだ。


ここでちょっと細かく、ササン朝時代の宗教について確認しておこう。

ゾロアスター教では、この世をアフラ=マズダとアーリマンという2つの神の戦いと考える。
で、最終的には善の神アフラ=マズダが勝つはずだと信じられていたわけだ。

この時代には、この考え方に対して「しっくり来ないなあ」と考えた人も現れた。それがマニ(216頃~276頃)という宗教家だ。

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彼は「この世は、ただひとつの神によってつくられた」とするユダヤ教の教えを知り、衝撃を受ける。しかし、どう考えてもひとつの疑問が残ってしまうのだ。



「どうしてである神がつくったはずの世界に、こんなにもがはびこってしまうのか...」



そこで彼は慣れ親しんだイラン的な考え方を応用する。

―実はこの世は”の神”が誤って生み出してしまったものであり、この現実世界を乗り越えて”の神”の世界に到達するには、”目に見えない世界”を目指すしかないのだ―と。

だから彼は、人間の肉や体にまつわるものよりも、精神的なものに重きを置いた。
マニ自身は、ユダヤ教だけでなくキリスト教にも詳しく、自分のことをどちらかというとユダヤ教・キリスト教の神の”預言者”(神の言葉を預かるメッセンジャー)ととらえていたようだ。
なおかつ仏教や道教の影響も受けていたというから驚きである。

ただ、マニ教による自由な解釈はゾロアスター教の神々に対する冒涜(ぼうとく)ととらえられ、厳しい弾圧を受けた。しかしマニ教はその後北アフリカや中央アジアにも伝わり、唐の時代の中国にも寺院が建てられるなど、強いインパクトを残しているよ。



そんなササン朝が首都を定めたのは、パルティアと同じくクテシフォン

建国者はアルダシール1世(位224~241頃)だ。

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アルダシール1世の子であり第2代の皇帝であるシャープール1世(位241頃~272頃)は、メソポタミア方面を狙おうとしていたローマ帝国の軍隊と一線をまじえている。

当時の地中海沿岸はローマ帝国が領土を確保しており、豊かなメソポタミアをめぐって争っていたんだね。

戦いの舞台となったシリアで、なんとシャープール1世はローマの軍人皇帝ウァレリアヌス(位253~260)の生け捕りに成功。

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その姿は、各地の岩場に記念碑として彫られているよ。

かつてアレクサンドロス大王に負けてしまったイラン人にとって、この勝利はどんなに誇らしかったことだろう。


ササン朝の領土はどんどん広がり、インダス川に到達しそうな勢いだった。
インド洋の貿易にも積極的で、アラビア半島沿岸にまで拠点をもうけているよ。

イランのすぐれた工芸の伝統はこの時代にも続き、アーティストによって銀でできた器、ガラスの器、毛織物(ペルシアじゅうたんとして今でも有名だ)、彩釉陶器(うわぐすりでコーティングされた焼き物)など、とても素人では作れっこない最先端の工芸品の数々が、ユーラシア大陸各地で取引の対象となった。

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なんと遠く日本の正倉院(しょうそういん)のコレクションの中にも、ペルシアの工芸品(漆胡瓶(しっこへい))があるくらいだ。


エフタルの侵入を、ホスロー1世が撃退!

しかし5世紀後半(今から1600年ほど前)になると、北方の中央アジア方面から強力な敵が現れる。

武装した遊牧民の国家、エフタルだ。



単独で応戦することが困難とみるや、当時のササン朝皇帝ホスロー1世(位531~579)は、
当時柔然(じゅうぜん)の勢力が衰えた後、モンゴル高原を中心に勢力を伸ばしていた遊牧民国家突厥(とっけつ)の助けを借りた。




”夷を以て夷を制す”というわけだ。

見事エフタルを滅ぼすことができたホスロー1世は、メソポタミアをめぐる東ローマ帝国(ローマ帝国の跡を継いだ国家)との戦いにも有利な和平をもたらした。
まさにササン朝の英雄だ。


しかしながら、カリスマが亡きあとのササン朝はパッとしなかった。

やがて7世紀なかば(今から1400年ほど前)には、アラビア半島方面から進出したアラブ人のイスラーム教徒によって滅ぼされてしまうことになるよ。

ゾロアスター教徒であった住民は、長い時間をかけてイスラーム教徒に改宗していった。
だから現在のイラン人の大多数はイスラーム教徒なんだよ。


このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊