9.2.1 アジア市場の攻防 世界史の教科書を最初から最後まで
ヨーロッパ各地で、国ごとの統一的な支配がつくられていく中、その財源として重要視されたのがアジアとの貿易だ。
「アジアとの貿易」といっても、決して“対等” な貿易というわけじゃない。
“後進国” のヨーロッパは、以前からブームとなっていたユーラシア大陸を東西に結ぶ人と人、物と物との“つながり”に、“ゲスト”として参加する形だ。
うまくいかない場合は、大砲をぶっ放す “武装交易” である。
インド洋周辺では14世紀後半ころからインドと中国、中国とビルマ、イランと東アフリカ、エジプトとインド...のように、各地に商人のネットワークが築かれ、沿岸の国々は海域を厳しくコントロールすることはせず、“多様性” が尊重されていた。
ユーラシア大陸の西の端に位置する“片田舎”のヨーロッパの人々によって、アジアのヒット商品は憧れの的。
しかし既存の貿易ネットワークから見れば、ヨーロッパは“たいした商品も持たない新参者”に過ぎない。
ポルトガルのアジア貿易プロジェクト
インドへのルートをはじめに開拓したポルトガル王国は、インドのゴアという港を武力で占領(1510年)。
ポルトガルは、エジプトを拠点とする商人を保護するマムルーク朝の軍隊と戦い、大砲の威力で勝利した(マムルーク朝はその後1517年にオスマン帝国により滅ぼされる)。
ゴアを拠点にポルトガルが狙ったのは、東南アジアのスパイスの原産地だ。
スパイスの取引を独占していたイスラーム教徒と争う中で、スリランカ(セイロン島)、
マレー半島のマラッカ、
そしてスパイスの原産地であるモルッカ諸島
に拠点を築いていった。
ただ貿易の拠点を奪ったというだけで、植民地を獲得したわけではないよ。
「面」の支配ではなく、あくまで「点」の支配だ。
さらにポルトガルは1517年に中国南部の港町 広州(ゴワンヂョウ;こうしゅう)にいたり明に通商を求め、1557年にはマカオ(澳門)に居住する権利を獲得。
ポルトガルはマカオを拠点に中国の商品を大量購入し、利益をあげた。
今でもマカオにローマ=カトリックの教会が残るのは、このためだよ。
1543年には倭寇(わこう)の船に便乗したポルトガル人が、現在の鹿児島県南部の種子島(たねがしま)に漂着したことをきっかけに、長崎県の貿易の中心地であった平戸(ひらど)港に到達するというハプニングも起きている。
このおかげでポルトガルは、17世紀の初めまで、日本と貿易関係を持つことができたのだ。
でも、ポルトガルのアジア貿易プロジェクトは、国王が主導する独占的なもの。さっぱり国内産業の発展にはつながらなかった。
商人たちが自由に自分から創意工夫すれば「これをつくればもうかるんじゃないか?」と頑張ったかもしれないんだけど、そうはならなかったんだ。
スペインのアジア貿易プロジェクト
一方、イベリア半島におけるポルトガルのライバルであるスペイン王国(イスパーニャ王国)は、ハプスブルク家の国王フェリペ2世の時代に、現在のフィリピンにマニラ港を建設。
「フィリピン」という地名は「フェリペ」が由来なんだよ。
最近では、現在のフィリピン大統領が、スペインと関係のない「マハルリカ」という名前に変えようと提唱している。
ようするに、スペインが植民地化する以前、現在のフィリピンに「フィリピン」という枠組みがあったわけじゃない。
スペインが「フィリピン」をワンセットにして支配しようとしたがために、「フィリピン」という枠組みができたわけだ。
ではどうしてフェリペ2世がフィリピンに注目したのか?
それは、フィリピンにメキシコから銀を積み出せば、中国商人や東南アジア商人から商品を大量に購入することができるからだ。
そのおかげで、この時期の中国にはドバドバとメキシコ産の銀が流れ込み、東アジアの特産品がヨーロッパなどのマーケットに向かうようになった。
オランダのアジア貿易プロジェクト
さて、遅れてアジア貿易に参入したのはネーデルラント連邦共和国(オランダ)。
すでにスペインからの独立戦争(ネーデルラント独立戦争)を進め1581年に独立宣言していたネーデルラント連邦共和国。
商人の集まる都市ごとに独立心が強く、アジア貿易にも積極的だった。
1600年には資金を出し合って「東インド会社」(連合東インド会社)という“ベンチャー企業”を設立。
ハイリスクハイリターンのアジア貿易に乗り出した。
現在のインドネシアの首都になっているジャカルタには、オランダの地名に因んでバタヴィアが建設され、ポルトガル商人(当時のポルトガルはスペインと同君連合を結んでいた)を排除しながらスパイス貿易の実権をにぎっていった。
しかし、そこに対抗してやってきたのはイングランド王国だ。
1600年に東インド会社を設立し、17世紀初めにアジア貿易事業に参入。
スペイン=ポルトガルに対抗するためにネーデルラント連邦共和国と協力する場面もあったけれど、ネーデルラント連邦共和国がイングランドを「アンボイナ事件」(1623年)という虐殺事件によって締め出すと、イングランドは「東南アジアよりも、インドのほうが“ブルーオーシャン”だ」として、マドラス、ボンベイ、カルカッタに次々と進出。
いずれも、チェンナイ、ムンバイ、コルカタとして、現在のインドの大都市に成長している。
一方、ネーデルラント連邦共和国は、インドに向かうルートの“中継地点”として、アフリカ大陸の南端に注目。現在の南アフリカ共和国のあるところに、1652年、ケープ植民地を建設している。
現在の南アフリカに、オランダ語系の人々(アフリカーナー(ボーア人))が住んでいるのは、このときの名残なんだよ。
なお、ネーデルラント連邦共和国は、1630年代に「鎖国」した日本との貿易を唯一許されたヨーロッパの国として、アジア貿易に食い込むことにも成功している。
1661年に海賊の首領である鄭成功(ヂァンチァンゴン;ていせいこう)に明け渡すまでは、台湾に拠点も持っていたんだ。
イングランド王国vsフランス王国のアジア貿易プロジェクト
しかし、ネーデルラント連邦共和国は、イングランドとの3回の戦争(英蘭戦争)を経て、勢いにかげりが見えるようになる。
それに代わってインドに拠点を移したイングランド王国の戦略は大当たり。
その後、イングランド王国にとって最後の競争相手となったのが、フランス王国だ。
フランス王国ではすでに1604年に東インド会社が設立されていたけれど、まもなく活動を停止。その後、1664年に再建され、財務総監コルベールの下で1664年にインドに進出。
イングランド王国の間を縫うように、ポンディシェリ
やシャンデルナゴルに進出した。
いまでもこれらの都市にフランス風の建物が残っているのは、これ以降のフランス支配の名残だよ。
イングランドとフランスは、ムガル帝国の皇帝や、それに対抗する地方の政権に取り入って、許可を得て沿岸地帯に拠点を建設。
ムガル帝国内部で反乱が多発すると、イングランドとフランスは、各地の豪族をまきこんで争うようになっていた。
ただ、ムガル帝国の支配が緩んでいたからといって、各地の商品生産が衰えていたというわけじゃない。
特に北インドでは産業がますます盛んになり、人口も急増していたんだ。
豊かなインドや、北アメリカの「スペイン植民地」の“おこぼれ”をめぐって、18世紀にはイングランドとフランスによる植民地取り合い合戦が勃発。
そこへさらに、ヨーロッパでの戦争が複雑に絡み合っていった。
そんな形で、七年戦争のときには、インドでイギリス東インド会社の傭兵軍をひきいたクライヴ(1725〜74年)が
フランスとベンガル地方の政権の連合軍を、1757年のプラッシーの戦いでやっつけ、インド支配の基礎をかためた。ベンガル地方の政権の“仲間割れ”につけこむ形での勝利だった(実際には、決定的な勝利は1760年の戦闘)。
ただ、莫大な富を横領していたという罪で、クライヴは本国に送り返され、不遇のうちに亡くなる。
インドの支配がいかに莫大な富を稼ぎだすものだったのか(ネイボッブ)、そしてイングランド王国が東インド会社をどうやってコントロールするべきかをめぐり混乱していたことがよくわかるエピソードだ。
このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊