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4.1.1 イスラーム教の誕生 世界史の教科書を最初から最後まで

地域にもよるけど、最近「イスラム教」という言葉や「イスラム教徒」の外国人と接する機会はぐんと増えているよね。

イスラム教はキリスト教と同じく、特定の民族にしばられない宗教。
だけれど、もともとは7世紀初め、日本で聖徳太子が摂政となっていたころのアラビア半島で、アラブ人のムハンマドという人によって始められた信仰なんだ。
教科書では、アラビア語の発音に合わせて、「イスラーム教」と伸ばして発音されているね。


まずは、イスラーム誕生の舞台であるアラビア半島と、アラブ人について見ていこう。


砂漠という海を、アラブの遊牧民が繋ぐ

アラビア半島は大部分が岩石に覆われた砂漠におおわれている。

ここに住むアラブ人たちはベドウィンとも呼ばれ、各地にぽつぽつと分布するオアシスを中心にして、ほそぼそと家畜の遊牧や農業を営んできた。

彼らが話していた言葉は、現代のアラビア語のルーツとなるセム語系の言葉。日本人にとってはモニョモニョとうねって見えるアラビア文字で記されるよ。


でも、彼らが”引きこもる”ようにして、外界との接触をシャットアウトして来たと考えるのは間違いだよ。


砂漠はいわば「海」であり、オアシスの集落は「島」のようなもの。


しばしば外の世界からは、さまざまな民族が訪れる。

アラビア半島の砂漠に一体何があるのかと思うかもしれない。


そもそも、インド洋に突き出るように位置するアラビア半島は、地中海からエジプトを抜けるとたどり着く、西側の紅海(こうかい;red sea)、東側のペルシア湾という2つの水域に挟まれている。

イラン方面から運ばれた荷物はペルシア湾側からアラビア半島に荷揚げされ、

その荷物は反対側の紅海側へと運ばれる。

同時に、インド方面から運ばれた荷物は、アラビア半島の南部の港町で荷揚げされ、そこから内陸のオアシスを点々としながら、

さまざまなルートをたどって、アフリカや地中海方面へと運ばれていったのだ。

アラビア半島の南部の気候は比較的温和で農業もできる。

そうした農産物や貿易品を支配下に置いた有力者によって、もっとも早い時期に国家が建てられたのも、アラビア半島南部だったんだ。

このエリアでは、火で焚くと、思わずうっとりするような不思議な香りを放つ「乳香」(にゅうこう)、

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没薬」(もつやく)といったアロマの産地でもあり、古くから「幸福のアラビア」と呼ばれ、その名をとどろかせていたのだ。


遊牧民たちはこうしたお金になる産物を安全に輸送するための隊商キャラバン)を組織し、遠く地中海沿岸にまで運ぶネットワークを築き上げていく。
彼らは共通の祖先を持つという仲間意識で結びつき合い、異なる氏族との間では商売の利権をめぐり激しく対立したのだった。


空前の商業ブームでアラビア半島は激変!

時はくだって、6世紀後半(今から1300年ほど前)、イランを支配するササン朝と、地中海東部の周辺を支配するビザンツ帝国(東ローマ帝国)イラクシリアエジプトの交易拠点をめぐって熾烈な戦いを繰り広げるようになっていた。



このエリア一帯は、ユーラシア大陸の東西を結ぶ陸ルート(シルク=ロード)のメインルートだったから、陸上貿易は大打撃。

それだけでなく、ビザンツ帝国がコントロール下に置いていた、アレクサンドリアを経由して紅海を通る海の貿易ルートも打撃を受けた。


そんな中、迂回ルートとして重要性が高まったのが、アラビア半島の西部を陸路で通るルートだ。

突如として交通量・取引量の増えたアラビア半島西部(ヒジャーズ地方)では、とくにメッカ(アラビア語ではマッカ)やメディナ(アラビア語ではマディーナ)といった都市が急速に発展。

遊牧民の中には富を独占する一族も現れるようになる。
そのうちメッカ随一の大商人の家柄が、クライシュ族だ。


ムハンマドは商人出身

そんな激変期のメッカのクライシュ族に生まれたのが、のちにイスラーム教を広めることになるムハンマド(570年頃~632)さん。

彼は、幼い頃から各地にキャラバン(対象)の一員として出張し、ユダヤ教やキリスト教への理解を深める中で、610年頃、突如として神の預言を授かる体験をする。

彼はその後亡くなるまで神の預言を授かり続け、その言葉を人々に伝え続けていく。

神の言葉を人に伝えるという点では、彼はユダヤ教で特に信仰されるモーセや、キリスト教で信仰されるイエスと変わらない。そういう人のことを預言者という。神の言葉をかる人という意味だね。

でも、彼が神から授かった内容によれば、ムハンマドに対して神が授けた言葉は、"最新"にして"最も正しい知識"というわけだ。

つまり、モーセやイエスが授かった言葉は、もはや古い。
新しい言葉にアップデートしなければならないということだね。

彼は、神の言葉に従ってユダヤ教やキリスト教の矛盾点(なぜユダヤ人はユダヤ人しか救われないと考えるのか? 本当にイエスは神の「子」と言えるのか? etc...)を次々に指摘。


じゃあ、ムハンマドは何が「神の正しい教え」だと主張したんだろうか?


その要点は「全人類の平等」

ポイントは次のように要約できる。

人類はみな神(アッラー)によって創造されたのであり、争うのは滑稽(こっけい)なことだ。

◆『クルアーン』2-29.かれこそは、あなたがたのために、地上の凡てのものを創られた方であり、更に天の創造に向かい、7つの天を完成された御方。またかれは凡てのことを熟知される。

なぜなら、この世界をつくりたもうたアッラーは、ユダヤ人やキリスト教の聖典『旧約聖書』の"第一話"に登場する創造主と全く同じなんだから。

◆『クルアーン』2-62.本当に(クルアーンを)信じる者、ユダヤ教徒、キリスト教徒とサービア教徒で、アッラーと最後の(審判の)日とを信じて、善行に勤しむ者は、かれらの主の御許で、報奨を授かるであろう。かれらには、恐れもなく憂いもないであろう。

だからその事実を、神の言葉(のちに聖典『クルアーン』(コーラン)にまとめられる)を通して早く知るべきだ!

◆『クルアーン』2-113.ユダヤ人は言う。「キリスト教徒は、全く拠るところがない。」キリスト教徒も、「ユダヤ人は全く拠るところがない。」と言う。かれらは(同じ)啓典を読誦しているのに。知識のない者どもは、これと同じ(ような)ことを口にする。だがアッラーは、審判の日にかれらの論争に判決を下される。

この世界を創った神に比べ、人間は弱く、限り有る存在に過ぎない。

だからこそ偉大な神・天使・神の定めを信じ、神に服従する人類の共同体(ウンマ)を作ろうじゃないか。神に従わない人々の攻撃に対するを起こそうではないか!


資料『クルアーン(コーラン)』1「開扉の章」
1:1 بِسْمِ ٱللَّهِ ٱلرَّحْمَٰنِ ٱلرَّحِيمِ ۝
Bismillāhi r-raḥmāni r-raḥīm
神の御名の下に最高の慈悲を
(慈悲ぶかく慈愛あまねきアラーの御名において。)

1:2 ٱلْحَمْدُ لِلَّهِ رَبِّ ٱلْعَٰلَمِينَۙ ۝
Al ḥamdu lillāhi rabbi l-'ālamīn
全ての感謝は世界の神アッラーただ一人へ。
(たたえあれアラー、万有の主)

1:3 ٱلرَّحْمَٰنِ ٱلرَّحِيمِۙ ۝
Ar-raḥmāni r-raḥīm
アッラーは最高の慈悲を持ち、
(慈悲ぶかく慈愛あまねき方。)

1:4 مَٰلِكِ يَوْمِ ٱلدِّينِۗ ۝
Māliki yawmi d-dīn
最後の審判の日の支配者である。
(審判の日の支配者。)

1:5 إِيَّاكَ نَعْبُدُ وَإِيَّاكَ نَسْتَعِينُۗ ۝
Iyyāka na'budu wa iyyāka nasta'īn
我々はあなたのみを崇拝し、あなたのみに助けを求める。
(我々はあなたをあがめ、あなたに助けを求めまつる。)

1:6 ٱهْدِنَا ٱلصِّرَٰطَ ٱلْمُسْتَقِيمَۙ ۝
Ihdinā ṣ-ṣirāṭa l-mustaqīm
我々全てを正しい道に導きたまえ。
(我々を正しき道に導き給え。)

1:7 صِرَاطَ الَّذِينَ أَنْعَمْتَ عَلَيْهِمْ غَيْرِ الْمَغْضُوبِ عَلَيْهِمْ وَلَا الضَّالِّينَ ۝
Ṣirāṭa l-ladīna an'amta 'alayhim ġayri l-maġḍūbi 'alayhim walā ḍḍāllīn
あなたの怒りを与えられた者や自分の道を見失った者ではなく、あなたの恩寵を授けられた者の道に。
(あなたの怒り給うものの道、踐迷ったものの道ではなく、あなたの御恵みめぐみを垂れ給う人々の道に。)

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/開端_(クルアーン)。括弧( )内は、嶋田襄平・訳(江上波夫・監修『新訳 世界史史料・名言集』山川出版社、1975年、42頁)

***

ハッキリとした教義

ムハンマドは以上の教えを、いくたびにわたり断片的に神から授かったという。
それらを通して神の教えが、だんだんと全貌をあらわしていくこととなったのだ。

彼は、あの洗練されたユダヤ教徒やキリスト教徒たちが間違った認識でたてまつっている神様(アッラー)が、まさか"ど田舎"のアラブ人商人である自分に対して語りかけて来るとは思いもよらず、衝撃を受けた。

しかも、彼の口を通して朗誦される神の言葉は、合理的かつ、耳に優しく心地よい。
親族や友人を中心に、彼の教えに惹かれる仲間も増えていった。


お祈りをしたり儀式をしたりするときだけ信仰を形に表せばよいというわけではなく、普段の生活や人生の様々なイベントの際に、しても良いこと(ハラール)が何で、飲酒豚肉を食することのように してはいけないこと(ハラーム)が何なのかがハッキリ定められている点が特色だ。

そもそも人間は不完全な存在であることを認めた上で、神様との契約をしっかりと守ることができるように頑張ることが奨励されているわけなんだ。

従来アラブ人の信じていた神は、グループごとにたくさん存在した。

たとえばクライシュ族はメッカ(マッカ)のカーバ神殿というところで、さまざまな神様の像をつくり、それを祀(まつ)っていたようだ。

それに対しムハンマドは、神の言葉に従い、偶像をつくることを強く禁止する。

人間ごときに神の像などが作れるはずもなく、神というのは像を通して拝むものではなく、人間個人個人がその心と知性を通して祈り従う対象なのだとみなすからだ。
それはムハンマド自体の肖像画すら、描くことが制限されるほどの徹底ぶり。

そうすることによって、どの神を信じるかという争いもなくなり、平和が訪れ、商業も盛んになるというわけだ。



メッカから追われ、メディナへ

しかし、このように主張したムハンマドの話に対し、メッカの大商人は激しく反発。
ムハンマドは親族などを引き連れ、622年にメッカを脱出し、北西の都市メディナ(マディーナ)に向かった。この移動のことを「ヒジュラ」(聖遷)といって、のちにイスラームのカレンダー(ヒジュラ暦)の”はじまり”の年とされるようになる。

そこでムハンマドは、なんとメディナ内部の部族間の争いを仲裁することに成功し、メディナに唯一神(アッラー)に服従する人間による平和な共同体(ウンマ)を建設することが認められた。


史料 622年のメディナ憲章
[…]
18 ユダヤ教徒のなかでわれわれに従う者は、援助が与えられ、同等に扱われる。不当に扱われることも、彼らの敵に援助が与えられることもない。
28 アウフ族(注:アラブ社会の部族のひとつ)のユダヤ教徒は、信者と同様、ひとつの集団(ウンマ)をなす。ユダヤ教徒は彼らの宗教を、信徒は信徒の宗教を保持する。これは、彼らのマウラー(注:従属民)と彼ら自身に適用される。ただし、悪をなす者、罪を犯す者は除く。そのような者は、自らと家族を破滅させる。 

歴史学研究会編『世界史史料2』岩波書店


メディナのアラブ人のなかには、ユダヤ教を信仰する者ものいたけれど、上の史料のように、ユダヤ教徒にはその信仰を守ることが認められた
おなじ神を持つが”解釈”が異なるだけであるユダヤ教とキリスト教に対しては、「啓典の民」(けいてんのたみ)ということで特別扱いがされるからなんだよ。
商業を通して、さまざまな文化や宗教が交差する中で生まれた宗教だからこそ、一元的な支配に無理に組み込もうという発想とはならないわけだ。

メッカに帰還し、カーバを聖殿に

その後、幾度もの戦いを経て、630年に古巣のメッカ(マッカ)に戦うことなく入城。
クライシュ族の神殿があったカーバを、イスラーム(神に服従すること)の聖殿に定めた(カーバ聖殿)。

「神殿」と言わないのは、そこに「神の像」がないからだ。

単に祈る方向の目印として設けただけであって、中心には隕石由来といわれるカーバ(黒石)のはめ込まれた、石造りの立方体の建物(聖殿)がある。
信徒は、余裕があれば人生に一度は、このメッカのカーバ聖殿にお参りできたらいいねということになっている(巡礼(ハッジ))。

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当初はイェルサレムに向かって祈っていたのだけれど、ムハンマドは祈る方向を途中からメッカ(マッカ)に変えたのだ。

イスラームの信仰を受け入れたならば、地球上のどの場所にいてもこのカーバに向かって祈ることになっている。

祈り方も、個人的にアレンジが可能だとそれが分裂要因になることから、祈るときの動作や言葉についても細かく規定されているんだよ。



さて、アラブの諸部族たちは、ムハンマド軍の勢力を前に、神(アッラー)というたったひとつの神に対する服従をようやく受け入れ、和平が結ばれることに。

こうして630年頃にはアラビア半島はムハンマドと神(アッラー)の権威の下に、ひとつにまとまったのである。

こうして、古代オリエントで文明が栄えて以来、ながらく ”田舎もの”であったアラブの遊牧民に、俄然スポットライトが当てられることになるよ。









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