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【図解】ゼロからはじめる世界史のまとめ⑮ 1200年〜1500年の世界

◆1200年~1500年の世界

モンゴルにより世界がまとまり、大陸をまたぐ交流が刺激される時代

―ついにユーラシア大陸のほとんどの地域が「ひとつ」にまとまる時代がやってくるよ。 主役はどの民族だと思う?

う~ん、中国人とかですか?

―定住して生活している人には広い範囲を短期間でまとめあげるのは難しいなあ。


じゃあ、遊牧民ですか?

―正解!
    この時期、遊牧民がついにユーラシア大陸のほとんどの地域を制覇することになる。 主導したのはモンゴル高原を本拠地とするモンゴル人の国だ。
 これまでも遊牧民が定住民エリアを支配するというパターンはあったわけだけれど、この時代にモンゴル人がやった方策は画期的だった。



どんな方法ですか?

―年を追うごとに活発化していたユーラシアを東西につなぐ経済の「大動脈」。これを整備してビジネスを回すことで、 通行税や取引税をとることで 栄えようとしたんだ。



それだけスケールの大きなことができるほどの軍事力もあったってことですよね。

―遊牧民の戦力は人類史上最強レベルだからねえ。定住民が束になって挑んでも、遊牧民にとって良い条件がそろえば無敵だ。
  こうしてユーラシア大陸を多くのヒト、モノ、カネが移動するようになったのは、モンゴル人のおかげというわけだ。



各大陸にいる人間たちの結びつきが強まっていくきっかけをつくったわけですね。
―その範囲はアメリカを含む「地球全体」というわけではないから、「グローバル化」とはいえないかもしれないけど、ユーラシアのビジネスルートは西のヨーロッパやアフリカ方面ともつながっていたわけだから、少なくとも「ユーラシア大陸とアフリカ大陸の世界の一体化」ということにはなるね。


でも、どうしてそんな動きになっていったんですか?

―この時代に始まっていた「気候の寒冷化」(注:小氷期)が関わっているとみられる。
 詳しくは各地域ごとにみていこう。


ここまでの世界史をみていると、このような調子の良い状況はずっとは続かなそうですね。

―うん、その予感は当たってる。 人や動物の往来が盛んになればなるほど、病気も一緒になって移動するよね。今までは人里離れたところでしか流行っていなかった病気が、一気にユーラシアレベルに広がってしまったんだ。


「パンデミック」ってやつですね。 インフルエンザですか?

―当時、中国からヨーロッパまで猛威をふるったのは、ペストという病気だよ。各地でおびただしい数の犠牲者を出して恐れられたんだ。世界的に気候も寒くなって食料の取れ高も少なくなり、社会不安から反乱や戦争も多発した。

 その後各地で支配者たちがこの危機を乗り越え息を吹き返し、「自分たち意識」を強めていくことになる。一時期広い範囲がまとめられたがゆえに、逆に各地で「自分たち意識」が芽生えていったのだともいえる。


例えばどんな国の「自分たち意識」が強くなっていったんですか?

―西のほうではオスマン帝国。

 イランではペルシア帝国。

 インドではムガル帝国。

 中国では明(みん)という帝国。

 どの国もルーツや特徴をみると、かつてのモンゴル人の大帝国の影響がみられる。

 どの国も遊牧民のうじゃうじゃいる北のエリアは避け、活躍の場所を海へ移していった。

 海の貿易はモンゴル帝国時代も好調だったから、貿易の利益が期待できる。こうして、ユーラシア大陸の南の方の海の貿易が、史上もっとも盛んになる土壌が整っていったわけだ。


つまり陸から海へ、中心が移っていったと。

―そう。沿岸部が大盛況となる。それに応じて、航海の技術も各地で発展していった。


では、アフリカはどんな感じですか?

―こちらもやはりあちこちで貿易ブームで成功した国が栄えている。インド洋に面した東アフリカでは、 巨大な港町を支配する支配者(注:スワヒリ諸都市)が現れて、内陸から象牙とか金といった特産品を輸出してリッチになっていた。
 南東アフリカでは、内陸でも特産品をコントロール下に置いた王国が現れ、岩でつくった巨大な宮殿(注:グレート・ジンバブエ)もつくられている。

 一方、西アフリカではサハラ砂漠の横断貿易で、砂漠を流れる一本川の流域に巨大な国が栄えている。

 さらにそことエジプトの中間地点にあった湖(注:チャド湖)にも、貿易ルートをおさえた王国(注:カネム王国)があるね。


南北アメリカはユーラシアやアフリカ大陸との接点はないんですか?

―この時代のいちばんおしまいの頃、ようやく接点が生まれるんだ。当時、ユーラシア大陸の「ど田舎」だったスペインの王様(注:スペイン王国)が、貿易ブームに乗っかろうと、船乗りを雇ってアジアへの貿易ルートを開拓しようとした。
 それがひょんなことに、たどり着いた先はアジアではなく、ヨーロッパ人にとってはまったく未知の大陸(注:南北アメリカ大陸)だったんだ。


びっくりですね。

―当時のヨーロッパ人にとったらそれこそ「火星」に着陸するようなインパクトだよ。今まで自分たちの持っていた世界観がひっくり返るような出来事だもんね。

 それでもまあ現地に住んでいる人は、「宇宙人」ではなくて、自分たちと同じ「人間」なんじゃないかということになった。


 でも彼らには鉄や車も銃もない。 ヨーロッパ人の持ち込んだ病気でバタバタと倒れていくことになる。


どうして?

―免疫(めんえき)がないからだよ。 つまり、ヨーロッパ人とアメリカ人との出会いは初めっから「対等」ではなくて「不平等」な出会いだったわけだ。



◆1200年~1500年のアメリカ

―北アメリカ大陸の南のほうではアステカ人が広い範囲を軍隊の力で征服し、さまざまな民族を服属させている(注:アステカ王国)。ただ、服属せずに抵抗を続けたエリアも多かった点には注意したい。

 南アメリカ大陸のアンデス山脈のあたりでは、インカという巨大な国ができている(注:インカ帝国)。

  しかしどちらもヨーロッパから進出したスペイン人によって、短期間で滅ぼされてしまう(注:コンキスタドール)。

 鉄や車、それに馬がなかったことも大きいけれど、スペイン人の持ち込んだ病気が蔓延したことが大きな原因だ。


◆1200年~1500年のオセアニア

世界中で人の移動が活発になっているようですが、オーストラリアは依然として「孤立」しているんですかね?

―北のほうに中華の食材になるナマコを採りに来た人たちはいたみたいだけど、内陸で狩りをして生活している人々との直接的なコンタクトはなかったようだ。

 一方、オーストラリアの東にあるニュージーランドには、この時期にようやく人が移り住むよ。オセアニアの東方面に広範囲にひろがったポリネシア人の一派だ(注:マオリ)。


 だから現在でも、ハワイとイースター島とニュージーランドの先住民の言葉や文化には共通点が多いんだよ。​

ポリネシア人の拡散した範囲を「ポリネシアントライアングル」ということがある。上記のハワイに750年、イースター島に400年に到達との推定は1960年代に提唱された移動シナリオ(オーソドックス・シナリオ。これによれば図とは異なり、ニュージーランドには800年頃の到達とされていた)。現在支持されている年代は、ハワイに800年~1000年、イースター島に1000年、ニュージーランドに1250年に到達したとのシナリオだ(印東道子『島に住む人類』臨川書店、2017年、p.25より)。



◆1200年~1500年のアジア

アジアはモンゴル人の進出の影響をもろに受けていますね。

―そうだね。 モンゴル人の王様は、草原地帯では「ハーン」という称号を、中国人向けには「皇帝」の称号を名乗っている。つまり、草原地帯と定住民地帯の両方の住民を納得させようとしたわけだ。


両方を支配するなんて大変ですね。

―だよね。

 だから次第に支配の「重心」は中国にシフトしていくことになる。

ユーラシアの文明の「重心移動」についてはこちらの書籍か、岡本隆司『世界史序説』が読みやすくオススメだ。


どうしてですか?

―当時のユーラシアの貿易ルートは、陸から海へシフトしていたよね。ラクダで商品を運ぶよりも、船のほうが大量に運べるからだ。

 そこに目を付けた皇帝は、今の北京(ペキン)のある町に都を移して、長江の下流から運河を直結させた。その運河ははるか南の海につながっている。だから、遠く西アジアのイスラーム教徒とかインド人とか、さまざまな国の人たちが船に乗って直接乗り付けることもできるようになっていたわけだ。


モンゴル人はまさに世界を股にかけていたわけですね。

―彼らにとっては由緒正しい中国人の文化も「世界の文化のうちの一つ」に過ぎないという認識だ。だから役人には中国人ではなく、西のほうのイラン人などの有能な人材(注:色目人(しきもくじん))が引き抜かれた。徹底した能力主義だ。中国の古典を出題科目とした公務員試験(注:科挙(かきょ))も停止された。


モンゴル人の支配は続いたんですか?

―長くは続かない。その後、定住民の支配者がモンゴル人を追い出すことになるよ。それで「皇帝」を名乗って、モンゴル人から「皇帝」の称号を奪い返した。


あっけないですね。

―でもモンゴル人は依然として北のほうで帝国を存続させているから「滅んだ」わけではないよ。

 中国から撤退しただけだ。

 その後も定住民エリアの「リベンジ」をねらう動きは続くけどね(注:土木の変)。


どうしてそんなに定住民エリアが好きなんですかね?

―モンゴル帝国がさかんにしたユーラシア東西を結ぶ交易ルートを手中に収めたかったからだよ。

 モンゴル人を追い払って建国された明という国では、3代目の皇帝が大胆な「海上交易ルート掌握プロジェクト」を打ち出し、インド洋周辺にあった国々を武力をちかつかせて貿易に参加するよう迫っている(注:鄭和の南海大遠征。上の地図中の点線がそのルート。なんと東アフリカにまで到達し、”おみやげ”にキリンを持ち帰っている)。

 これが結果的にインド洋の貿易ネットワークを強化することになり、より一層海上交易はさかんになっていったんだ(注:大交易時代)。

 また、草原地帯の各地では、モンゴルの建国者の血を引く支配者によるさまざまな国が存続した(注:ロシアのキプチャク・ハン国、イランのイル・ハン国、中央ユーラシアのチャガタイ・ハン国)。



東南アジアでは?

―この時期には貿易ブームを背景に、イスラーム教を保護する支配者の国が栄えるのが特徴だ(注:サムドラパサイ王国、マラッカ王国)。

―ベトナム(注:陳朝)はモンゴル人の攻撃をブロックして民族意識を高め、現在のタイがあるところにははじめて「タイ人」による国(注:スコータイ朝)が生まれている。


西アジアでは?

―モンゴル人の侵入を受け、イラクとイランにはモンゴル人を支配者とする国ができた。でも支配者は途中からイスラーム教を保護する政策へと転換。

 一方、もともとイスラーム教の多数派のリーダーを保護していたイラクの国(注:アッバース朝)は滅んでしまう。


モンゴル人の影響は西アジアにまでおよんだんですか。

―うん。その後、中央アジアを本拠としたモンゴル人の国のひとつ(注:チャガタイ・ハン国)からは、もう一度「ユーラシア全土をモンゴル人によってまとめよう」という夢を抱く人物(注:ティムール)が出現。

 イランのモンゴル人政権を滅ぼし、さらに現在のトルコに向かった。

 ちょうどそのころ現在のトルコのあるところでは、トルコ人のイスラーム教徒が支配地域を広げていたところだった(注:オスマン朝)。

 両者は決戦の末、トルコの政権が敗北。しかし、その後、モンゴル帝国の復活を夢見たこの人物は中国奪還作戦に向かう途中に死去。

 結局その後の西アジアは、トルコ人のイスラーム国家が態勢を立て直し、ヨーロッパを含む地中海の東部に領土を広げていくことになるよ。



​◆1200年~1500年のアフリカ

―アフリカの東側に広がるインド洋では、貿易が大盛況だ。

 東アフリカ沿岸の港町(注:スワヒリ諸都市)にはイスラーム教徒やインド人の商人も詰めかけ、インターナショナルなビジネスの中心地となっている。

 アフリカのバントゥー系の人たちの言葉と、商人アラビア語が混ざって「スワヒリ語」という新しい言葉が生まれたのもこのころのことだ。

ハクナマタタ」はスワヒリ語で「どうにかなるさ」という意味。


西の方はどんな感じですか?

―西のほうでも貿易は盛んだね。

 サハラ砂漠では古来、金(ゴールド)を求めて 地中海の沿岸から 商人がラクダ貿易をしていたよ。


砂漠を越えるんじゃ大変ですね。

―ヨーロッパにあったポルトガル(注:ポルトガル王国)という国の支配者は、「サハラ砂漠を通らずに、海から金をゲットできないか…」ともくろみ、船を改良し、船乗りを要請して西アフリカに海側から乗り込もうとしたんだ。

アフリカの人たちはポルトガル人に対してどんな対応をしたんですか?

―「いい貿易相手ができた」と喜んだ王様もいたよ(注:コンゴ王国)。 内陸の敵対する民族を「奴隷」として販売し、利益を上げる者もいたくらいだ。


ちなみに、モンゴル人の拡大の影響は北アフリカにはありませんでしたか?

―あったあった。

 モンゴル人はまず、西アジアのイラクを支配していたイスラーム教多数派(注:スンナ派)のリーダーを殺害し、400年以上続いたイスラームを保護する国(注:アッバース朝)は滅亡。都市バグダードはモンゴル人の支配下となってしまう。

 しかしその後、リーダーの一族をエジプトの軍人王国(注:マムルーク朝)が「保護」したんだ。こうしてエジプトが一気にイスラーム教の「センター」に躍り出るわけだ。貿易も盛んになっていたから、ヒット商品となっていたサトウキビの輸出で経済的にも潤うよ。


ラマダン(断食月)明けの甘~いアラブ菓子が発達していくよ。



◆1200年~1500年のヨーロッパ

―この時期のヨーロッパでは、各地で強い国づくりを目指す支配者が現れる。たとえ領土が狭くても、農業やビジネスを盛り立て、ルールをちゃんと整えることで強い国をつくろうとしたんだ。


ヨーロッパには遊牧民(モンゴル人)の影響はあったんですか?

―ヨーロッパの東のほうにある平原は、中央ユーラシアの草原地帯とほとんど障害物なしにつながっている。だから古来遊牧民の侵入を受けやすかった。 このときにもモンゴル人がいともカンタンに侵入。今のロシアのあたりはなんと200年以上もモンゴル人の支配下に入ることになる(注:キエフ公国のモンゴルへの服属)。

 モンゴル人に支配のシステムを学び、そこから独立したのが今のロシアのルーツというわけだ。


ロシアってそんな過去を持っていたんですか。では、西のほうのヨーロッパにはどんな影響があったんですか?

―西のほうはモンゴル人の影響は直接的には受けなかった。

 だけどもヨーロッパって狭いよね。限られた土地をめぐる争いはますます激化するよ。 遊牧民の影響を受けなかった代わりに、ヨーロッパの支配者たちは、農民たちをガッチリ支配しようと、きめ細かいルールをつくってコントロールしようとする傾向にあった。


貿易はさかんですか?

―アジアに比べるとしょぼいよ。

 たしかに北のヨーロッパでは魚の塩漬けや木材がヒット商品となり、工業化が進んでいた南のイタリアの製品(羊の毛でできた服やカーペット)とさかんに交換された。

 でも、そんなヨーロッパよりもはるかに工業がさかんで特産品がたくさんあったのはアジアだ。


じゃあアジアと取引すれば儲かりそうですね。

―でしょ。でもそれがなかなかできないんだ。 アジアとの取引は地中海の東のほうの貿易センター都市(注:イスタンブール)や、エジプトのカイロという大都市でおこなわれていたんだけど、商売相手はイスラーム教徒。 キリスト教徒にとっては肩身が狭かった。

 しかもオスマン帝国というイスラーム教徒を保護する大国が勢力を広げると、大商人の多かったイタリアの都市の景気が悪くなっていったんだ。


イタリアはアジアとヨーロッパをつなぐ役割をしていたんですね。

―そうだよ。中国とインドをつなぐ役割をしていた東南アジアに似ているね。

 でも。アジアとの貿易の商売 金(注:東方貿易)が「あがったり」になると、しだいにイタリアのビジネスマンは余ったお金を新たな「もうけ話」に使おうとした。つまり、地中海を通らず、別のルートでアジアやアフリカと貿易する方法を検討するようになったわけだ。


各国の王様は彼らのプロジェクトに賛同したんですか?

―いち早く強い国づくりに集中することができていたスペインやポルトガルの王様は、イタリアの商人による「プレゼン」を聞いて、「こりゃ実現したら美味しい話だ!」と飛びついた。

 その結果、アフリカを南にまわってアフリカやインドと直接貿易するルートが開拓されていったわけだ。ヨーロッパ諸国が競うようにアジアやアメリカに進出するようになったこの時期のことを日本では「大航海時代」という。


でもどうしてアメリカに?

―当時のヨーロッパ人のアタマの中に「アメリカ大陸」の存在はなく、西に向かえばインドにダイレクトに到着できるって考えられていたんだよ。


でも実際には違いますよね。

―そう。西に向かえばアメリカにぶち当たるのは今考えるとアタリマエだよね。

 スペインに派遣された船乗りはインドに向かおうとしてカリブ海に到達。ポルトガルに派遣された船乗りもやはりインドに向かおうとして、西に流され、現在のブラジルに到達した。

 だからブラジルは現在でもポルトガル語を話す国になっているというわけだ。


世界史をずーっと見てきましたけど、ずーっと別々の道を歩んできたアメリカとユーラシアがようやくこうして連動するようになるんですね。

―たしかに大きな分岐点だよねえ。

 でもね、この流れに乗りそこねたのが、イタリアの北側にある王様の国々。 

 フランスやイギリスだ。 これらの国々は、キリスト教の教会に対抗して強い国をつくろうと、国づくりを整え、銃や大砲といった新兵器を導入してのし上がっていった。 対するキリスト教の教会も、本部のローマを中心に負けじと支配を整え「教皇を中心とする国」(注:神聖ローマ帝国)を整備していった。ヨーロッパ全体をキリスト教という”正義”によってコントロールしようとしたわけだ。


成功したんですか?

―いや…やっぱり話が壮大すぎるよね。 結局ヨーロッパ各地で王様の国が強くなっていくと、次第に実力を失っていくことになる。 次第に周りの国々も「自分の国の利益」という現実的な事柄を大切にするようになっていったわけだ。文化的にも、キリスト教という正義に代わって、より自由で人間らしい感情を大切にする風潮へとシフトしていくよ(注:ヒューマニズム)。

 また、これまでアジアとの貿易で荒稼ぎしていた地中海沿岸のイタリア諸都市は、ビジネスの中心が大西洋に移ってしまったため、その後は衰退の一途をたどる。


諸行無常ですね。

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