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5.1.6 分裂するフランク王国 世界史の教科書を最初から最後まで

フランク王国は3エリアに分裂

フランク人のカール大帝の「ローマ帝国」は、かつて西ローマ帝国だったエリアをまとめ上げた。

一見トップダウンによる中央集権的な国であるように見えるけれど、各地の領土は、カールが個人的な契約を結んだ家来(諸侯)に与える形で支配した。
各地を支配したのは、(はく)という役職だ。

ローマ=カトリック教会との結びつきも強くなり、フランク王国領内各地に教会・修道院が建設され、教会・修道院の保有する土地も拡大していった。


しかし”契約者”であるカール大帝が亡くなると、困ったことに。

もともとフランク人は財産を子供たちに分割して相続(そうぞく)する習わしがあった。
しかし、これだけ大きな国ともなると、相続地をめぐる争いが勃発するのは無理もない。

843年のヴェルダン条約によって、西フランク王国中部フランク王国(ロタールの国)、東フランク王国の3つのエリアに分けて相続されることが合意された。



西フランク王国は、セーヌ川、ロワール川、ガロンヌ川を中心とするエリアで、現在のフランスの中央部+西部にあたる。のちのフランス王国の土台だ。

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中部フランク王国は、現在のスイスからライン川流域にかけた領土で、カールが立派な王宮を置いたアーヘンも含まれていた。



東フランク王国は、エルベ川河口のハンブルクや、ドナウ川の上流部などにある。現在のドイツ西部から南部、それにオーストリアにあたる地域だ。

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しかし870年になると、ふたたび相続を要求するカールの子孫らによってメルセン条約がむすばれ、中部フランク王国の領土は、西フランク王国と東フランク王国によってもぎ取られてしまった。


これによりライン川流域は東フランク王国のものに。
中部フランク王国の領土は、「イタリア王国」として、ローマの教皇領に隣接する北イタリアだけになってしまったよ。





東フランク王国、西フランク王国、イタリア王国の3エリアは、言語的にも文化的にも“ご当地”意識を強め、それぞれその後のドイツ、フランス、イタリアのルーツとなっていく。




カロリング朝の血すじが途絶えた

カールの血筋であるカロリング家は、3エリアにおいて“由緒正しい”ものとされたけれど、乳児死亡率の高かった当時、家柄が安定的に続くのは難しい。

東フランク王国では、10世紀初め(今から1100年ほど前)にカロリング家の血筋がとだえた。
血筋のとだえることを「断絶」という。

もともとフランク王国の東の辺境であった東フランク王国の領土、すなわち「ドイツ」では、各地に有力な部族が立ち並ぶ状況だった。



東フランクの王が教皇から"ローマ皇帝"の冠をもらう


カロリング家という“レジェンド”的名家を失ったとき、“どんぐりの背比べ” 的有力部族たちのとった行動は「選挙」だった。




これら諸侯による選挙によって選ばれた国王は、ザクセン家出身の人物。
ザクセン家といえば、かつてフランク王国のカール大帝と壮絶な戦争を経験した部族だったよね。



このザクセン家から936年に即位したオットー1世(在位936〜973年)は、東方から侵入してきたウラル語系の言葉を話すマジャール人(ハンガリー人のご先祖)や、

スラヴ系の言葉を話すスラヴ人たちを撃退。



さらに北イタリアを制圧した。
やっていることがまるでカール大帝みたいだよね。




すでにイタリア王国では875年にカロリング朝が断絶。
イタリアにおける統一勢力はいなくなっていた。

)代わってローマを中心にする教皇のほか、地中海貿易で成長した港町が急成長。商人はジェノヴァヴェネツィアといった港町で武装し、しだいに影響力を強めていくことになる。



こうして数々の”外敵”を撃退したドイツのオットー1世は西ヨーロッパのキリスト教世界を守った功績が認められ、962年にローマ教皇ヨハネス12世から「ローマ皇帝」の位を与えられた。



ドイツの諸部族を束ねるザクセン族から、あの由緒正しい「ローマ皇帝」が出るというのは、日本で例えれば地元から総理大臣が出るよりも、もっとすごい話(笑)


オットー1世は地元では「ドイツ王」に即位していたけれど、「ローマ皇帝なんだから、ローマを含むイタリア半島を支配していないと格好がつかない」と、"イタリア出張"を繰り返した。
こうしたローマ重視の「イタリア政策」(10〜13世紀に、ドイツ王が積極的にイタリアを支配しようとした政策)に対し、ドイツの諸部族の視線は冷ややか。

ドイツがまとまらない要因となっていく。

ただ「ドイツ王」が伝統的に「ローマ皇帝」の冠を授かる習わしはオットー亡き後も続き、東フランク王国を受け継いだドイツ王の国は「ドイツ王国」ではなく「ローマ帝国」と呼ばれたんだ。

ドイツ人以外の民族も支配エリアに加えながら、しだいに領土を広げていき、のちに「(ドイツ人の)神聖ローマ帝国」と呼ばれるようにもなるよ。




西フランクは「フランス王国」としてパリ中心に発展

一方、西フランク王国はどうなっていたかというと、10世紀末にやはりカロリング家の血筋が断絶。

西フランク王である祖父を持つ、パリ伯のユーグ=カペー(在位987〜996年)が王位に就き、パリを拠点にカペー朝を開いた。

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けれども王の権力は弱体で、”家来“たちをコントロールすることはなかなか難しかった。


ローマ以来、農地の開発が進んでいたフランスでは、各地でパワーを持った”家来“たち(大諸侯)が好き放題バラバラに活動し、王の権力はすみずみまで行き届かなかったんだ。

カペー家のフランス国王が直接支配できたのはパリ近周辺(イル=ド=フランス)のみ。
”家来”であるはずの諸侯の領土のほうが広い、なんて事態が続いた。

このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊