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14.1.3 戦時外交と総力戦 世界史の教科書を最初から最後まで

バルカン半島の対立を”火種“にして勃発した「大戦」。

死傷者数といい、新兵器といい、それ以前にはありえないこと尽くめの戦争だ。


オーストリア=ハンガリー・ドイツ側の同盟国(中央同盟国)と、ロシア・イギリス・フランス側の協商国連合国)ともにそれぞれのグループの「まとまり」を強化。



「自分のチームが戦争に勝った後、敵の領土や植民地をどう分配するか」については、”取らぬ狸の皮算用“じゃないけれど、すでに戦争中に決めていた。


「ここを君の国にあげるから戦争に参加してくれ。」
イギリスは、アラブ民族とユダヤ人にパレスチナを含むエリアで独立する運動をサポートすると約束(フサイン=マクマホン協定バルフォア宣言)。




「戦後に自治をゆるしてあげるから兵士を出してくれ」
イギリスは植民地だったインドに、自治の見返りに兵士を提供させた。


世界中に植民地をもっていたフランス共和国や、ユーラシア大陸に広い領土を持っていたロシア帝国も、さまざまな民族を戦争に駆り出している。



この「大戦」は、ヨーロッパの強国同士がおこした戦争であるものの、ヨーロッパ人の支配を受けていたアジア、アフリカの人々も、ヨーロッパの事情で戦場にひきずりこまれ、命を落としていったわけだ。


長引く戦争に備えるため、参戦した国々では国内の「ふつうの国民」も、性別に関係なく「国のために優先的に働くべき」という空気が広がった。


反対派であった社会主義の政党の多くも「今は自分の国の方針を優先させるべきだ」と方針を転換。戦争中は各国の政府に権限が集中した。

工業は軍関係の工業製品が優先されるようになり、男性だけでなく女性や子どもも動員され、食料も配給制となった。

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「これだけ苦労して国に協力しているんだから、参政権をよこしてくれたっていいじゃないか!」という運動も活発化。
皮肉にも、これがs戦後の参政権拡大につながる。




イギリスやフランスは世界各地に植民地をもつ「帝国」だったので、自分の植民地から物資や資金、働き手や兵士をゲットできたからよかったけれど、ドイツ、オーストリア、ロシアにとっては大変だ。




経済がきびしくコントロールされるなか、都市に住む人の食料は決定的に不足し、しだいに食料をもとめる暴動や「戦争反対」のストライキも起きるようになっていく。


実際に1917年3月、ロシアでは労働者や兵士による革命(ロシア第2革命)が成功し、ロシア帝国が崩壊。
革命的労働者グループ(ボリシェヴィキ)が政権を奪い、”労働者による政府“(ソヴィエト=ロシア)が樹立された。


大戦中にロシア帝国が崩壊したことに、世界はびっくり。
ロシア帝国のやりかたに批判的な労働者による“新政権”(ソヴィエト=ロシアは、1918年3月にドイツ帝国と単独で講和する。

これにはずみをつけたドイツ帝国は、西部戦線で攻勢に出たものの失敗。
1918年8月からは連合国の軍の逆襲がはじまった。



秋には同盟国側のブルガリア、

オスマン帝国が相次いで降伏。



最初にセルビアに対し参戦したオーストリア=ハンガリーも休戦の協定を結んだ。



残るドイツ帝国も1918年10月に休戦の交渉を申し出。
急遽、本格的に議会中心の政治の体制をつくろうと、その場しのぎで「皇帝による政治」を続けようとした。
しかし、事態はそんなに甘くない。
1918年11月初め、「連合軍と即刻講和をするべきだ」とする水兵たちが、重要な軍港であったキール軍港で蜂起

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これをきっかけにドイツ帝国を倒す革命運動が全国に拡大すると、皇帝ヴィルヘルム2世はオランダに亡命する。


また、ドイツ帝国を構成していた国内の君主たちも次々に退位。
こうしてドイツは「共和国」となった。
これをドイツ革命という。


1918年11月11日、連合国の政府と休戦協定を結んだのは、この「ドイツ共和国」の政府だ。

こうして、約900万人の死傷者を出した未曾有の「大戦」は幕を閉じることとなった。


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