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史料でよむ世界史 13.3.6 東南アジアにおける民族運動の形成② フィリピン

東南アジアの地域は、タイをのぞくすべてのエリアが植民地の支配下にあった。
いずれのエリアでも、植民地支配に抵抗する運動がみられたけれども、その多くは弾圧され挫折していった。しかしこの時期の運動は、のちの民族運動に大きな影響を与えることになる。
それぞれの地域についてみていこう。


🇵🇭フィリピン


16世紀以来、現在のフィリピンの大部分は、スペインの植民地として支配されていた。
しかし、この時期になるとスペインに留学して大学に通っていた新しい世代のフィリピン出身者が、スペインの支配を批判する運動を起こすようになる。

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その代表的な人物がスペインの大学への留学経験を持つホセ=リサール(1861〜96年)だ。彼の像は実は東京の日比谷公園にもある。

1888年にヨーロッパに渡る際、日本に滞在した経験があり、その際、近くに住んでいた日本人女性(おせいさん)と恋仲になったというエピソードがある。


では、このホセ・リサールとはどんな人物だったのだろうか?


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1. ホセ・リサールをどう見るか?


ホセ・リサールは1861年、ルソン島の華僑(かきょう)とフィリピン系の混血の家系に生まれた。父は、ドミニコ会という修道会の土地を借りて、農業を営んでいた。マニラのアテネ学院にすすみ、さらにサント・トマス大学で医学を学ぶ機会に恵まれ、21歳でスペインに留学する。

フィリピンに「足りないのは教育だけだ」と確信したリサールは、フィリピンの人々にもスペイン人にも通じる「スペイン語」で、ヨーロッパ式の「小説」を書くことを決意。この『われにふれるな(ノリ・メ・タンヘレ)』(『新約聖書』で、復活したイエスが発した言葉である)の中で、「社会のがん(癌)」に立ち向かう若者たちの挫折を描き出した。

ここで、スペイン時代のホセ・リサールの言葉に耳を傾けてみよう。

この中にも出てくる「社会的ながん(癌)」とは、一体なにを意味するものだろうか?

●わが祖国へ
人類の病気の歴史に、ひとつのがんが記録されている。 それはきわめて悪性のものであって、ちょっとでもそれに 触れると、その刺激が、はなはだしく鋭い痛みを与える。 さて、わたしが近代文明のただなかにあって、あるいはおまえの思い出にふけろうと思い、または他の国々と比較し ようと思って、なんどおまえの姿を思い起こそうとしたこ とだろう。しかしそのたびごとにわたしの前にあらわれた なつかしいおまえは、いつもこれと同じような社会的ながんに苦しんでいる姿で目の前に現れるのだった。
わたしたちのものであるおまえの健康をこい願うがゆえ に、また最善の治療法をさがしもとめるために、わたしは おまえの病気に対して、古代人のやったやり方を、おまえ といっしょにやろうと思う。つまり、神に祈りに来る人々 が、その療法を教えてくれるように、病気を神殿の階段に さらけ出すのである。
そこでこの目的のために、おまえの現状を、なんの手かげんもせずに、忠実にここに描き出してみようと思う。わ たしは真実のためにはすべてを、自尊心でさえ犠牲にして、 この病をおおうベールをもちあげることにしよう。なぜなら、わたしもまたおまえの子として、おまえの欠点と弱点 とのために苦しまなければならないからである。
ヨーロッパ、1886年 ホセ・リサール



その後、ホセ・リサールは著作が原因で植民地政府によってにらまれるようになり、危険を察した彼は再びヨーロッパに渡航する。
はじめに紹介した日本滞在は、このときにアメリカへ向かう途中に立ち寄ったものだった。
この1888年における滞在後、アメリカ行きの船でリサールは末広鉄腸(すえひろてっちょう)という作家・政治家と仲良くなる。
鉄腸は、アジアに植民地をひろげるヨーロッパに打ち勝つためには、国力を高め、アジアみんなで連帯して立ち向かう必要があると考えていた。

のちに末広は彼をモデルとした小説をしたためることになる。
彼はどんなふうにリサールを見ていたのだろうか?



● 末広の語るホセ・リサール(1891 年)


「余の前年(1888 年)、西洋に遊ぶや、①マニラの一紳士を相識る。

マニラは南洋中にありて、スペインの植民地たるフィリピン群島の一なるルソンの首府なり、この紳士はひそかに群島の独立をはかりて成らず、捕われて獄に下らんとし、脱して海外に走れり。

余がためにスペイン政府植民政策のその当を失い群島人民の激動するありさまを説き、②人をして悲憤慷慨せしむ。(末広鉄腸『南洋の大波乱』)

(出典:綿引弘『100 時間の世界史』64、1991 年、地歴社

① リサールのことですね。  ②「…をして…せしむ

この史料だけを読むと、鉄腸という日本人がリサールらフィリピン人に共感し、スペイン人を追い出そうと共闘するストーリーが浮かぶだろう。

実際に、そのように紹介されることも多い(実際に、日本語版wikipedia — 「ホセ・リサール」の中で、末広鉄腸との交流は次のような書き方がなされている)。


1888年4月13日にリサールはサンフランシスコ行きの船に乗り込み、船中で後に衆議院議員となる自由民権運動の壮士、末広鉄腸と懇意になった[27]。英語が話せなかった鉄腸は「親切なフィリピン人青年が船で助けてくれた」と書き残しており、リサールは前述の僅かな滞在中に、多少なりとも通訳ができるようになっていたようである。当初の鉄腸の目的は訪米だったが、リサールと意気投合したために予定を変更して4月28日のサンフランシスコ到着後も行動を共にし、5月16日にリサールと共にイギリスのリバプールに到着した後、ロンドンにて別れている[28]。ロンドン到着後のリサールは大英博物館をはじめとする、イギリス、ベルギー、パリの図書館に通いながら古代史の研究を進め、スペイン人による植民地化以前のフィリピンの歴史を研究した[29]。1889年、ロンドンで日本の民話「さるかに合戦」とフィリピンの民話「さるかめ合戦」を比較した論考を著している[30]。(「ホセ・リサール」の項。2020/10/22閲覧


だが、鉄腸がリサールを主人公としてのちに著した政治小説『南洋の大波瀾』を見てみると、これとは別の側面も浮かび上がる。

この作品の中でフィリピン独立運動を行う登場人物たちが、実は日本とのルーツを持っていたという設定になっている。
そして彼らは最終的に「自力で独立を達成する」のをやめて、「日本に保護してもらう形での独立」を選択することになる。

最後の場面はこうだ。


● 末広鉄腸 『南洋の大波瀾』のラスト

三百年も外国の支配を受けし人民を以て西班牙に抵抗することは容易ならず、日本の国力は近来旭日の昇る勢ひあり、今度西班牙の兵隊と戦ふて勝利を得しも、全くは日本人の助に出で、我々の先祖も日本人なれば、緋笠濱〔フィリピン〕全島を挙げて日本の附庸と為し、其の保護を受くるに若かずと、夫婦相談を極めて其の意見を国内の人民に問ひしに、之を賛成するもの多数なれば、日本の事情を知れる松本に数名の日本人を付け東京に赴かしめ、多加山夫婦の書翰を両陛下に呈せしかば、両陛下は此れを嘉納し、開期中なる帝国議会に向ふて緋笠濱群島を我が版図と為すことを諮問し給ひしに、両院とも最多数を以て之を賛翼し、遂に多加山を華族に昇せ、終身魔尼羅都督に任ぜられたり。—西班牙政府も日本と魔尼羅の二国を引き受けて戦争を開くは不利益なりと思ひしにや、平和の談判に因り、南洋の群島を日本に譲與せしかば、南洋の大波瀾は茲に全く鎮定して、日章の国旗は古城の上に翻り。
(出典 山下美知子「南進のまなざし : 明治20~30年代におけるフィリピンの描き方」 (<特集>東南アジアの文化と文学)『総合文化研究』(東京外国語大学総合文化研究所)No.3、pp.77-99、2000年)


最近では世界史と日本史の関係を扱おうという取り組みも増えていて、末広鉄腸とホセ・リサールの関係も、「日本人とフィリピン人が、独立に向けて一緒にがんばった」というネタとして紹介されるケースも出てくるだろう。
しかし、そういうときこそ複数の材料から、多面的に事実をとらえようとすることが大切だ。

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さてこのリサールはといえば、1896年12月に陰謀を計画した罪で処刑されてしまう。

 

すでに1896年にスペインからの独立をめざすフィリピン革命の火蓋は切って落とされていた。

このフィリピン人たちによる「スペインを追い出そう」という動きに反応したのが、太平洋を越えてアジアへのビジネス進出をめざすアメリカ合衆国だ。
スペインを追い出した後、アメリカ合衆国はフィリピンを植民地化しようという野心に燃えていたのだ。

アギナルドらは、なんとか「フィリピン共和国」(マロロス共和国。1899〜1901年)の成立にこぎつける。初代大統領はアギナルドだ。


しかし、次なる敵は、アメリカ合衆国だ。
アメリカ合衆国は、1898年にはじまったアメリカ=スペイン戦争でスペインをカリブ海や太平洋のグアムとフィリピンから追放。
今度は出来立てホヤホヤの「フィリピン共和国」に侵攻し、
フィリピン=アメリカ戦争が勃発したのだ(1899年)。

アギナルドは逮捕され、

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フィリピン共和国は敗北。

アメリカ合衆国は1902年から本格的にフィリピンを植民地化する。これに対し、その後も南部を中心にイスラーム教徒などは抵抗運動を続けた。


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2.  日本人はフィリピンをどう見ていたか?


実は1898年、アギナルドは日本から軍事支援を得ようと、ポンセという人物を派遣してしていた。
このことは「大学入試共通テスト 平成30年度試行調査  世界史B」でも、以下のように題材として取り上げられている。


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この回想録を記したのは、宮崎滔天(みやざきとうてん)という日本人だ。

彼はアジア主義(「アジア」の人々が団結して、ヨーロッパ諸国に打ち勝とうとする考え)を持っており、すでに1897年には中国の革命家である孫文(孫逸仙)とも知り合いになっていた。

1898年には中国で、「憲法をつくろう」という政治改革(変法運動)をすすめたもののクーデタ(戊戌(ぼじゅつ)の政変)で失脚し、香港に逃げた康有為(こうゆうい)を助けて、そのまま日本に帰国するなど、国境を股にかけた活動をダイナミックにおこなっていた人物だ。



問6を解いてみよう。
康有為は「政治改革を阻もう」とした(問6の選択肢①)わけではないし、「旧守派」(問6の選択肢④。改革に反対した保守派のグループ)でもない。宮崎滔天は香港に渡り、康有為ら改革派を応援し、さらにフィリピンの独立運動にも理解を示したというのだから、「中国や他のアジア諸地域における民族主義を支援する活動」をおこなったという選択肢②が正解だ。


宮崎滔天は、アギナルドの派遣したポンセと接触するや、当時の外務大臣や陸軍大臣を引き合わせ、中古の銃をフィリピンに輸送する計画を建てた。しかし1899年、その船は沈没。計画は頓挫してしまう。

やはり文語体でちょっとむずかしいけれど、フィリピン独立革命について述べた、宮崎滔天の回顧録をみてみよう。


●宮崎滔天のフィリピン独立運動観 (『三十三年の夢』より)

「余やシナ大陸に存するものなり。しかして香港によりて菲島〔フィリピン〕の人士と交結す。
自ら顧みてまた多情に過ぎるを感ぜずんばあらず。
しかれども余はこれを抑制することあたわざりき。否、あえて抑制 することなくしてその情に従えり。

その始めてポンセ君(後に菲国独立軍の外務総長)と相見るや、 彼慷慨禁ずるあたわざるもののごとく、卓子をたたいていって曰く、人はその信頼するところのものに欺かるるより歯がゆきはなし。

わが国の現状実にしかり。君知らずや、さきに米国のスペインとを生ずるや、われらをして内応せしめて事平らぐにいたらば自主独立をゆるすを誓う。われらはその言を信じて命を賭して戦えり。自主独立を希(こいねが)うゆえなり。しかしてスペインは敗走せり。
おもえらく自主独立の民なるを得んと。いずくんぞ知らん、米国のために隷属を強いられんとは。

せっかくスペインと戦ったのに、結局はアメリカに「隷属」を強いられてしまった悲しみと怒りを、ポンセ君は机を叩いて宮崎滔天に語ったのだという。

ああわれらまさに何をなすべきか。自由のためにスペインと戦いしわれらは、今また自由のために米国と戦わざるべからざるなり。

しかり、ただ戦争の一法あるのみ。亜洲〔アジアの国の友よ、卿(けい)らまさにいかんかわれらの心事を憐れまんとするぞと。情やすでに悲し。その言あに多く聞くに忍びんや。

ここで話は、日本政府がフィリピンを援助してくれるかどうかという話になる。

交わりようやく熟するにしたがって談もまたしだいに熱し来たれり。

彼はアギナルドの日本に意あることを漏らせり。しかしこれまた衆民の意嚮〔意向〕なることを告げて、暗に日本政府の内助するや否やを余に判ぜしむ。問いや重大なり。

余はア氏〔アギナルド氏〕日本行の意を賛して、もし政府助けざるも民間中には必ずその人あるべきを告げ、その必ず決行すべきを慫慂(しょうよう)せり。彼曰く、ア氏の意すでに日本行に決す。ただしばらく部下を慰藉し、あえて軽挙ことを誤るなからしめんがために、内地に入りて命を含めつつ君もア氏の来たるを待てり。しかもついに来たらざるなり。ゆえに余は後事を宇佐君に含めて、ひとり広東省城に赴けり。
広東にては、日に興中会の諸氏と往来して交わりいよいよ堅く......」(『三十三年の夢』201 頁。改行は筆者による)

このような宮崎滔天の情熱を通して、この支援を「日本とフィリピンの間の絆」ととらえるべきだろうか。
「ヨーロッパをひとつにまとめ、アジアに平和をもたらす夢」を読み取るべきだろうか。
それとも、当時東南アジアに進出しようとしていたアメリカ合衆国に対抗し日本の勢力圏を広げようとする思惑を読み取るべきだろうか。



ともかく、その後の成り行きは、フィリピンの人々にとっては辛いものとなった。
数年後の1905年に日米間に締結された桂 - タフト協定という覚書では、日本はアメリカとの間で、日本の韓国の支配圏を、アメリカのフィリピンの支配圏を互いに認める取り決めを交わされている。

フィリピンが独立するには、さらに約40年の歳月が必要なのだった。


(参考)大西 仁「同一の夢、同一の物語 : 末広鉄腸『南洋の大波瀾』と明治期のフィリピン進出論をめぐって」『日本文学』、2005年、54 巻9 号、p. 21-31、Online ISSN 2424-1202, Print ISSN 0386-9903、https://doi.org/10.20620/nihonbungaku.54.9_21)

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