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11.2.1 クリミア戦争と列強体制の緩和 世界史の教科書を最初から最後まで



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「1848年の革命」で “分裂の危機” におちいっていたオーストリア帝国に手を差し伸べたのは、ロシア帝国だった。


オーストリアに対して自由をもとめたハンガリーのコシュート(1802〜94年)を撃退し、“革命取締官”として活躍。


まるで「ヨーロッパの憲兵(“武装警察官”)」みたいだと言われた。

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ニコライ1世


ロシア皇帝ニコライ1世は革命の混乱によってオーストリアの勢力が弱まったことは、「ロシアの立場アップのチャンス」と見て、ここぞとばかりに南下政策を推進。

オスマン帝国の中に生活している「ギリシア正教徒の立場がいじめられている!」いう理由をかかげて、1853年にオスマン帝国に開戦する(まあ、理由なんて何でもよかったわけだ)。

ロシアがバルカン半島に南下したことに対し、イギリスとフランスの政府は対抗してオスマン帝国を支援した。
「東方問題」にお決まりのパターンだね。


こうして、ナポレオン戦争以来、大国どうしの“正面衝突”のなかったヨーロッパに、嵐が吹き荒れた。

ロシア帝国   vs   オスマン帝国イギリスフランス


思い返してみれば、ロシアとイギリスが正面切って戦うのは、史上初めてのことだ。陸軍のスーパーパワーであるロシア vs 海軍のスーパーパワーであるイギリスの衝突は、ランドパワーとシーパワーの激突だ。


クリミア半島のセヴァストーポリ要塞をめぐって、激しい攻防戦が繰り広げられた。
近代兵器がいかんなく投入され、死傷者も増大。
戦場で負傷兵を科学的な知見にもとづき看護した人物に、ナイティンゲール(1820〜1910年)がいる。


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写真で記録された最初の戦争でもある




激闘の末、ロシアは惨敗。
1856年にパリ条約が結ばれた。


これによりロシアは黒海を中立、つまりどこの国のものでもないということを認め、1840年に結ばれた「ボスフォラス海峡とダーダネルス海峡に軍艦を通過させちゃダメ」という条項を再確認させられることとなった。


せっかくの大チャンスを無にしたロシアでは、戦争中にニコライ1世が死去。
代わってアレクサンドル1世は国内改革に専念することとなった。



こうして、クリミア戦争(1853〜56年)が終わると、ヨーロッパに再び不気味な静寂が訪れることに。

イギリスは1857年に勃発したインド大反乱の対応に追われたほか、

ほかのヨーロッパ諸国もそれぞれの国内問題の解決で手一杯だったのだ。



そういうわけで、大国(列強という)が共同歩調をあわせてヨーロッパの秩序を守ろうとした「列強体制」(1815年のウィーン体制によって生まれた)がうまくいかなくなったので、その後1870年頃までのヨーロッパでは、大国のコントロールを逃れ、比較的自由に行動できる体制が生まれた。

イギリス・フランス・オーストリア・ロシアといった大国に挟まれたエリアで、イタリア王国の成立(1861年)とドイツ帝国の成立(1871年)がこの時期に誕生した背景には、そんな事情があったのだ。



しかし、1856〜1870年頃のアジアの情勢はなかなか厳しい。
平穏が訪れたヨーロッパの大国が、こぞってアジアやアメリカ大陸に進出し、現地の人々を苦しめていくことになるよ。



このたびはお読みくださり、どうもありがとうございます😊